【#3】悪霊退散!
黒みがかった影がどんどん大きくなっていく。正確には自分達が近づいているのだが、蓮叶はそれよりも自分が飾子に手を引かれて空を飛んでいることに驚いて、そのことが認識できなかった。
影はこちらに気がついていないのか、空中をゆっくりと動いていた。よく目をこらしてみると、それは人間で、ラフな髪型をしているタンクトップ姿の男だとわかった。蓮叶達とは反対の方向を向いている。
「後藤陸、27歳。確か現世では……『強鯉会』? 『闘鯉会』? ……まあ何でもいいや、とにかく何かしらの暴力団の構成員で、今は他の大勢の構成員と共に『悪霊指定』を受けています。何かあったんですかね?」
飾子はその黒い影をまっすぐに見ながら言った。しかし蓮叶には理解できなかった。
「あ、すみません、実はたまに、あなたのように死後に天界に召されずに『幽霊状態』となる人がいるんですよ。そういう人は『悪霊指定』されて、攻撃対象となります。わらわ達の仕事は、生き返るべき人の誘導と、そういう『悪霊』をちゃんと天界に召すということです」
すると飾子が丁寧に説明してくれた。頭の中を見透かされているのではないか、と一瞬思った。
「まあこういうのは基本、温和に近づいていって、相手が油断したところを叩くだけでいいんですけどね。だって相手はわらわ達が成仏させようなんて思ってることをわからないんですから。すみませーん!」
人影の頭の髪と肌の境界線がだいたい分かるようになる距離まで近づくと、その人影を呼び止めた。男が素早く振り向くのがわかった。その表情は動揺に満ちていた。
飾子は少々わざとらしいともいえる笑顔をつくり、蓮叶を置いて男に近づいていった。
「あの、どうかされましたか?」
その声は、蓮叶が目を覚ました時とはまるで別人のようだった。蓮叶の時はもっと適当な感じがしたのだが、この男に対しては恐ろしいほどに丁寧だった。
「もしかして、急に空を飛べたことに困惑されてますか? 大丈夫ですよ! わらわがサポートさせていただき───」
飾子がそこまで言ったときだった。
ごっ、と鈍い音がした。その音はやけに蓮叶の耳の中を反響していた。反響が止む頃、飾子の頭と足先の位置が逆になっていた。要するに、頭が下、足が上に。
飾子は真っ逆さまに落ちていった。表情が一瞬だけ見えた。笑顔のまま固まっていた。しかしその左頬は赤くなっていた。殴られたのだ。彼女はそのまま池に落ち、ざぶん、と水の音を立て、波紋が広がっていった。
そして、止んだ。浮き上がってこない。
蓮叶はその一連の流れをじっと見ていた。だがそれは、小学生の時の怜華の喧嘩を見ていたのとはわけが違った。何かこう、もっと根本的な寒気というものを感じた。
「おめーら俺を殺す気だろ!? わかってんだよ!」
少しして男が叫んだ。暗い中でもわかった。その目は明らかに蓮叶の方を見ていた。なんでなんでなんで、あいつは自分達が成仏させようとしていることがわかっているんだ!? 狙われている───やられる!
次の瞬間、蓮叶は後ろに駆けていた。いや、そもそも空中に浮いていたんだから、その表現は間違いだったかもしれない。しかしとにかく、逃げようとした。体が思うように動かなかった。まるで、ゼリーみたいな流動体の中を泳いでいるかのようだった。
「おめーもあいつの仲間か! 死ねや!」
背後から鼓膜を破るような鋭い大声が届いた。蓮叶の心臓がびくりと跳ねた。それで蓮叶は何とか空中を動くこつを得ようと必死に動かしていた手足にさらに力を入れた。だがそれで移動速度が速くなるのなら苦労しないだろう。
第三者の視点から見れば、蓮叶と男の距離は少しずつ縮まっているのがわかるだろう。確かに男も幽霊状態になってから間もないが、蓮叶よりかは時間が経っていた。彼の方が、少しだけ空中移動に慣れていたと言ってもよいだろう。
蓮叶は振り返った。その瞬間、目を見開いた。
男はもう、すぐそこにいた。彼の太い腕を伸ばせば、握っている拳は蓮叶の頭に達するだろう。男はもう既に仕留めきったというような少し余裕のある表情をしている。腕は大きく振り上げられている。間もなくそれは振り下ろされるに違いない。
蓮叶はとっさに目を閉じた。
何かが頭をかすめた。
……しかし、一向に自分の体に痛みが襲ってこなかった。
感覚が無いということは、痛みを感じないうちに自分は死んだのかと思った。そこで目を開いてみた。目の前には、さっきと変わらない池と道路、そしてその向こうに広がる街並みが見えた。
死んでいなかった。
「こいつは驚いた。まさか野良の幽霊が野良の幽霊を襲ってるなんてな」
代わりに背中に声がぶつかった。だが先程まで聞こえていた鋭い大声ではなく、ちょっと高くて落ち着いていて、でも冷酷に聞こえた。
振り向くと、そこには別の少年がいた。
髪がぼさほさで、無愛想な印象だった。黒いライダーズに黒いズボンを着用していて、右手には1メートルは軽く超える大きな刀を、不良がバットを持つ時のように、右肩にのせていた。左目は巻かれた包帯で隠れており、代わりに何の感情もこもっていない右目が、じっと蓮叶を見つめていた。
少年は顔を池の方に下ろし、先程よりは少し大きな声で喋った。
「おい、こっち来いよ藤原のガキ。どーせ逝ってねーだろ。上がってこい」
すると池の真ん中が白いしぶきと共に盛り上がり、水をかき分けて飾子が出てきた。とりあえず、蓮叶はほっと息をついた。
「ちょっとー、一応わらわの方が生まれたのが早いから先輩ですよ! あと、ガキじゃないです! 歳はヨシカゼと同じですから!」
水面から頭を出した飾子は、その男に向かって不服そうに言った。しかしすぐに、蓮叶の方へと視線をやった。
「あ、そういえば後藤陸は……」
「俺がやったさ」
ヨシカゼと呼ばれたその男は、視線を蓮叶からずらさずに言った。多分飾子に言ったのだろうが、こちらを向いているせいで蓮叶に飛んでいった。それが蓮叶に到達した時、彼は後藤陸という男とはまた別の恐怖を感じた。体全体に重石が乗っかってくるような冷酷な声。蓮叶の体を氷のように冷たい物が、頭から足先に至るまで行き渡ったような気がした。
「で、藤原のガキ」
ヨシカゼは右肩にのせていた刀を鞘から抜くような動作で勢いよく振り下ろし、続いて蓮叶の首めがけて横薙ぎを見舞った。その刹那、刀の刃がどこかの建物のものらしい光源を反射して光るのが見えた。蓮叶の体に力が入ったが、幸いにも飛んできたそれは首元で止まっていた。
「こいつは誰だ? 幽霊状態じゃねーか。なんで成仏させてねーんだ?」
ヨシカゼの声が、すっかり闇に包まれた空間に広がっていった。
[名前] 後藤陸
[性別]男
[生没年]1998~2025
[家族関係]父:陽介
兄:拓
[説明]著名な暴力団である猛鯉会の構成員。本人は主に物品の手配を担当。しかし2025年12月、ライバルグループである児島組との抗争に巻き込まれ、銃殺。なお、有名になりすぎたので、「猛鯉会はもう理解した」というダジャレが生まれた。




