第92話『無血と称する戦いを終えて』
ルキウス・ユリウス・カエサルとプブリウス・ルティリウス・ルプスが執政官の年(紀元前90年)十一月、ピケヌム地方アスクルム市内、ティトゥス
あの無血開城が行われてからひと月あまり。
ようやく戦後処理に目途がついたことから、俺はアスクルムを離れることができた。
「ティトゥス殿がいなければ、この街はどうなってしまうのか!?」
「ティトゥス隊長、ラビエヌスの大将もいなくなっちまったのに、おれたちゃ自警団はどうするんで?」
「ティトゥス君を、“朝日の登るパン屋”の後継者として、我がひとり娘であるフラウィアの婿として迎えたい」
……最後のはどうでもよいのだが(なぜそうなる?)些事を振り切り、ついにアスクルムを後にする時が来た。
デモステネスと相談し、フィルムムを経由してローマへ向かうことにする。アスクルムを出入りする商隊も増えてきたことだし、父が用意した小さな一隊と一緒に行動することとなった。
フィルムムには祖父ガイウス以外の家族は誰も住んでいない。あとはローマに移住しないことを選んだ元使用人が何世帯かいるからだ。彼らの無事を確認し、不都合があれば便宜を図るよう父から言われている。相変わらず抜け目のない男だ。さすが。
アスクルムの無血開城が街に与えた安堵感は、俺の予想以上に大きかったようだ。なお、ストラボ軍は無血開城から二週間ほどアスクルムに駐屯した後、冬営のためアンコーナへ移動していった。
アスクルムでは十分な宿営地を確保できず、また補給の面でも不便が多かったためだ。ここはより温暖で、ローマからの補給路も確保しやすい。ストラボとしても征服したての土地ではなく、確実に支配下にある都市で越冬する方が安全だと判断したのだろう。
軍団の移動に伴い、アスクルムの緊張感は一気に和らぎ、市民たちの表情にも安堵の色が戻っていた。昨日までは皆が俯きがちであったのに、今日は顔を上げ前を向いているのがはっきりとわかった。
ただ、誰もが引き渡された12名のことは口を噤んでいる。あの鍛冶屋の残された家族はどうしているのか……。俺もソフィアに確認することが出来なかった。
△▼△▼△▼△▼△
アスクルムを離れる三日前、クリスプス商会の会議室でアウレリウス、デモステネス、ソフィアとの最後の重要な打ち合わせが始まった。
会議室には、この数ヶ月間の激動を物語る書類が山積みになっている。取引記録、在庫管理表、そして十六名家との新たな契約書の草案。カピトの逃亡、アウレリウスが一人で背負ってきた責任の重さが、その書類の量からも伺える。
「まず、当面の経営方針についてですが」アウレリウスが慎重に口を開いた。
「開城により、我々は『ローマに協力した商会』という立場になりました。これは諸刃の剣です」
確かにその通りだろう。ローマからは信頼されるだろうが、反ローマ感情を持つ市民からは警戒される可能性が高い。
「具体的にはどのような対策を?」
こちらの質問にアウレリウスが資料を示して答える。
「まず、雇用の拡大です。戦争で職を失った市民を積極的に雇い入れ、生活の安定を図る。これにより、反感を和らげることができるでしょう」
「賢明な判断ですね。経済的な利益を市民と共有することで、政治的な対立を緩和できます」
デモステネスが頷き、ソフィアが実務的な提案をした。
「また十六名家との関係も慎重に再構築する必要がありますね。特に中立派の名家とは、個別に丁寧な関係作りを進めるべきでしょう」
彼らの提案を聞きながら、改めてその能力の高さが実感された。政治的激変の中でも、商会の存続と発展を図る具体的な戦略を練り上げている。
ちなみにデモステネスとソフィアは半年から一年ほどはアスクルムに残り、アウレリウスを支えることになっている。その後は折を見てローマ支店に移る予定だ。父マルクスからもそのように指示が出ているしね。ソフィアはデモステネスを置き去りにして、すぐにローマに飛んできそうだけど。
「君たちがいれば、アスクルム支店は必ず成功する。ただし、無理は禁物だ。何か困ったことがあれば、必ずローマの父に連絡してくれ」
「「「承知しました」」」三人が一斉に頷いた。
この時、デモステネスが追加の報告を行った。
「実は、ティトゥス様が街を去られた後の体制について、アルケウス様と数名の長老から非公式な打診がございました」
「どのような?」
「アスクルム市の『名誉顧問』として、将来的に定期的に街を訪問していただければ、という話です。もちろん、これはローマでの活動を妨げるものではありません」
少し驚いた。確かに、アスクルムでの成果は無血開城という劇的な形で実を結んだ。しかしそれがこれほどまでに市民の信頼を勝ち得ていたとは思わなかった。長老たちの中には、俺を疎ましく思う者もいると考えていたからだ。
「興味深い提案だが、当面はローマでの活動に集中したい。ただし将来的には検討する価値があるだろう」
「承知いたしました。アルケウス様にはそのようにお伝えします」
ソフィアが続けた。
「それから、クリスプス商会の今後の運営についてですが、我々三人でアスクルム支店を切り盛りしていくことになります。しかし、ローマ本店との連携が極めて重要です」
「月に一度は詳細な報告を送ってくれ。売上だけでなく、政治情勢や民情の変化についても詳しく」
「了解いたしました。特に十六名家の動向と、ローマ軍の駐屯状況については注意深く観察いたします」
この会議で特に重要だったのは、今後の情報ネットワークの維持方法についてだった。アスクルムからローマ、そしてイタリア各地の同盟諸都市への情報流通ルートを確保することが、商会の生命線となる。
「信頼できる運搬業者を三つのルートで確保したい」
アウレリウスが地図を指差しながら説明する。
「一つはフィルムム経由の北ルート、もう一つはテアテ経由の東ルート、そして内陸のクルキニウム経由の西ルートです」
「なぜ三つも?」
「一つのルートに依存すると、戦闘や政治的理由で遮断された時に情報が途絶えるリスクがあります。複数のルートを確保することで、常に最新情報を把握できるでしょう」
さすがアウレリウスだ。彼の商人としての実務能力は、俺が思っていた以上に高い。こうした細やかな配慮こそが、長期的な成功を支える基盤となるのだろう。
「費用はどの程度を想定している?」
「月額で見積もって、銀貨五十枚程度です。これは保険料も含めた金額です」
「妥当だ。承認する」
最後に、俺はアウレリウスに対して個人的な言葉をかけた。
「君との出会いは、俺にとって大きな財産だった。アスクルムでのこの期間、君がいなければ何も成し遂げることはできなかっただろう」
アウレリウスが恥ずかしそうに微笑む。
デモステネスが深々とアウレリウスに頭を下げ、ソフィアは目を輝かせながらアウレリウスを優しく見つめていた。
このアウレリウスの笑顔を見て、彼が名家や黒章隊のメンバーと共にデモステネスとソフィアの助けを借りながらもアスクルムの未来を支えていくことを、俺は信じることができた。
△▼△▼△▼△▼△
街を出る前日の朝、ラビエヌスはまだ軍団内で罰務を行っていた。少しでも顔を見れればと彼の姿を見つけたとき、その瞳に宿る決意は揺るぎないものだった。彼がローマで重要な役割を果たすだろうという予感が、胸の奥に静かに響く。結局、声をかけることなくその場を後にした。
実際、ラビエヌスがローマ軍で頭角を現し、いずれカエサルの右腕となることは間違いない。そしてそれが最終的に裏切りという悲劇的な結末を迎えることも頭の中にある。
なぜ彼が裏切るのか、その理由はわからない。ポンペイウスとの庇護者と被庇護者関係を重視したとも、カエサルの共和制への反旗に反抗したとも言われているが、事実は歴史の闇の中だ。
彼と友情を永続させる方法があるのなら、何としても見つけ出したい。今は共にローマ市民となる同士として、その絆を深めていくほかはない。
彼の心に宿る正義感と高潔な精神は本物だった。カピトの処分に対する葛藤も、彼らしい真摯さの現れに違いない。敵を完全に打ち砕くことへの抵抗感――それは軍人としては弱点かもしれないが、人間としては素晴らしい美徳だ。いずれその優しさが仇となる日が来るのだろうか。それとも、いつか俺が彼の運命を変えることができるのだろうか。
△▼△▼△▼△
そしてその夜、一人でアスクルムの城壁を歩く。
月明かりが石造りの壁を青白く照らし、遠くで梟の鳴き声が響いている。その声はまるで静寂を縫う糸針のようだった。この街でこの音を聞いたのは二回目だな。この二年間ほどの記憶が次々と蘇ってきた。
初めてこの街に足を踏み入れた時の緊張感。無気力に侵された日々とラビエヌスとの出会い。
十七名家の複雑な対立構造を解明しようと必死だった日々。カピトの不正を暴いた時の達成感と同時に感じた複雑な心境。
そして、ストラボ軍との交渉で味わった極度の緊張と、成功した時の安堵感。
何より忘れがたいのは、市民たちの表情の変化だった。包囲が始まった頃の絶望的な顔から、無血開城が決まった時の希望に満ちた笑顔まで。一万数千の人々の運命を左右する重責を担った経験は、俺の人格形成に大きな影響を与えたに違いない。
しかし同時に、俺自身の知識の限界も痛感した。
転生者としての未来知識は確かに有用だったが、それは大局的な流れを知るに過ぎない。個別の状況や人間関係の細部については、現地での学習と経験が何より重要だった。
特に名家の内部対立や市民感情の機微については、どんな歴史書にも記されていない。現実は常に、机上の知識を超えた複雑さを持っている。この教訓は、ローマでの活動においても忘れてはならないだろう。
デモステネスやソフィアと離れて生活するのも久しぶりだな。せっかくなのでローマでは新しく家庭教師を見つけてもらおう。彼らにも成長した姿を見せたいし、一人でもやっていけることを示したい。
城壁の上から見下ろすアスクルムの街並みは、月光の下で静寂に包まれている。しかし、その静けさの中にも、確かな生命力が脈打っていることを感じられた。無血開城により救われた命は、これからも続いていく。それは間違いなく、価値ある選択だった。
「いつか、この経験を生かす時が来る」
夜風に向かって小さく呟く。アスクルムで学んだ交渉術、情報収集の技法、そして何より『血を流さずに問題を解決する』という信念。これらすべてが、やがてローマで大きな力となるはずだ。
しかし、今すぐではない。
同盟市戦争が続く限り、表舞台に立つべきではない。ストラボの凱旋式は来年の十二月頃に行われるだろう。それまでは慎重に力を蓄え、時を待つ。ストラボからの政治的接触や圧力を避ける意味でも、ローマに雌伏する意味はある。
明朝、俺は新たな戦場へ向かう。しかしそれは剣と盾の戦場ではなく、忍耐と準備の戦場だ。アスクルムという地方都市での劇的な成功を封印し、ローマという巨大な政治の中心地で静かに基盤を築く時が来た。
一人の時間を有効に使い、将来への布石を打ち続けよう。
本作品は生成AIを活用しつつ、作者自身の構成・加筆・編集を加えて仕上げた創作小説です。AIとの共創による物語をどうぞご覧ください。
なお作者は著作権法上の問題はないと判断のうえ、投稿を行っております。安心してお楽しみいただければ幸いです。
--------------------------------------------------
(人は自らと異なると認識した者を無意識に避けようとします。それが差別意識に繋がるのですが、何を以て異なると認識するかは後天的なものが多いのでは、と感じています。素直に視れなくなっちゃうんですよね、歳を取ると)
もし物語の余韻が心に残りましたら、評価やブックマークという形で、想いを返していただければ幸いです。
第一部の登場人物一覧はこちら↓
https://ncode.syosetu.com/n4684kz/1/
第一部の関連地図はこちら↓
https://ncode.syosetu.com/n4684kz/2/




