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虹色絵の具

作者: tenma

 雨が降ったら、髪の毛が湿気を吸い込んで重くなる。そうなったら、頭も重いし、当然、気分も重くなる。

気分が重くなると、どうしても誰かに胸のうちを語りたくなる。

だから・・・・・・と言ってはなんだけど、君にこんな手紙を送った僕の事を許してくれるかな?


今、君に手紙を書いている。君に対しての手紙だ。この手紙を書き終わる事ができたなら、封筒に入れて、近所に住んでいる子に渡すつもりだ。その子はね、雨 が降っても外で遊び続けている元気さを持っている。

なんだか羨ましくて仕方ないよ。だからこそ、あの子に、この手紙を渡すんだから・・・・・・。

一つしかない部屋の窓の下へと呼んで、そっとお金と一緒にこの手紙を忍ばせるとしよう。

目を瞑ると、まるでドラマのように次の瞬間へと動きそうだ。

他には――そうまるで、ビデオを見ているかのようにね。

けど・・・・・・あの子がいるまでに、手紙を書き終える事ができるのかが、心配だ。

もしかしたら、今日中には書き終えきれないかもしれない。

次の日も、次の日も、時間はかかるのかもしれない。完成しないのかもしれない。

だとしたら、どうしよう。その日に、あの子は窓の下で笑っているだろうか。代わりに笑ってくれているだろうか。それだけが心配だ。ひどく心配だ。

この部屋から出て・・・・・・あの嫌な知らせでもしそうな赤いポストの口へと、

僕自身の手で入れれば、それで解決する事なんだろうけど。

僕は部屋から出られない。いや、出られないと言うわけじゃない。

出たくない。出たくないんだ。それだけなんだ。


 そうだ・・・・・・、部屋の中から一生でないと言うのを考えたことがあるかい?

一人。誰かが来るまで一人だ。この僅かな広さの部屋の中で、

一人で部屋にいる事を想像してくれ。君ならどんな気持ちだい?

寂しく思うのかい?

僕は違う。寂しくなんかない。むしろ落ち着く。

こんな醜い僕の事を周囲に見られる方が、僕にとって耐えられない事だからだ。

僕は・・・・・・できれば、僕は、一生・・・・・・一人で部屋に閉じこもりたい。

もう、誰とも会いたくない。誰にも会わず、誰にも看取られずに、この部屋に居続けたい。

誰にも邪魔されず、誰の邪魔もせずに。それができたら、最高だ。

この小さな感動もほとんど何も与えない部屋で、生き続けるんだ。

それが僕に相応しく、唯一の居場所になる。


 今の僕はたった一つの絵を見ながら、絵を描いて過ごしている。

それが僕の選んだ最良の生き方であって、償いだ。

償いと言う事さえ驕っている言葉だ。僕の臆病を彩っている。

でも、僕は償いと言っている。こんなになってまで、僕は僕を偽って、

才能によって苦しむ若き天才のような自分を偽っている。

天才なんかじゃないのに。絵だけは売れていく。

僕は天才のふりをしているのに。僕を天才と仰ぐ人がいる。

特別なんかじゃないのに。特別だという自分がいる。

僕は特別のままでいるのに。心は特別じゃないという自分がいるんだ。

逃げているだけなのに。それなのに、僕は強がっている。

この部屋へと。逃げているのに。この部屋の中へと。逃げているのに。

脱獄者が望むように本当の自由になりたいのに。

僕は囚人のように囚われる。周りに脅かされながら、朝も昼も晩も、心休まる時なんてない。

僕はただ君の目から、周囲の目から・・・・・・この部屋に隠れる事で、長く逃げ続けたいと思っているのかもしれない。

けれど、こうやって、君に手紙を書こうと思ったんだ。

それは、僕の、初めての勇気なのかもしれない。

できれば、このまま勇気を振り絞って・・・・・・いや、やめておこう。

僕にそんな勇気はない。このまま、書いていることにしよう。


 覚えているかい・・・・・・。君と一緒に夢へと駆けた青春時代を。

どこまでも飛べると思っていたあの翼の力を。見えないけれど、そこにあった栄光を。

何でも出来るという自信が、そこにはあった。傲慢で、恥ずべきことなのに。

それが分からないほど、僕の翼は広く大きいものだった。

けど、翼は、儚いものだった。あの翼は、時と言う名の、あの悪魔によって手折られた。

あっけなく失い、飛べなくなった。それなのに、僕は、今も、捨てられないんだ。

挫折と言う苦い蜜を舐めた今でも、諦めきれない。

ここから君の為へと言いながら、失った夢を狂気孕んだ現実の中で必死に掲げている。

だから、描いている。今でも絵を。だから、書いている。君への手紙を。

ああ、けど、君への手紙。何を書けばいいか分からなくなった。

こんなことを書くうちに、僕は、僕の本当の書きたかったことを忘れた。忘れていくんだ。

・・・・・・でも、書いていたい。書きたい。でも何を書いたらいいんだろう?

僕にはわからない。だから、書くしかない。


窓から見える雨を見るたび・・・・・・僕は気が滅入る。

あの雨のように、僕はまだ泣いているから。

 過ぎ去りし、あの日の事を書こうと思う。そうする事が正しいように思えてきたからだ。

せめて、僕の手紙で、君のあの青春を思い出してくれればと・・・・・・願わずにはいられない。

高校生だった僕たちの青春を。あの校舎での出来事も。

どれだけ、僕が後悔しているのかを、わかってほしいから・・・・・・。


 雨が降ったから、キャンバスをなぞる黒鉛を掴んだ手がジットリと汗ばんだ。

季節は梅雨に入ったばかり。雨がいつでも降っている嫌な時だ。

僕は絵を描くのをやめて、たった一人だけの静かな部室を眺めることにした。

用意された三つの椅子が部屋の隅に置かれて、来るべき友人でも待っているかのように、

期待を込めながら、今もなお、佇んでいる。

視線をずらし、あの形の悪い彫刻物が置かれた場所なんかをみたりして、ただ・・・・・・ただ時間を潰していた。

ガラス窓が突然に揺される音。そんな音に驚かされて僕は、外を見る。

灰色の雲が、まるで未来への暗雲でも暗示しているようだ。

僕は食い入るようにして、泣き出している雨を見た。今から思えば、それが、僕の未来を暗示していたんだろう。

その時の僕はそんな事に気づきもしない。

もし、叶うなら、そんな僕に会えるなら、

僕は僕に向かって『お前は、ろくな奴にはならない』と脅しつけたろう。

でも、そんな事はできやしない。


できやしないから、僕はそう言える。


 実を言うと僕は絵を描く事が嫌いだ。ひどく嫌いだ。僕が美術部に入って、切ないぐらいに思ったことだ。

僕には悲しいぐらいに絵を描く才能は、無かった。たった一パーセントでさえも。

生まれてきて、今の今まで、どうして、そんな簡単な事が分からなかったんだろう?

高校の美術部に入って、僕がそう思うのに到ったのはワケがある。

単純に嫉妬のせいだと言うことだ。

才能がない者がついつい持ってしまう、才能ある者に対しての嫉妬。

人気のない美術部で、僕は嫉妬に値する人と出会ったから。


美術部には僕の他に三人いる。

その内の一人は幽霊部員で、なかなか来ないから、名前も知らない。

そうして、あとの二人は、僕より一つ年上の△先輩に、そうして、同級生の*だ。

△先輩は、開催されたコンテストに入賞した事がある人だ。顔は、・・・僕の記憶の中では、ぼやけていて何も言えない。絵を描く時、眼鏡をかけている事は記 憶に残っている。

絵のデッサン力などに優れていて、全体にバランスが取れている。

僕にはない感性で、見る人を納得させるぐらいの実力は持っている。

けれど最近、いい絵がかけてないようで、大して入選してなかった。その後も知らない。

当時から、彼の描いた絵は、僕に何の感銘も与えなかった。僕が鮮明に覚えているのは*の方だ。

*は、僕の後から入部したにも関わらずに、僕よりも才能があることが分かった。

見栄えのしない、ちょっと鼻が丸い女の子なんだけど、

それでも、パッと顔を輝かせて喜びながら絵を見せてくるのは、魅力的だ。

 あの時も、*は僕に絵を見せてくれた。僕も絵を完成するために、忙しかったけど、

見るのを断ることが出来ずに、小さなキャンバスを受け取る。

苦虫を噛んだ顔をした人の絵を描いていたようで、頭が右斜め上へと伸びている。

片方の目は近寄り、もう片方は、潰れた鼻から遠く離れている。

唇は、上へと曲がり、ピンク色の肉感を持っていた。手足のバランスは取れてない。

右手は小さなカエルの手に、肩から大きな腕が伸びきった後に、

残りの手がぶら下がっている。首には変な咽喉仏がでて、腰から上しか描かれてないんだけど、それが人なんてとは思えない代物。

目の方なんて、規則正しいように、離れすぎていて、デッサンが狂っていた。

なのに、なのに、僕は、その色に目を奪われた。

小さな四角の世界の中で、黒髪を彩る色。茶色に青と白が互いの色と結ばれあい、

可笑しな事に色に人格が出来たように敬意を払ってさえいる。浅黒い肌を塗った色は、一種の健康的な色気さえ感じさせて、目の前で揺れる。

キャンバスの白もそうだ、背景としての一体化を見事なまでに魅せていた。

絵の全体を見ていると、絵の中の人物のようなものが不機嫌にこちらをみる幻を見た。

急にニンマリと口を動かしたような幻覚に襲われる。

も、瞬きすると、そんな幻はかき消され、現実に絵がそこにある。

 僕が*によって驚かされたのは色の使い方なのだろう。

あの色が、僕を絵の中へと引き込んでいく。

僕が、その絵を見て呆然としていると、*はニコニコしながら言った。

「それ、あげる」

目を見開くようにして、僕は彼女の方へと顔を向ける。

「それ、君の事を描いたの。だから、あげる」

「・・・・・・僕はこんな顔をしていたのか」

「違うよ、ちょっと芸術面に徹しようと思って。気に入らなかった?」

僕は、絵のほうに視線を戻して、じっと見る。僕は応えない。

*は、こんな冗談を人にする。授業中に描いた絵をこの部室にもってきては、彼女の友人たちを描いた絵を並べては、喜んでいた。

その日が、初めて彼女から絵を貰った時だった。

彼女は自分が描いた絵を惜しげもなくやる。

けど僕が欲しそうにしなかったから、結局、その日から、もう絵を彼女からもらえる事はなかった。

僕は、それが残念で仕方ない。だから、こっそりと手に入れた。

美術室の奥に立て掛けられた絵を、僕は絵の具まみれの手で掴んだのを覚えている。

忘れられない。*が僕の為に描いてくれた絵は、今でも、部屋に飾っている。

それが、僕の部屋にある。決して、気に入らなかったわけじゃない。

そうやって、楽しく絵を描いている事が、僕にとって数十倍も数百倍も憧れる事だったんだ。その事を分かっていたのに、僕は僕自身を追い詰めていく。


 あの日も雨が降っていた。雨の雫が、そっと部室の窓をリズミカルに叩く。

けれど、時間がたつにつれて、雨音は強くなっていった。そして僕は、嫌な気分になる。

傘があるないに関わらずに、僕は雨が嫌だった。今も嫌だ。天罰のように、僕を苛むからだ。

僕は視線を、キャンバスの、ちょっと汚れた白を見る。雨音から逃げるために、絵を描くことに集中した。

――何を書こう――

その頃に描かなければならない絵は、僕にとってコンテストに出品する初めての絵だった。

だから、気が高ぶって何を描けばいいのかを、考えていた。

けど、本当に分からなかった。人生は、分からない事だらけ。

だけど、僕には分からない事が多すぎる。

考えあぐねて、いろいろと試行錯誤をしたけれど、僕の中にはなんの材料もない。

そんな時、才能さえあれば、もっと上手くなれば・・・・・・と、自分を痛めつけた。自分を罵る。罵る事で、自分を痛めつけて傷つける。そうやる事で自分を 深く傷つける。早めに完成させて、周囲を驚かそうと言う気持ちはなくもないけど、人よりも先に描こうとして、かけなかったら、本当に、嘲笑の対象でしかな い。

だからこそ、いま描かなきゃならない。

だけど、降っている雨は・・・・・・ひどく、僕の心を掻き乱す。

灰色の不機嫌な雲から、その邪悪な恵みとやらが、僕を苛立たせる。

涙のように、大地へと侵略する。この地を惜しげもなく蹂躙する。

雨に打たれた窓ガラスが、悲鳴を上げて、涙を流す。

一方的な暴力。僕は、そう空想して、声にせず笑う。

でも、腕時計へと目を移すと、舌を巻く。

――どうしよう、時間だけが過ぎる――

僕は、あの時から、焦っていた。

部室の引き戸をガラガラと音を立てて開いて、*が入ってきた。

僕は、キャンバスに隠れるように、頭を引っ込める。

長い間、会わなかった親しい旧友でも会うかのように、走る足音がした。

木の床を上履きでかける音。

僕の後ろへと回り込み、背中越しから、キャンバスの絵を見る。

ちらりと、*の横顔を見る。興味津々で見ていたけど、僕が何も描いてないのを知ると、ひどく悲しそうな顔をした。なんで、そう悲しい顔をしたのか分からな い。

「雨のせいだ」

僕は弁解をしてみせた。

「雨が降ったから・・・・・・」

僕は、そう言う。と、バカらしくなって、ため息をついた。

「雨、嫌い?」

そう*は言ってきた。そんな事、僕の態度を見たら分かってほしい。

「嫌いだ」

「そう?」

「そう、だ」

僕は語尾に力を入れて強調して見せた。

すると、*は喜んで見せた。本当に、喜んでいるから・・・・・・僕は分からなくなる。

「じゃ、外に出てみよう。」

「・・・・・・」

そう言って、*は僕の手を取った。僕は、どう対応すれば分からない。分からなかった。

今でも分からない。雨が嫌いだという僕の腕を掴むと、子供のように、無邪気に・・・・・・はしゃぎながら、僕を部室から外へ連れ出したことを。

途中、担任の教師とすれ違う。髪を後ろに束ねた化粧の厚い先生は、含みのある笑みで、僕らを見送る。

僕らが廊下を走ったことも、気にせずに口元に手を当てている。それだけで僕は不機嫌になる。ほっといて欲しかった。無関心でいて欲しかった。誰もが、誰か を気にしなくなるように。

雨音が近づく。僕は自分の髪が気になる。けど、*はお構いなしだ。屋上への階段まで連れて行く。

彼女が何をしたかったのかが分からないけど、感謝している。

絵がかけないのに、椅子に座っても意味がなかったと僕は考えたからだ。

扉を開けると、外の空気が流れ込んできた。生暖かい風が、僕の髪を蹂躙する。

せっかく、手で整えたのが無駄になった気がする。

そんな僕の気持ちなんて無視して、*は隣で空を指差した。

「空からモノが落ちてくるって不思議じゃない?」

「・・・・・・」

彼女の問いかけで、僕は雨が不思議かどうかを悩んだ。

両腕を組んで、空を見る。雨は、空からシャワーのように勢いよく降り注ぐ。

空から落ちてくるサマは、よくよく考えると奇妙だった。

なんで降っているのだろう?

そりゃあ、もし雨の恵みが無かったら、水不足になって、

人は生きられなくなる。それは分かっているけど。

不思議に違いないけど。でも、やっぱり僕にとって雨は雨だった。

「やっぱり、雨は嫌だ」

「そうなの?」

「泣いているようだから」

「そうね。まるで、泣いているようね」

「だろ?」

僕は同意した。

「こうやって、泣かれたら、こっちまで陰気になる。だから、僕は雨が嫌いだ」

そう言っている間も、朝にセットした僕の髪の毛が、とても気になる。

水気をすって、変な形になるのが、気に入らない。その時の僕の本当の気持ちだ。

僕だって、男だ。

外見には、そうとう気を使っている。

だから、本当に、本当に、嫌だった。

湿った空気に、自慢の髪の毛がどんよりとした雰囲気をまとうなんて、

・・・・・・格好悪いもの。

僕は気にするように、自分の髪に触れる。そうすると彼女は、微笑みながら言う。

「でも、泣いた後はスッキリするね」

彼女はくるりと、回転するように、こちらを向いた。

「・・・・・・」

「いっぱい、いっぱい、泣いたら、そうして、最後に笑えたらね。

空のように綺麗になれるかな。私もね、雨はそんなに好きじゃないんだけど、

雨の後の虹が好き。だから、雨は好きかな。あれ、おかしいね。アハッ」

「・・・・・・」

僕は彼女が話すのをほうっておいた。*は、なおも聞いてくる。

「雨が好きじゃないのに、虹があるから、雨が好きって、おかしいよね?」

「そうかな?」

僕は大して合わしもせずに、建物の中へと戻ろうとする。

「今日は、いっぱい雨が降っているから、虹も綺麗だよ、きっと。

絶対、見なきゃ。見られなかったら、雨が本当に好きじゃなくなるから」

詩でも詠うようにして、彼女は僕の後ろからついてくる。

上手くもない歌は、どこかラジオで聞いたような曲だった。

雨上がりの虹・・・・・・僕はそっと考えた。・・・・・・いいかもしれない。


 まだ何も描かれてないキャンバスの前に座り込んで、それから数日間ほど僕は必死になって、虹を想像した。

吹き付ける風と雨が、ガタガタと窓を揺らす。その日も雨だった。程なくして、先輩も部室に来て、

僕たちはろくな話もせずに、絵を描くことに集中した。

白い世界に黒い補助線が引かれて、絵の構図を考え出そうと、試行錯誤する。

こうでもない、ああでもない、これでもない、それでもない。

違う、違う、違う、それの繰り返し。

描いてはやり直し、描いてはやり直した。

そんな事、何日間も続けると、本当に描きたいものが描けると思ったけど、

上手く出来ない。気持ちだけが焦る。


数日たって思い出した。

雨が降ったあの後、あの日に、僕は本当の虹を見てなかった事に。

僕は虹を見もせずに虹を描こうとした。

それが失敗だった。あの日の雨は、止んだのだろうか?

止んで、虹が見られたんだろうか?

そう思いながら、僕はため息をつく。

止んだにしろ、止んでないにしろ、もう虹はない。あの日の虹は見られない。

もし、この雨が止んだとしたら・・・・・・雨が降り終わったら、見よう。見るとしよう。

僕は、そう心に決めたんだ。決めていたんだ。

けど、僕は虹を見る事を忘れてしまった。


 その次の日の部室。僕が部屋に入ると、*はいなかった。部室には△先輩だけがいて、何気なくキャンパスを見つめている。それを横目に僕は、課題となる絵 を書く準備をし始める。

用意するのは、虹を描く為の絵の具などだ。準備中、△先輩は僕を見つめてくる。

沈黙に耐え切れなくなって、僕はどんな絵を描くのかを訊ねた。

「別に。花の絵を描いている」と先輩は言う。

「花の絵? 花壇に咲いてある?」

「そうそう。そーだなぁ、体育館の裏に菜園部が植えている例の花壇だよ。

けっこうな数で、どれを描くか迷ったけど、チンパンジーにした。

なんか、そんなのが描いてみたい気分なんだ。そりゃあ、菜園部に借りるのは大変だったぜ?」

そう言いながら、先輩は窓際を指差す。窓枠の下には、植木鉢がおいてあった。

そこには、先輩の言う花があった。

「借りるのに、もう、30分近く粘ったよ。ったく」

先輩は一人愚痴る。大して大きなコンテストじゃないけど、そうやって、自分の描きたいものを描けるコンテストだったから。でも、僕には描きたいものはな い。描けない。

時計を見る。時間がやけに早い。部活は放課後から始まる。

基本的には部活は6時まで続けられるけど、まだ*は来てない。扉のほうを見る。一向に開く気配もない。

そんな僕の様子を笑いながら△先輩は、言う。

「*ちゃんは、風邪で休みだって、よ」

「そうなんですか」

「ああ。先生から連絡があって。・・気になるか?」

「いえ、別に」

「そっか。しかし、なぁ。親しそうにしている割には、知らないもんかね」

先輩が含み笑いした。口調を強めて言い返す。

「違うクラスなので」

「同じクラスじゃなかったのか?」

「いえ」

「ふーん」戸惑っていると△先輩は、こう言った。

「そういえば、*の描いた絵を見たか?」

「えっ?」思わず聞き返した。

「そりゃあ、凄かった。雨上がりの虹でさ。綺麗だったよ。

お前も見せてもらえ。きっと勉強になるから」

「そうですね」

「確か、部室においてくって言っていたから・・・・・・そこ、その彫刻の後ろだ」

そうして、上半身の腕のないどこかの英雄の石像の後ろを指差す。

僕は、そこへ行き、宝物でも扱うように、布でまかれたキャンバスを取り出す。

恥らうように隠れた絵。僕はシュルシュルと、服を脱がすかのように、白い布をその絵から剥ぎ取る。

我ながら、変な描写だ。その布から零れるようにして、色があふれた。

そこには、虹があった。僕は生まれてこの方、こんな虹・・・・・・見たことがない。

生まれてはじめて見る様な虹だ。きっと、見て描いたんじゃない。僕は、理解した。

彼女が虹を見ていないことを。

だって、あの日の雨は、夜まで降り続けていたから・・・・・・その事を誰かに聞いて知ったか、それとも思い込みなのかは分からない。何せ、振り返った過去 は曖昧すぎるから。

ああ、きっと見たかった虹を見られなかったからこそ、彼女はこの絵を描いたのかもしれない。虹を見たから描いたのではなく、見るために描いた絵。それが、 この絵だ。この虹なんだ。夕焼け色のキャンバスの布地の中の地上には、鉄のフェンスを取り払われた屋上から見える街が、決め細やかに描かれていた。雨上が りで静けさを伴う街。その 上空には躍動感さえ思わせる虹。

まわりには、奇妙な妖精が飛んでいる。決して、嫌らしさを感じさせない健康的な肌をさらけだした妖精たちは、

虹を作り出すために絵を描いている。ところどころで、悩んだりしている。――ここに、色を付け加えたらと、指示している妖精もいる。

特に、仕事もせずに、遊び呆けている妖精を見た時、ちょっとだけ、僕は微笑んでしまった。

妖精なのに、ひどく人間的な仕草。

ある者は、怒られ、

ある者は納得して、あるものは、ひどく落ち込んでいる。

細やかに描かれていた。中でも凄いのは虹だ。

妖精たちが描き上げた虹は赤から紫までの7つの色が、それぞれの色を、お互いにお互いを認めていた。仲の良い連れ添った夫婦が、溶け込むような温かさを色 に感じた。強調して溶け込んでいる。

その色は一つの新しい色を、虹色の絵の具で塗られたように思わせる。

僕の視界に色が飛び込む。

僕の頭の中をざわめかせる。

僕は、綺麗なものを見ている。目の前には綺麗なものがある。

けっして、僕じゃ作ることができない世界。

その世界への道は僕の前に現れることが出来ない。

天才と凡人の差。

それを様々と見せ付けられた僕は、二つの道が残されていた。

一つは賛美し、拍手を起こること。

もう一つは目を閉じて、この綺麗なものから一刻も早く逃げ出すことだった。

僕は、僕の傲慢で、臆病な人間なんだ――だから、後者を選ぶしかなかった。

僕は卑怯者だ。僕は臆病者だ。

・・・・・・僕は、愚か者だ。

そうじゃなかったら、僕が謙虚でさえあったなら、

僕は・・・・・・その場で絵を見続けては、*を尊敬していたろう。

でも、そんな事をせずに、部室の床に落とした布を手に取り、絵をまた元通りにする。

隠してしまう。

 見なければ良かった。見ないほうが良かった。

後悔していても、自分の手は狼狽していなかった。

こうやって、絵は、また、元の場所に戻すことが出来る。でも、僕の心は戻る事はない。

綺麗なものから、目をそらしても、落ち着くことなんてできやしない。できやしない。


 そんな僕の心にどんよりとした嫉妬が宿る。囁くようにして、なぶるようにして、僕の心の主導権を握る。

あの絵とは対照的な醜い心。改めて思う。僕には、こんなのは、描けない。

僕には一生かかっても、この絵には、勝てない。そう確信させる絵だった。

 絵に、優劣を感じることはないけど。人は自分にないものを持っているとどうしても、欲しくなる。僕は、それが人一倍強く、僕の心は人一倍弱かっただけ。

改めて、自分が惨めに思えて、自分の描く絵が好きじゃなくなった。

完全に。


「なっ、すごいだろ?」

「ええ。ビックリしました」

「それだけか」

「・・・・・・はい」

「なあ、もっと、こう感動したらどうだ? これは凄いっ・・・・・・とか。」

「ですから、ビックリしました」

人形のように話し続けた。平静を装って、自分の荷物のカバンをとり、適当に自分の道具を詰め込んだ。部屋から出ようとした。

「どうした?」

「用事があるので・・・・・・もう、帰らせてもらいます」

「そか」

「明日も・・・・・・来ます」

「おう」

僕は、部室から出て行く。先輩は強い人だ。彼のように強くあればよかった。

廊下ですれ違う人と、肩をぶつける。

後ろで舌打ちする声がしたけど、謝りもせずに僕は駆けた・・・・・・駆け出した。

どこを、どう走っているのかさえ、分からないほど、

視界はぐちゃぐちゃになっていた。熱い涙が出てくるのを腕で、ぬぐう。

僕には才能は、一パーセントもない。だけど、努力をしなきゃならなかった。

けど、けど、けど、だけど・・・・・・。僕の心に宿った闇は、僕を嫌な奴へと変えていく。


 次の日も次の日も、僕は*を避けた。避けて、瞳もあわせない。

あわせてどうする? 会ってどうする?

僕には、彼女と会って何を言えば分からない。恋だったら、まだ・・・・・・よかった。

だけど・・・・・・恋ですらない。口も利かない。

たった一枚の絵で、僕は嫌な奴になった。

見るものが総て嫌になった。絵は、描き殴るようにして、そのままにした。


 描く事じたい嫌だった。情けないほど、自分が弱く嫌な奴と気が付いているから、

なおの事、僕は僕を嫌いになる。*の魅力的な笑顔は曇り始めた。

僕が相手にしないと、泣き出しそうになる。

彼女は僕に気があるんだろうか。あんなに素晴らしい宝を持っているのに、*は、彼女は、僕なんかに。

僕が、それほど良い奴に思えるんだろうか。だとしたら、間違っている。

僕は、汚い。僕は、臆病な卑怯者だ。自分勝手なエゴで、彼女を苦しめているのに・・・・・・曇った*の表情を見ては、僕は、僕の弱い心を満足させていっ た。

悪意が利己的なエゴが、僕を嫌な奴へと変えていく。

もう既に、僕は嫌な奴になってしまった。

完全に。


 暗い嫉妬を胸の中に持ち続けるのは、爆弾を持つことと同じだ。導火線に火がついたように、それが僕の心に向かって突き進む。僕の中の綺麗なものは、それ を止めようとするけど止められない。

僕には綺麗なものも、才能も残されていない。プライドも、あの絵を見せ付けられた瞬間、地に落ちて砕けた。

陰湿な火を止めるものなどない。どこにもない。嫉妬の炎は僕の心へと近づく。線香花火のように。

 とうとう、それが爆発したとき、僕は、彼女の頬をぶった。

ぶっていた。パチンと言う音。酷く乾いた音だ。いつも通りの美術室の中で聞きなれない音が反響している気がした。僕の手の平には、彼女の熱を奪ってしまっ たかのように熱かった。

彼女が床に倒れる様子を見て、ザマミロと思った。彼女を本当に傷つけた瞬間、胸が高鳴った。荒い息が僕の口から吐かれる。

「ウルサイ、うるさい!!!」

僕の方をむいた彼女。頬を押さえて、驚いて見開かれた目に涙がぽろぽろと流れる。

赤く腫れた頬の上をなんども線をなぞるようにして、涙が零れているのは、悪いように思えた。僕は、それを見ても後悔しなかった。

「お前に、何が分かる・・・・・・何が分かるって言うんだっ」

そうして、僕は部室から飛び出して、僕の方こそ泣きたいと、自分自身に甘えた。

今から思えば、なんてバカだったんだ・・・・・・。

もし、もし、昔の自分に会えたら、僕は、自分自身に唾吐くだろう。

張り倒すかもしれない。それでも、未来の僕もいないし、過去は、過去だし、現在の僕は、悪意の言葉を吐きながら、涙した。こんな状況は、*が、彼女が作っ た。いつも通りに。

「それじゃ、ダメだよ」

口を閉ざして、ギュッと筆を掴んでいた。僕はただ、腕をふるって絵を描いてた。色を塗っていた。グチャグチャと絵の具を混ぜ合わせて、ベチャと、色をつけ る。技術もへったくれもない。適当に。

「それじゃ、ダメだよ。もっと、愉しみながら絵を描かないと」

愉しみながら、楽しみながらだって。 思わず奥歯を噛み締めてしまう。遂には筆を止めた。

お前に、何が分かるっていうんだ。 僕は苦しくなって、とうとう腕を振る。

それから・・・・・・は、もう後の祭りだ。とめる事はできない。

もう、どうでもいい・・・・・・僕は苦々しい思いと晴れない気持ちで涙した。

涙が流れる。嗚咽する。僕は口を押さえた。袖で、流れる涙の粒を拭った。どちらも、なかなか止まらない。

なんで、僕には才能がないの。なんで、僕は、僕は、嫌な奴なんだろ。


*は、次の日、僕に会うと、謝ってきた。

『ゴメンナサイ』って・・・・・・。

謝らないでくれ。僕の心は壊されていく。惨めになる。優しくしないでほしい。僕の事なんか、吐き捨てても構わない。もう、何も言わない。言えない。僕の心 は言葉で殺されていく。綺麗な言葉で殺される。

殺される!!

でも、それでも、表面上は何もないように過ごす。自宅で、そっと“あの絵”を思い出しながら、彼女の描いた絵をなでた。いつもどおりの面をし ている自分が、笑っているように見える。僕をバカにするのか。嘲るのか、笑うなら笑え。僕も笑うから。笑うから、僕をどうにかしてくれ。無かった事にして くれ。

 時間が無為に過ぎた。僕は部室に来て、いつもどおり絵を描く。美術室には、△先輩と・・・・・・*がいる。

僕は誰とも口をきかない。いつも通りのはずなのに、部室中だけは、別の世界に行ったように、異質なものだった。△先輩が口を開く。

「お前ら、何かあったのか?」

「いいえ」と*は言う。

「まさか、告白したのか?」

「違いますよ」

「そうか。まあ、付き合ったなら、付き合ったで言ってくれよ。祝ってやるから」

「ほんと、違いますってっ」

二人は話を弾ませて、絵の話になる。

僕だけ取り残された。その会話に入らず、ジッと絵と向かい合っていた。

あの虹以上のモノを描いてやる。そういう想いで描いて、僕の嫉妬を・・・・・・。

キャンバスの中の嫌な自分にむかって、筆を下ろした。


 絵は完成した。けれども、それはあの絵の虹を似せたものだ。

粗悪品は粗悪品でしかない。それでも僕は、コンテストに出す事を決めた。

コンテストに出品して、僕は落選した。評価はされない。当然だ。あれは違う。あの絵は違う。好きなものや書きたいものはない。

*の絵は不思議なことに、賞はとったけれど、それほど、絶賛な評価はされなかった。

けれど才能の片鱗が見える・・・・・・と言う言葉が、僕の耳に入る。誰が言ったのかは、気にならなかった。

その言葉が僕を傷つけた。弱い僕は傷つけられた。

ああ、そうだ。才能だ。僕に少しでも、少しでも才能があれば。

僕はこんな思いをした。こんな思いをしてまで、なんで絵を描く必要なんてあるんだろう?


 僕は、絵を描かなくなった。美術室へも近寄らなくなった。

そして時間は、ビデオテープを先送りしたように青春を進めた。△先輩は卒業していき、会わなくなった。それから、どうなったか分からない。*とも会うこと がなくなった。

同じクラスになっていたけど、僕は話そうともしなかった。時は、まだまだ過ぎ去る。


 卒業式さえ終えて、学校を去るとき、僕は自分の描いたマガイモノの絵を持って美術室に入った。外は、土砂降りの雨が降っていた。嵐が来るそうだ。

それでも、まだ僕は学校に残っていた。学内放送も、先生の制止も聞かずに僕は残った。

親しい友人もいず、何かを成し遂げたわけでもない。この学校でやった事といえば、このマガイモノを描いたことだ。描いたものは、自分で始末しなければなら ない。

前とは違った部室には椅子も増えていた。きっと、誰かが入ったんだろう。

窓から、雷光の反射によって僕の顔は照らされた。

窓ガラスに自分が見えた。まるでホラー映画の一場面のようだ。

近くの椅子に座った。

キャンバスを立てかけるために手を広げたイーゼルに、絵を乗せた。

あの時のコンテストの為に描いた絵・・・・・・マガイモノの絵。じっと見つめる。

見つめながら、唇を噛んだ。この絵から、なんの才能も見られない。

カバンから筆箱を取り出し、中からカッターナイフを取り出した。手の中にすっぽり収まるオレンジ色をしたカッターナイフの刃先を、カリカリと音をたてて、 出した。刃を、立てかけた絵へと近づけて、ゆっくりと刺し込む。画布に、一線の亀裂が走った。

自分の絵を傷つける、その背徳の行為は、僕を興奮させた。陶酔させた。

堕ちた僕の絵を前にし、またもやカッターナイフで切りつけた。斬り続けた。

僕の絵は、悲鳴をあげるようにして、裂かれていく。僕の心と共に。

・・・・・・僕は、自分を引き裂いて、後悔と共に、苦しみも何もかも流れさせたかった。

なんども、なんども、絵を裂いた。

才能が。

才能が、才能がない。僕には才能は一パーセントもない。

奥歯を噛み締めながら、叩きつけるようにカッターを振り下ろす。

カッターの刃が欠けて、床で回転しながら、扉のほうへといく。

僕は目だけで追っていって、人影にぶつかる。

扉の前には、顔色を変えた*がいた。一瞬だけ凝視した。

お互いに探るような、長い一瞬。けど僕は絵を切り裂く事に夢中になっていた。

彼女から目を逸らすようにして、マガイモノへと視線を移す。

この時、彼女が誤解さえしなければよかったんだ。

いきなり*が、抱きつくようにして、カッターを奪おうとする。

僕が欠けたカッターでも、まだ、絵を引き裂こうとしたからだ。

彼女は何かを叫んでいるようだけど、僕は恐怖していた。

僕の魂ごと、自分の絵を切り裂こうとした。腕を一心不乱に振り下ろした。

・・・・・・気づけば、彼女は手を押さえて、しゃがんでいる。

僕の手は血だらけで、何が起こったのか、理解できなかった。

でも気づいた。怪我したのは僕じゃないのに気づくと、自分は、とんでもない事をしたと思った。低い悲鳴が、自分の口から洩れる。

「うわあぁあああああああああああぁああああぁぁあああああああああああああ!!!」

人が来ても、僕は悲鳴を上げ続けた。僕は、とんでもない事をしでかした。

そんな中でさえ、僕は、自分の事だけしか考えなかった。

悲鳴を上げながら、僕自身のこれからの事を想像しては悲鳴を上げる。


 僕は病院のベットで横になっている。精神を安定させるための薬の投与で、意識は混濁して、夢と現実の境界線がつかない。看護師の誰が告げた言葉を拾って “彼女の指は動かない”と聞こえた。

『可哀想に、あの女の子の指みた? あれじゃ絵が描けないでしょ?』

『しっ、聞こえるわよ』

『聞こえてもいいわ、彼、自分がやった事なんだから。知っておくべきよ』

『それもそうね』

会話を聞きながら、軽蔑を含んだ声が僕の心をざわめかせた。

自分の指も動かなくなれば・・・・・・と願った。爪を立てて、少しでも自分を傷つけようとしたけど、僕には、そんな勇気すらなく、*が絵を描けなくなった 事に安堵感さえ覚えた。

これで、僕は救われたんだろうか?


あれから、色々あって、両親がわざわざ仕事場から高校にいる僕を引き取った。

僕は知ってのとおり、甘やかされて生きてきたから、親達は*を傷つけた事を叱ろうとはしてくれない。

それでも僕は、学校を辞める事になって、遠い所へ引っ越すことになった。

僕がそう頼んだからだ。

怖かった。*がとても怖かったから。

忌まわしい、そこから、逃げ出したかった。

僕が最後にあの高校に現れた時、彼女と偶然に会った事がある。

引っ越す前に、自分の心と決着をつけたかったからだ。

自分の事を傷つけたのは、僕の故意的じゃないよねと言ってくれた。

自分が、自分が間違って・・・・・・そんな事を言う。

そんな事を僕に言う。

今でも、その言葉を思い出して聴くと、震える。

僕を憎んでいるのに、恨んでいるはずなのに、なおも、庇おうとする。

庇われるほど、優れた人間じゃない。

もっと忌まわしくて、低劣で、保身的な奴だ。天才でも、世を憂いている訳じゃない。

僕のような奴が、才能のない人間が、君のような才能のある人間の才能を奪っていいものか!!

許してくれ、許してくれ。僕は、裁かれたかったんだ。でも怖かった。君が。*が。

*に対して、「僕を裁いてほしい、許して・・・・・・」そういうのが、怖かった。

それでも僕は、悪意をぶつけられたかったんだ。

そうしたら、僕は汚い僕でいられた。それさえも、許してくれないのか?

それさえも、君は僕を・・・・・・それが、君の復讐だったのか?

だとしたら、君は残酷だ。

でも本当に僕をかばおうと思ったんなら、僕は君が嫌いだ。

本当に、僕の事を想ってくれているんだとしたら・・・・・・残酷すぎる。

こんな醜い僕に情けをかけることが、君の復讐だとしたら・・・・・・考えすぎだろうか。

君と言う人間といるというだけで、僕は自分が醜いことを思い知らされる。

だから、僕は君が嫌いだ。

嫌いなんだ。


 こうやって手紙を出すことさえ、本当は難しい。こうやって、恨み言を書くことなんて、本当はしたくない。

・・・・・・ごめん、恨み言を書きたかったわけじゃない。こんな事を書くつもりじゃなかった。


 世の中には、僕が理解できない事ばかりある。才能なんてないはずなのに、それでも、絵を描こうとする僕。そんな僕が、最後に、君に知ってもらいたかっ た。君がどんな暮らしをしているのか分からない。


でも、幸せでいて欲しい。


僕は、それを言いたい。


 あの時、僕は本当に絵を切り裂きにきたのだろうか。

もしかして、誤解した彼女に対し、誤解するようワザとそう振舞ったのかもしれない。

そうだと言ったら、君に恨まれる事ができるんだろうか?

僕には分からない。

人生は、分からない事だらけ。だけど、僕には分からない事が多すぎる。

あの子は、いつの間にかいなくなっていた。どうしたんだろう?

元気な子だったのに。僕はどうやって、この手紙を君に届けたらいいんだろう?

あの絵と一緒に送ろう。誰かが、これを見つけてくれるなら。

久しぶりに、鏡で自分を見た。他人のように見える。

――手紙を送らなきゃならない――



手紙を受け取りました。


祖母は、本当にアナタの事を恨んでいませんでした。

アナタは高校の時の祖母しか知らないようですね。

祖母は小学生の頃から、アナタのことを知っていました。

アナタはその事すら知らないようですけど。

アナタは昔から、絵を描く事を好きでしたね。

自分の好きな絵を描いては、微笑んだアナタのことを、

祖母は、幼い頃、いつでも私たち家族に聞かせてくれました。

アナタにとって、彼女はとるに足らない人間だったかもしれません。

けど、祖母は小さい頃から絵を描く事を楽しそうにしているアナタから、

モノを見る事を教わったといっていました。

その喜びを教えてもらったと言っていましたから。

感謝していると、いつでも私たちに言っていましたから。

祖母がもし生きていたら、アナタのことを許したのだろうと思います。

アナタを苦しめるためじゃありません。

アナタを苦しめたいわけじゃありません。

アナタの事をとても想っていましたから。

祖母からの悪意をもらいたかったようですけど、もう手遅れです。

アナタはとても長い時間を過ごして、

祖母がなくなった事さえ知らないでしょう。

時間は本当に何もかもを奪い去ります。

愛も憎しみも・・・・・・もう手遅れなのです。


最後に、祖母は幸せだと言っていました・・・・・・。

アナタの心に残るような絵を描けたんですもの。

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