元カレが、いまも私を求めてくる件について。――正直、めちゃくちゃ困ります。いや、めちゃくちゃ嬉しいですけど!?
内侍は硯蓋に置いた文をそっと手に取った。修理大夫様から久しぶりに文が届いた。数年ぶりに文を交わしたあの日から、もうずいぶん経つ。熱に浮かされたように「今でも私のことを愛しいと想われますか?」と尋ね、彼が「今でも愛しいと思うております」と返した瞬間から、止まっていた時間が再び動き出した気がした。
修理大夫様と文を交わし合う日々は、官吏としての顔しか知らなかった彼を、まるで若かりし頃の「阿呼」に戻したようだった。私たちは互いに伴侶がいるという現実を忘れたかのように、夜な夜な他愛のない話や、互いの気持ちを確かめ合うような文を重ねた。彼の「お逢いとうございます」という文に胸が締め付けられ、自分も同じ気持ちであることを打ち明けるたびに、現実から遠く離れていくような、甘く危うい感覚に溺れていった。
でも、いつまでもこの夢に浸るわけにはいかない。熱しやすく冷めやすい気質だと、修理大夫様はよく言っていたけれど、今回の感情は自分でも少し違った。このまま進んでしまったら、取り返しのつかないことになる。そう思い、内侍は意を決して「もう、現実に戻りましょう」と告げた。
彼は衝撃を受けていたようだけど、このままではいけないと彼もわかっていたのだろう。あの濃密な時間から解放され、文は次第に当たり障りのない挨拶や季節の便りばかりになった。まるで、あの熱い日々は最初から存在しなかったかのように。
再び修理大夫様が、あの頃のように近づこうとしているのはわかっていた。でも、もう昔のようにはいかない。「もう一度やり直したい」と正直に伝えられても、きっと応じることはないだろう。
そんなある日、修理大夫様から文が届いた。どこか湿り気を帯びた、冷たい紙の感触が指に伝わった。
修理大夫様からの文:
「久しゅうございます。いかがお過ごしでしょうか」
内侍からの返文:
「おかげさまで健やかでございます。修理大夫様は相変わらずお役目が忙しゅうございますか?」
いつも通りの当たり障りのないやり取り。この距離感が心地よかった。でも、彼の次の文が、内侍の心を少し揺さぶった。
修理大夫様からの文:
「はい、なにかと。この間、屋敷の近くを散策しておりましたら、ふと昔のことを思い出したのです。あの幼き頃、共に宇治の水車のある小川で小舟を浮かべた日々のこと、そして……」
宇治の小川。懐かしい響きだった。あそこには、二人の秘密が封じられていた。昔の話は、私たちにとっての安全な場所だった。ここなら、あの頃のように無邪気に笑い合える。だが、その記憶の奥には、いつも水に沈む声がまとわりつく。
修理大夫様とは幼い頃、一緒に育ち、将来を誓い合った。彼が坂東へ行ってからも、その約束を忘れたことはなかった。やがて宇治で再会し、結ばれた。それもその小川のほとりでのことだった。
内侍からの返文:
「まぁ。懐かしいですわ。あの辺りでよく水遊びをいたしましたね」
かなを綴る指が、自然と弾む。純粋で楽しかった記憶と、二人の熱い思い出。しかし、その楽しかった記憶には、いつも冷たい水の感触が伴っていた。
あの時、水底にあった人形。
あの人形を見て以来、内侍は角たらいに注ぐ水音にも息苦しさを感じるようになった。
二人は宇治で再会した後、短くも熱い時間を過ごした。やがて修理大夫様は受領としていくつもの任地に赴くことになり京をはなれた。彼がいない間に、内侍は宮仕えし、伴侶を得た。修理大夫様も伴侶を設けたと聞いた。
そして、数年後、ふとしたきっかけで文を取り交わすようになり、内侍は熱に浮かされたように「今でも私のことを愛しいと想われますか?」と尋ねたのだった。
修理大夫様からの文:
「はい。あの頃の内侍様は、いつもお笑いになっておられましたな。それに比べて、今の某は、自分でも生きているのか死んでいるのかもわからぬ始末。少しばかり疲れているやもしれませぬ。近頃、どうも寝覚めが悪く、毎夜、水音が耳の奥で響いて目が覚めるのです」
珍しい。いつも毅然として、しっかりしている修理大夫様が、弱音を吐くなど。彼が本心を打ち明けてくれることは、とても貴重なことだと知っていた。しかし、その言葉の裏には、どこか湿り気を帯びた響きがあった。まるで水中にいるかのような、重苦しい響き。
内侍からの返文:
「修理大夫様が弱音を吐かれるなど珍しゅうございますね。何かあったのですか? もしよろしければ、お聞かせくださいませ」
彼が打ち明けてくれたのは、お役目における重圧や、ふとした時に感じる孤独感だった。官吏という肩書を脱ぎ捨てた、素の修理大夫様の声。聞いているうちに、内侍の心は少しずつほぐれていくのを感じた。しかし、その文の行間には、常に水の気配が漂っていた。水底でこだまするような、苦しい声。
修理大夫様からの文:
「ありがとう存じます。内侍様とこのように文を交わす時間は、この上なく楽しい。いつか、また昔のようにゆっくりお話したいものですな。文ではなく、お互いの近況など。近いうちに、宇治などに足を伸ばしませんか?」
修理大夫の書く宇治の文字が、内侍の目に留まったとたん、彼女は下腹部に熱いものを感じた。
内侍はすぐに返事をしなかった。直接的ではない、あくまで「友人として」の誘い……。でも、その言葉の裏に隠された気持ちは痛いほどわかった。そして、自分の中の気持ちの存在にも……。彼の誘いが、水底の闇へと誘う甘い罠のように感じられた。
一瞬、昔のように熱い気持ちが込み上げてくるのを感じたが、すぐに頭を冷やした。あの場所には、水にまつわる恐ろしい記憶が眠っている。そして、修理大夫様が再びあの場所へと誘うのは、きっと理由がある。
返事をどうしよう。承諾したら、今度は自分自身が水底の引き込まれるように、甘美な世界から抜けだせなくなるかもしれない。それでもいいかもしれないと思う自分もいる。でも……、そんな内侍を押しとどめたのは水への恐怖だった。
彼の文の端には、墨が不自然なほどにじんでいる。それはまるで、紙の繊維の奥まで、何かがじわりと染み込んでいるようだった。
数刻考えた後、内侍は慎重に言葉を選んで返事を書いた。
内侍からの返文:
「さようでございますね。私も、阿呼とお話するのは楽しいでございます。では、また改めてご連絡いたします」
承諾でも、拒絶でもない。この曖昧な返事が、今の自分にとっては一番正直な気持ちだった。焦らず、ゆっくりと。この先はどうなるかはわからないけれど、この、お互いの気持ちを探り合うような、静かで穏やかなやりとりが、今は心地よい。
内侍は書き終えた文に視線を落とした。その文の奥に、水に浮かんだ顔がぼんやりと見えた気がした。それは、幼き頃に水底へと沈めた、あの人形の顔だった。そして、その顔は、修理大夫様の顔とよく似ていた。内侍の書いた「阿呼」の文字が、自らの手の熱に、あるいは心の動揺に溶かされるかのように、じわりとにじんでいく。その瞬間、耳の奥で、水面に何かが落ちるような、小さな『ちゃぽん』という音が響いた気がした。それは、遠い昔、宇治の小川で聞いた音に、恐ろしいほどよく似ていた。そして、その音は、静かに、だが確かに、彼女の心臓の鼓動と重なっていた。