【#1】かつてあの場所だった池
今の生活に、誇りを持っていますか?
死ぬ間際に、ああ、人生に一片の悔いもない、と考えることができますか?
私には、あなたの答えがわかりません。
でも───。
夕暮れに近づいてきた橙色の空の下、左手に白い柵で囲われた池が見え、一車線の道路の左を歩いていた志賀蓮叶はそちらに目を移した。この池はいつからあったのだろうか。何のきっかけもなかったのに、ふとそんなことを思った。
「もうすぐだね」
彼の右隣で、彼の右手と繋がっていた左手の持ち主である蓬莱怜華が言った。その声は大して大きくもなかったのに、池の向こうに飛んでいき、消えていった。
2人はこの池の右の道を抜けた先にある図書館に向かっていた。その距離はおよそ100メートル。すぐにたどり着けるはずだ。
だが、蓮叶の足取りは、とても「すぐ」に図書館にたどり着けるほど軽いものではなかった。彼の頭の中に、少し引っかかるようなことがあったからだ。
怜華は最近、変だ。
その変化は、常に彼女の隣にいて、一時も離れることのなかった蓮叶にはとうの昔にばれていた。
蓮叶と怜華は幼馴染みだった。家は歩いて2分も経たない場所にあるし、小学生の時からクラスが違うなんてこともなかったし、とにかく、それは運命と言ってもよかったものだった。
だから、わかる。怜華は小さいときからとても活発で血の気が多くて、男子と殴り合いの喧嘩をすることもあった。喋り方も男子みたいな感じだった気がする。そして中学生になった時は、喋り方は流石に女の子っぽくなったが、入学二日目にしてちょっときつい言葉を放ってきた先生に対して20分も口論を繰り広げていたらしい。まあこちらは噂に過ぎないが。本人は「そんなに喋ってたっけなぁ」と言っていた。要するに、怜華はおしとやかな名前に反して、例えるなら小学生男児に近い性格をしていた。そして蓮叶は、そんな男子に負けないような強い性格であった彼女に惹かれ、図書館の裏で勇気を出して告白したのだ。怜華が現れる直前、何度も何度も「今日はやめとこうか」「いや、やはりしなくてはならない」と告白するかどうか葛藤していた時の心臓の鼓動は、まだ覚えている。それは速かったはずだ。緊張と期待の、二重の意味で。
それが今やどうだろう。高校生になってクラスが離れ、少しだけ、ほんの少しだけ話す機会が減ったとはいえ、性格に大きな変化が現れるような出来事はなかったはずだ。だが、今の彼女は蓮叶からすると、まるで別人のようだった。まず口数が明らかに減ったし、かつてはデートスポットと呼べるような場所をほとんど知らなかった蓮叶のデート先の提案にしょっちゅう意見していたのだが、今はほとんど、いや全く異議を唱えなくなった。まるで、怜華の着ぐるみを着た誰かと手を繋いで、新商品のスイーツの話をしているようだった。
そして蓮叶は、とある結論に行き着いた。
ひょっとして、怜華は自分に、魅力というものを感じなくなっているのではないか?
それは何が何でも認めたくない仮説だった。蓮叶と怜華は常に一緒だった。それこそ、小学校低学年の時に怜華がお気に入りの消しゴムを男の同学年の悪ガキグループに盗まれて、それが分かったときに素手で立ち向かい、3人を相手に圧倒し、結局怜華だけが先生に怒られていたのも、見ていた。そしてそのけんかに至った経緯を説明したのは蓮叶だし、そのおかげで怜華だけが罰を被るなんてことは無かった。高校生になっても、放課後は必ず会いに行っていた。
だから───そんなはずはない。
そして今日はそれを確かめるために、あの図書館に行こう、と言ったのだ。怜華は了承したが、あまり抑揚がないようにも聞こえた。
そしてここで、自分のことはまだ好きか、もしそうでないのなら自分の何が悪いのか、どこを直せばいいのか聞くつもりだった。これはやってはいけないのかもしれないが、これ以外に方法が思いつかなかった。
そして、今に至る。
「蓮叶?」
不意に呼び戻されて、蓮叶は我に返った。
「どうしたの?」
怜華がわずかに不安そうな表情を浮かべ、こちらを見ていた。
「あ、いや、何でもないよ」
「そっか……でも、何で急に図書館に行こう、なんて言ったの? 休みの日じゃなくて、学校帰りに……」
蓮叶は心の中で頭を抱えた。さて、どう返そうか。
急に行きたくなったから? いや、それなら怜華を連れて行く理由にならない。またデートしたくなったから? それなら怜華が言った通り休日に行けばいい。それか……もういっそのこと、今「本当の目的」を言うべきなのか? これに関しては……答えがわからない。
すると、そんな思考を勝手に1人で巡らしていた蓮叶を前に、怜華が口を開いた。
「……でも、嬉しいな」
え、と蓮叶の口から声が漏れた。多分、怜華には聞こえていなかった。
彼女を見ると、小中学生の時よりは穏やかになっていて少しぎこちないものの、見慣れた笑顔がちゃんとあった。
「蓮叶と一緒にいられるのって、やっぱり楽しいよ」
そう言って、怜華はにっとさらに強く微笑んだ。それで蓮叶はもう安心した。先程までの悩みが嘘のように消えた。怜華の顔が少し泣きそうになっていたように見えたのも、きっと嬉しさからだろう。本当によかっttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttt
次の瞬間、蓮叶の体は宙に投げ出されていた。その荷物を運ぶために動く鉄の塊───トラックに弾き飛ばされた彼は、軽く2メートル先まで飛ばされ、頭から落下した。その時に、彼の頭から、赤い液体が流れ始めた。
そして、何か模様のようなものが彫られたどす黒いタイヤが、彼の頭に迫っていた。
そして、タイヤが頭に触れ───
◆◆◆◆◆
天の下 ちにつきそまる 我が頭
この世去れども 我よりかれぬ
◆◆◆◆◆
この池は、かつてあの場所だった池。
◆◆◆◆◆
頭が痛い。
まず蓮叶が感じたのは、そのようなことだった。怜華のことも図書館のことも、その瞬間だけはおそらく頭から抜け落ちていた。オレンジが徐々に消え、代わりに青に近い黒に染まっていくものが目に入った。なんとか、それが空だと理解できた。まだ太陽は沈んでいないらしい。
体を起こしてみる。次に目に入ったのは、風のせいかわずかに波が揺れるのが見える池だった。これを見ていたら何か思い出せるかと思ったが、何も思い出せなかった。
自分は一体なぜ、こんな場所に……それも1人で? まあ、いい。とにかく、帰ろう。もう遅いから親にも叱られてしまうだろう。
すると。
「あ。目、覚めましたか?」
蓮叶の視界の上の方に、顔が見えた。少女だった。歳は蓮叶と同じくらい。目が大きく、顔立ちがよかった。たぶん「かわいい」部類に入る。遅れて、彼女の物と思われる長い髪が垂れ下がり、視界を塞いだ。
そして次に、こんなことを言った。
「不幸でしたねー。デート中に死んでしまうなんて……」




