第7話『ティトゥス・ラビエヌス』
ルキウス・ユリウス・カエサルとプブリウス・ルティリウス・ルプスが執政官の年(紀元前90年)九月、ピケヌム地方アスクルム市内、ラビエヌス
おれは、城壁の上から遠くを見下ろしていた。
乾いた風が吹きつける。
まだ朝も早いというのに、遠く地平の向こうから立ち昇る埃の帯が、これから起きるであろう惨劇を嫌でも想像させた。
ローマ軍が、おれたちの街アスクルムを包囲している。逃げ場など、最初からなかった。このあとおれたちは広場に集まることになっている。その場で何かしら発表がある、ということらしい。母さんと妹夫婦を連れていかなくちゃならない。背中が痛むが仕方ない。
おれの名はティトゥス・ラビエヌス。
今年で十一歳になる。
ここ最近のアスクルムは、血と汗と土煙の匂いで満ちていた。
たったほど二年前までは、決してそんなことはなかった。戦乱は遠いどこかの話であり、おれたちはごく平凡な普通の毎日を過ごしていた。
だけど今。
実際に戦になろうとしているこの期に及んで、おれの胸のどこかに不思議な静けさがあった。
怖くないわけじゃない。
剣を取って戦ったことなんて、ほんの数度、地元のチンピラと小競り合いをしたくらいのもんだ。自警団の真似事をここ一年弱ほどやってきたが、大したもんじゃない。ティトゥスの言うとおり動いていただけだし。
本気で人を殺す覚悟なんて、きっと、おれ自身はこれっぽっちも持ち合わせちゃいない。だから戦になったらおれは、たぶん、やられてしまうだろう。家族や街も、噂に聞くコルフィニウムのように根絶やしにされてしまうのだろう。これが怖くないわけない。
なのに、だ。
この胸の奥には、どうしようもない確信みたいなものが渦巻いていた。
「たぶん、戦いにならない」
そんな気が、してならなかった。
△▼△▼△▼△
時は二年ほど前に遡る。
ある冬の日の夜明け前、まだトルエントス川(現トロント川)の靄が庭を包むころ、俺は薄い亜麻布の単衣一枚で中庭に立っていた。
いつも修練が開始される。
木剣を握り、振り上げ、振り下ろす。
回数を重ねるごとに、息が切れ、腕が棒のようになり、剣がふらついてくる。
傭兵上がりの剣術師範のマルクス・サビヌスはおれの太刀筋が甘くなるのを見逃さず、短く叱咤する。
「握りが甘い」
百回ほど素振りをした時点で、おれは息を切らしてしまった。見かねたサビヌス師範は小休止を許してくれた。
水差しから手のひらに水を垂らし、口を湿らす。彼は傷だらけの右腕を伸ばしつつ、息を整えたおれに構えを指導してくれる。その腕には昔ガリア騎兵を討ち取った際に付いたという深い痕跡があり、おれはそれを見るたびに身体が熱くなる。
「剣は絶対に手放すな」
「腕ではなく腰で剣を振れ。腰から肩、腕、そして手に力を伝えろ」
「剣は炎だ、手のひらで、身体で燃やせ。燃やし続けろ」
訓練のたびに彼が持ち出す“炎”の例えは、おれの胸をじりじりと炙る。
「…………、百九十八、百九十九、に、二百ぅ!」
最後の突きを終えた頃、東の空が朱に染まり始めた。
初めて素振りを二百回、途中で小休止はしたものの最後まで行うことができた。そのまま剣を手放すのではなく、更に強く握り直した瞬間、棒状のものが肩に乗っていることに気づいた。
「朝食に遅れるわよ〜」
振り返ると家庭教師のカリストラテス先生が指揮棒を手に持ち、おれのすぐ後ろに立っていた。
「カリストラテス先生、いつのまに?」
年は二十代半ば、黒髪の巻き毛が風に揺れるたびオリーブ油の香りが漂う。彼女は母に雇われた解放奴隷で、ラテン語よりもより上品なギリシア語を俺に教え込もうと意気込んでいる。
「英雄ヘクトールは毎朝、街門の前で槍の素振りを三百回していたそうよ。キミは二百で満足かしら?」
挑発するような彼女の言葉に答えるように、俺は改めて木剣を握り直し「あと百回!」と叫んだ。
「やはり、遅刻ね」と彼女は柔らかい微笑みを浮かべた。
朝食の時間。
食卓の上にはオリーブ、羊乳のチーズ、全粒パン。それだけ。
「強い兵士は胃袋も鍛えるのよ。贅沢は戦場で裏切るわ」
母 ——リア・カエキリア が、水差しに葡萄汁を注ぎながら言う。
母はローマ市民権を持つ名門の娘で、おれの最初の教師でもある。おれは文字も数字も母から習った。父の事務所に行くときの柔らかな服装とは異なり、家では質素なストラをゆったり巻くだけだが、灰色の瞳には鋭い光が宿る。
「ところでティトゥス、昨日の帳簿は写し終えた?」
「もちろんさ。イリュリクムで新しく開いた支店の売上は、……前月比でえぇっと、たしか六分の一増だったはずだよ。その理由は、新しい軍需物資の取り扱いを始めたからだって父上が話してた」
母は満足げに頷くと、食卓の端に置いた粘土板を指差した。
「じゃあ、金貨ってギリシア語で書いてみて」
カリストラテス先生が横から「Δηναρίου」と綺麗な筆記体で例を書いてくれる。
おれはパン屑を指で払って急いでそれを真似る。
数字を計算するのも、ギリシア文字を覚えるのも剣を握るより難しいや。
午前中は父の事務所へ同行する。
父 ——ルキウス・ラビエヌス は鎧のように硬い革トガを羽織り、鉄筆で契約書を矢継ぎ早に捌く。武器倉庫から届く銅剣の目方や税農契約の追加入札、どの数字も頭の中で瞬時に並び替えられていく様子は、剣術より鮮やかだ。
「息子よ、簿記は剣と違い血は流れぬが、家の運命を決める。数字を斬り結ぶには、刃より鋭い洞察が要る」
そう言いながら、父は新しいアバカス盤を俺に渡す。錫でできた、小さな球を転がすそろばんだ。コマの音がカタカタと響くたび、父の鋭い横顔がちらりと笑みを見せた。
正午。
再び屋敷に戻り、母特製のレンズ豆煮込みをすすりながら、カリストラテス先生が英雄の話を聞き始める。
「昔、アレクサンドロス大王は十六歳で初陣を飾った。キミもあと七、八年で兵役適齢だね」
「おれは百人隊長になるんだ。父上よりローマで剣を立てろって言われているから」
「ではアリストテレスの教えを今日から暗記しよう。軍の知将は剣だけでなく、知恵で勝つからね」
「おれは智将じゃなくて勇将になりたい!」
「……ふふふっ」
微妙に噛み合わない会話に母が笑いを隠し切れず声を漏らす。そのまま空になっていたおれの陶製コップに葡萄汁を注ぎ足した。
「剣と智慧、両方ね。ティトゥスなら出来るわ」
午後は再び剣術訓練場。今日は週に一度ある、市の練兵場で幾人かと合同で稽古を行う日だったっけ。
サビヌス師範の号令で、ふたり一組になって木盾を構え突撃の稽古を行った。相手は染め物屋の息子で、小柄だが真面目に訓練に取り組んでいるため、師範のお気に入りだ。相手がおれよりも小さいからといって手を緩めることはない。気が緩んだ稽古ほど怪我を招くものはない、といつも師範に言われているからだ。
太陽が傾き始めたころ、汗まみれのおれを見て師範が自ら木剣を取る。
「最後に儂と十合撃ち合いだ。避けるな、受けろ。骨で受けろ」
振り下ろされた一撃は非常に重く、おれは都度ふらついてしまう。師範はおれの手首の角度を修正しながら、とつとつと昔語りを始めた。
「マリウス将軍と共にキンブリ族と戦ったガリアでは、泥の中での斬り合いだった。剣が滑って役に立たなかった。そこで俺は丸木で敵の膝を打った。膝が折れれば剣はいらん」
師匠はそう語りながら急に剣をおれの膝目掛けて撃ち下ろした。
「ほら、足元がお留守だぞ」
「そんな……ずるい!」
おれは急に足元を狙われ、慌てて剣を下に構えて師範の一撃をなんとか受け応えたが、そのまま剣を落としてしまった。
「勝てば正義だ。覚えとけ、小僧」
あれほど強く剣を握っていたのに。おれの炎は未だ薪が足りないようだった。
悔しさで顔を赤くしながらも、おれは師範の撃ち下ろしの構えを胸に刻みつけた。
日が暮れるころ。
父はフォルムでの会合から帰り、ローマから先日アスクルムに到着した客人を招いていた。食卓に豚のローストと豆粥が並ぶ。おれは黙って耳を澄ませるだけだが、父と客の会話が剣戟より激しい。
「新法案では徴税権が再分配される。だが元老院の連中は我々騎士階級を侮っている」
「リキニウス法を盾に取ればいい。利率を三分上げれば兵站も潤う」
火花のような数字と法律用語が飛び交う中、母がおれの皿に豆粥をよそった後に呟いた。
「ティトゥス、言葉の剣というものも、この世の中には存在するのよ。しっかり観察して、いつか会話に参加できるようになりなさい」
おれは黙って小さく首を縦に振りながら、心の奥で炎が燃え盛るのを感じた。
剣でも言葉でも、必ず頂点に立ってやる、と。
食後、客が帰った庭先の小さなララリウム(祭壇)で家神に葡萄酒を注ぎ、父が祈る。
後ろに並んだおれは剣のつかを胸に当て、そっと呟いた。
「いつか、この剣でラビエヌス家の名をローマ中に轟かせます」
このときはまだ、おれたちは平和だった。
このときは、まだ。
本作品は生成AIを活用しつつ、作者自身の構成・加筆・編集を加えて仕上げた創作小説です。AIとの共創による物語をどうぞご覧ください。
なお作者は著作権法上の問題はないと判断のうえ、投稿を行っております。安心してお楽しみいただければ幸いです。
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(さて今度は、この物語のもう一人の主人公である、彼の登場です。彼の生い立ちから描くことができるのは私(作者)にとって望外の望みなのです。これからの長い旅をどうぞ最後までお付き合いください)
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クという形で、想いを返していただければ幸いです。
第一部の登場人物一覧はこちら↓
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