第88話『降伏ならざる演説』
ルキウス・ユリウス・カエサルとプブリウス・ルティリウス・ルプスが執政官の年(紀元前90年)十月、ピケヌム地方アスクルム市内、ティトゥス
さて、これからが俺にとっての決着だ。
東門前広場には仮設の演壇が組まれ、ローマ軍の高官たちが席に着いている。演壇は白い石灰岩で組まれ、秋の朝陽を受けて堂々とした威容を誇っていた。周囲には赤と金の布が飾られ、まるでローマ帝国の公式式典のような荘厳な雰囲気が醸し出されている。
ストラボ将軍は最前列に座り、赤の縁取りがある白いトガを羽織った威風堂々とした姿で、秋の風に栗色の髪をなびかせながら俺を見つめている。
その隣には若きポンペイウスが感情を表さない表情のまま、色の異なる両眼で俺を見つめている。左右の瞳の色が違うその独特の眼差しは、まるで俺の心の奥底まで見透かそうとするかのようだった。
副官のクラッススやセイヤヌスも整列し、この歴史的瞬間を見守っていた。スルピキウスは市外にいる本軍の指揮を執るためにこの場にはいなかった。
数千の市民が広場を埋め尽くしている。
彼らの表情には、不安、期待、そして微かな希望が混在していた。白い頭巾を被った老人、幼子を抱いた若い母親、商人らしき中年男性、職人風の逞しい男たち——アスクルムのあらゆる階層の人々がここに集っていた。
秋の午後の陽光が広場の石畳に長い影を作り、時折吹く風が人々の衣服を揺らしている。遠くからは、街の外で待機するローマ軍の武器が太陽を反射して輝く光がちらちらと見えた。
俺の言葉を待っている人々の視線が、重くのしかかる。
演壇に立った瞬間、胸は激しく鳴っていた。これまでの人生、日本にいた頃だってこれほど多くの人の前で話したことはない。しかも彼らの運命を左右する重要な演説だ。手のひらに汗が滲み、演壇の大理石の手すりを握る指先に力が入った。
ひとつ深呼吸をして、喉を震わせる。
「アスクルムの市民諸君」
大声が広場に響いた。
騒めきが静まり、全ての注意が俺に向けられる。
「今日という日を、諸君はどのような思いで迎えているだろうか。屈辱の日と感じる者もいるだろう。長年守り続けてきた独立を失い、ローマの支配下へと入ることになった。この現実を前に、怒りや悲しみを感じることは当然だ」
市民たちの表情に動揺が走った。
率直な言葉に困惑と共感が混じっている。
だが、そのまま続ける。
「しかし――」一際大きく声を張り上げる。
「しかし、諸君よ、私は敢えて言いたい。今日は希望の日でもあるのだと」
どよめきが起こった。
期待と疑問が入り混じった視線が、グッと俺に注がれる。
「我々は敗者ではない。賢明な選択をした勝者である。血を流さず、家族を守り、街を守った。子供たちは親を失わず、老人たちは安らかに余生を送ることができる。家屋は燃えず、畑は荒らされることなく、来年も豊かな収穫を迎えることができる。これこそが真の勝利ではないか」
拍手がぱらぱらと起こったが、まだ多くの市民は納得していない表情だった。
演説の核心へと言葉を進める。
「諸君の中には言う者もいるだろう。『それは降伏に過ぎない』と。『我々の誇りはどうなるのか』と。だが、私は断言する——」
拳を握りしめ、力を込めて語った。
「アスクルムは降伏するのではない! ローマと共に、いやローマの一部となって生きることこそ、父祖に胸を張ることになるのだ!」
広場が静寂に包まれた。
市民たちは言葉の意味を理解しようと耳を澄ませている。
「それは我々が生き残り、子や孫を次世代へと引き継げること――ピケヌムの言葉を、生活を、歴史を、文化をそのまま残すことができるということだ。そしてローマの優れた部分を取り込み、このアスクルムがより豊かになることができる。これが勝利でなくてなんであろうか」
明らかに市民たちの表情が変わり始めた。
「ローマに従うのではない!」
俺はより一層声を張り上げた。
「我々はローマ市民ともなるのだ! ピケヌムの父祖をもつ、ローマ市民! これがアスクルムの新しい姿である!」
うわっと大きなうねりが起きた。
「私はフィルムム出身のローマ市民である。しかし、このアスクルムにも根を張って生きてきた。友がいる。生活の基盤もある。ローマ市民であることと、アスクルム市民であることは何ら矛盾しない」
俺は市民一人ひとりの顔を見回しながら、心を込めて語りかけた。
「友よ、同志たちよ、我々は誇りを失うことなく、豊かに暮らすことができる。それだけではない——我々は、この偉大なるローマを、より豊かに強大に、より公平に、より正当性を持って、我々が導くこともできるのだ」
大きな拍手が起き、市民たちの目に確かな希望が宿っているのが見えた。
「ここにおられるグナエウス・ポンペイウス将軍は、そのローマをより公平な世界へと導く素質をお持ちの、偉大なる政治家であり、軍人である」
ストラボの方を向き、深く一礼した。将軍は満足げに頷いている。
「ローマには既に様々な都市国家が参画している。属州もある。多くの同胞と共に、より公平なローマの政治を実現すべく、我々の力を活かそうではないか」
広場全体が熱気に包まれ始めた。
市民たちの表情には、絶望ではなく希望が、屈辱ではなく誇りが浮かんでいる。
「諸君よ、考えてみてほしい。ローマ市民権がもたらす恩恵を」
広場の熱の高まり具合を確認したのち、具体的な利益について説明し始める。
このタイミングであれば受け入れられるだろう。
「ローマ法による身体の不可侵、上訴権、公正な裁判を受ける権利——これらすべてが我々のものとなる。商業においても、ローマ街道による交通網の発達、各地との自由な取引、軍事的庇護による安全保障。我々の技術と知恵は、より広い世界で花開くことができるのだ」
感情的な反発を論理で中和し、現実的な利益を具体的に示していく。
市民たちの納得の表情が増えていった。
「そして何より重要なことは」
ここで声を落とし、静かに、しかし力強く語った。
「真の名誉とは何かということだ。戦って玉砕することか、それとも生き延びて未来を築くことか」
長い沈黙が広場を覆った。
この言葉が市民たちの心の奥深くに響いているのを感じる。
「我々の名誉は、これからの行動によって示すのだ。ローマ市民として、ピケヌム人として、そしてアスクルム市民として、我々の技術と知恵を世界に示していくのだ」
「ローマは我々の技術と知恵を必要としている!」
俺は拳を高く掲げた。
「アスクルムの職人たち、商人たち、農民たち——諸君の力こそが、新しい時代を築く礎となるのだ!我々は征服された民ではない!ローマ世界の建設に参加する新たな市民なのだ!」
広場が大きな歓声に包まれた。
市民たちは立ち上がり拍手と歓声を送っている。演説は最高潮を迎えている。
最後に今日一番の大声で叫んだ。
「我々はピケヌムの民であり、ローマ市民である!」
「我々の誇りを胸に、ローマと共により大きな平和を実現しよう!」
「アスクルムの名誉は、血と剣ではなく、知恵と勇気によって守られたのだ!」
広場全体が感動の渦に包まれた。拍手は鳴り止まず、多くの市民が涙を流している。
中には『ローマ万歳!』『アスクルム万歳!』と叫ぶ者たちもいた。
深く礼をし、静かに演壇を降りた。
広場の拍手と歓声は長く続き、興奮した市民たちの中には涙を流している者もいた。老人が孫の手を握り締め、若い母親が安堵の表情で乳飲み子を抱きしめている。商人たちは互いに頷き合い、職人たちは力強く拳を掲げている。
秋風が広場を渡り、人々の歓声を運んでいく。アスクルムの白い城壁に反射する午後の陽光が、この歴史的な瞬間を神々しく照らし出していた。遠くに見えるオリーブ畑とブドウ園の間から立ち上る薄い炊煙が、平和な日常がすぐそこに戻ってくることを予感させる。
ストラボ将軍が立ち上がり、俺に向かって頷きつつ近づいてきた。
その表情には明らかな満足と評価が浮かんでいる。将軍の重厚な足音が石畳に響き、周囲の高官たちも一斉に立ち上がった。紫の房飾りが付いた軍服が風になびき、金の徽章が陽光を反射して輝いている。
「見事な演説だった、ティトゥス・アエリウス・クリスプス」
「光栄です、将軍」
若きポンペイウスも無表情ながら、何かを考え込むような表情を見せていた。俺の演説が、彼の中で何らかの記録として残ったようだ。彼の言う計算式にまた変数を加算したのかもしれないな。だが今はもうヘトヘトだ。
市民たちの歓声は長く続く。
アスクルムの運命を決したこの日は、絶望ではなく希望に満ちた日として人々の記憶に刻まれることになった。
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広場から商会に戻る道すがら、俺は全身から力が抜けていくのを感じていた。広場に響いていた歓声が耳の奥で反響し、まだ興奮が冷めやらない。石畳を踏む足音が妙にふらつき、デモステネスが気遣わしげに肩に手を添えてくれた。
「お疲れ様でした、若様。見事な演説でした」
「本当に、みんなが泣いてるのを見た時はあたしも......」
ソフィアの声は震えていた。彼女の瞳にも薄っすらと涙が浮かんでいる。
商会の中庭に入ると、俺はベンチに腰を落とした。まだ心臓の鼓動が早い。手のひらは汗で湿り、喉がからからに渇いていた。あれほど大勢の前で話したのは生まれて初めてのことだったし、何より彼らの運命を左右する重さに押し潰されそうになっていた。
「水を持ってきます」
ソフィアが慌てて井戸へ向かう。デモステネスは静かに俺の隣に座り、穏やかな表情で夕空を見上げていた。
「若様、あの演説で市民の心は完全に掴めました。ですが......」
「ああ、これからが本当の正念場だな」
陽が傾き始め、オレンジ色の光が商会の白い壁を染めている。遠くから子供たちの遊び声が聞こえてきて、平和な日常がまだそこにあることを実感させた。だが、この静寂がいつまで続くかは分からない。
ソフィアが水の入った杯を運んできた。冷たい水が喉を潤し、ようやく人心地ついた。
「ティトゥス様、本当にお疲れ様でした。でも......少し心配です」
「何がだ?」
「あの演説、ローマの高官たちはどう受け取るでしょうか」
確かにその通りだった。市民の支持を得ることはできたが、それがかえってローマ側の警戒を招く可能性もある。俺は深いため息をついた。
「それを考えると頭が痛くなるな。だが、今日の選択が正しかったかどうかは、これからの行動次第だ」
三人の間に静寂が流れた。夕風が中庭の木々を揺らし、葉擦れの音が心を落ち着かせてくれる。しばらくして、デモステネスが口を開いた。
「若様、何があっても私たちは共にあります」
「そうです。どんなことが起きても、私たちはティトゥス様と一緒です」
ソフィアの言葉に心が温かくなった。この二人がいてくれる限り、どんな困難も乗り越えられる気がした。
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その日の夜、ストラボ将軍の伝令二名が商会にやって来た。
どうやらストラボは俺に内密の話があるらしく、呼び出しを申し付けられた。
昼間あれだけがんばったから疲れてるんだけどな、明日にしてくれないかな。してくれないよな。はぁ。
「君の計算は確かなようだな。将軍がお気に召したぞ」
「正確には『副官を通じて、将軍が会いたいと言っている』すぐに準備をするように」
この二人は息が合っているのか、仲が悪いのか同時にバラバラと俺に伝令を告げてくる。背格好は筋肉質で背が高く双子かのように瓜二つだったけど、顔はそれぞれが馬と牛によく似ていた。
俺は静かに頷き、灰の中でかすかに灯る炭を握りしめるかのように、気を引き締めた。
—— 生き延びた者には次の務めがある。
逃げ道はない。
いや、逃げる気もなかった。
城門の警備はいつもの兵士だったので、管理権はまだアスクルムの手にあるようだった。
馬男と牛太郎の伝令二名と一緒に、通用門を使い市外に出る。
しばらく歩きローマ軍の陣営の中に入ると、兵士たちは興味深そうな顔をして俺を見つめてくる。近づいてくる者はいない。この前と違い、彼らは黙って通してくれた。伝令がいるから当たり前か。それにしてもこの絡みつく視線は気になるなぁ。
ストラボ将軍の天幕に辿り着くと牛太郎が近衛兵に語りかけ、俺は一人で中に入るよう促された。
馬牛コンビはこのまま外で護衛を行うようだ。礼を言い天幕の中へと足をすすめた。
△▼△▼△▼△▼△
ストラボは独りで戦場の地図を見下ろしていた。
息子ポンペイウスが傍で直立不動の姿勢で佇んでいる。
そして俺に振り向くと、表情も変えず面倒くさそうにこう言った。
「ティトゥス・クリスプス── 今後、我が軍の兵站参謀として従え。補佐官待遇だ」
単刀直入な提案だった。俺はすぐには答えることができなかった。
そもそもこの言葉が出ることは想定していたし、ストラボ将軍の性格を知ればこそ、この命令を下すだろうと思っていた。
言わなければ彼らしくない。
むしろ、直接、面と向かって言われたことに驚いたくらいだ。
俺はゆっくりと口を開く。
「光栄な申し出です、将軍。……ですが、申し訳ありません。お断りします」
「ほう?」
本作品は生成AIを活用しつつ、作者自身の構成・加筆・編集を加えて仕上げた創作小説です。AIとの共創による物語をどうぞご覧ください。
なお作者は著作権法上の問題はないと判断のうえ、投稿を行っております。安心してお楽しみいただければ幸いです。
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(ラジオもテレビもレコーダーもない時代ですから、生の演説のエネルギーはものすごいものだったと思います。演者も聴衆も命懸けですね)
もし物語の余韻が心に残りましたら、評価やブックマークという形で、想いを返していただければ幸いです。
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