壁のささやき
そのアパートの契約書にサインするとき、健司は自分の判断が正しいと信じていた。都心へのアクセスも悪くないこの立地で、信じられないほどの格安家賃。不動産屋の歯切れの悪い説明によれば、安さの理由はただ一つだった。
「前の入居者さんが…その、前の前の入居者さんも、皆さん、急に、何も言わずにいなくなっちゃう部屋でして」
夜逃げか何かだろう。健司はそう割り切った。学費と生活費を稼ぐためのアルバイトで心身をすり減らす彼にとって、この家賃は抗いがたい魅力だった。
荷物を運び込み、最初にベッドを置いたのは、隣室とを隔てる壁際だった。その壁、ちょうど枕元の高さになるあたりに、古い画鋲の跡のような小さな穴が空いていることに気づいたが、古い物件なのだからそんなものだろうと、特に気にも留めなかった。
最初の数週間は、驚くほど平穏だった。隣の部屋から微かに聞こえる生活音に壁の薄さを実感することはあったが、それだけだ。やはりただの噂だったのだと、健司は安堵していた。
異変は、ある夜、唐突に訪れた。
深夜、課題のレポートに取り組んでいると、ふと、女性の声が聞こえた。すぐ耳元で囁くような、か細い声。
『あなたにいる…』
健司はびくりと肩を震わせ、隣の部屋に耳を澄ませた。隣人は確か若い女性のはずだ。電話か何かだろう。そう自分に言い聞かせ、健司は再びキーボードに向かった。
しかし、その日を境に、声は毎晩のように聞こえるようになった。隣人が留守のはずの時間にも聞こえる。最初はぼやけていた輪郭が、次第に明瞭になっていく。やがて、棚の上の文庫本が落ちたり、誰もいないのに床がきしんだりと、物理的な現象も起き始めた。
健司は、怪異の原因が「自分自身に取り憑いた、この部屋の地縛霊」であると確信する。常に誰かにじっと見られているような、粘つく視線を感じるようになった。
当初は無視を決め込んでいた。この部屋を失うわけにはいかない。だが、怪異は健司の生活に実害を及し始めた。絶え間ない囁き声と物音による深刻な睡眠不足。そのせいで、居酒屋のアルバイトで注文を間違え、皿を割り、ついに店長から「次ミスしたらクビだぞ」と最後通告を突きつけられた。
このままではアルバイトをクビになる。収入が途絶えれば、この安いアパートすら維持できなくなる。原因を取り除かなければ、どのみち生活が破綻する。健司は、最後の手段に賭けることにした。来月の家賃のために貯めていたなけなしの金で、お祓いに行く。それは彼にとって、未来への最後の投資だった。
インターネットで調べた、評判の寺院を訪ねた。住職は健司の話を静かに聞き、本堂で一通りのお祓いの儀式を執り行った。読経の声が、健司の疲弊した心に染みていく。これで助かるのだ、と彼は思った。
しかし、儀式を終えた住職は、困惑したように首を傾げた。
「おかしな…。若者よ、あなた自身には、何一つ憑いてはおらんよ」
「そんなはずは! 毎晩、声が…」
「感じるのは、深い哀れみと、助けを求める声だけじゃが…その源は、あなたではない」
全財産に近い金を失い、しかも原因が自分ではなかったという事実に、健司は本当の絶望を味わった。アパートへ帰る道すがら、住職の「源はあなたではない」という言葉が、頭の中で何度も反響する。
俺じゃないなら、どこだ?
答えは一つしかなかった。この部屋自体が、呪われているのだ。
八方塞がりになった健司は、過去の行方不明者たちが何か手がかりを残していないかと考えた。管理人に頭を下げ、前の住人が残していったという遺品の入ったゴミ袋を漁らせてもらう。埃とカビの臭いが鼻をつく。その中で、健司は一冊の大学ノートを見つけ出した。前の住人だった女性のものらしかった。
ノートの大部分は、ごく普通の講義録だった。だが、最後の数ページだけが、彼女の必死の調査メモになっていた。健司の部屋がある、この土地の歴史や伝承について。
そのメモの中心に、健司は見慣れない遊びの名前を見つけた。
『魂抜き(たまぬき)』
メモには、古い文献から書き写したらしい記述があった。
『魂抜き。鬼に捕まった子は次の鬼になる。鬼から隠れる場所を仲間に知らせるには、鬼の名である「タ」の音を言葉から抜かなければならない』
たまぬき…たぬき…?
その響きから、健司は「た抜き」という言葉遊びを連想した。
ノートの最後のページは、乱れた筆跡でこう締めくくられていた。
『あの声は、ヒントだったんだ。「魂抜き」のルールを知らないと、本当の意味が分からない。私の前の人も、その前の人も、きっとこの声を聞いた。そして、意味が分からないまま…』
健司は全てを悟った。
自分に聞こえていた「あなたにいる」という声。あれは、"鬼"に捕まり、言葉に呪いをかけられた、歴代の行方不明者たちの悲鳴だったのだ。
あ・な・『た』・に・い・る。
お祓いが効かなかった理由も、今ならわかる。原因は自分ではなく、この部屋の、あの場所にいたのだから。
健司は、呪いの大元である"鬼"の居場所を探した。ノートの隅に走り書きされた「あの穴から見られている」という一文を頼りに、ベッド脇の壁へと向かう。
隣室とを隔てる壁。入居した日に見つけた、あの画鋲の跡ほどの小さな穴。
これが、全ての元凶。
恐怖で足が震える。だが、この連鎖を終わらせなければ、次は自分の番だ。健司は意を決し、その穴に、ゆっくりと目を近づけた。
穴を覗き込んだ瞬間、世界から一切の音が消えた。
そして、脳内に直接、声が響いた。それは男でも女でもなく、まるで無邪気な子供のような、楽しげな声だった。
『おいで』
がらんとした、静かな部屋。
窓から差し込む西日が、床に舞う埃をきらきらと照らしている。
部屋に、健司の姿はない。
ベッドが置かれていた隣室との境界壁。そこに、ポツンと穴が空いている。
それは、健司がこの部屋で初めて目にした時と何一つ変わらない、ただの小さな画鋲の跡。
部屋は静まり返っている。
もう、あの声は聞こえない。




