第83話『アスクルムの戦い <応酬> 』
ルキウス・ユリウス・カエサルとプブリウス・ルティリウス・ルプスが執政官の年(紀元前90年)十月、ピケヌム地方 アスクルム、ティトゥス
低い声が幕内に響いた。その声には威圧感がありながらも、同時に知的な響きが含まれている。
俺は一歩前に出ようとしたがラビエヌスが必死に首を振って制し、自らが立ち上がろうと身じろぎした。
「名を申せ」
ストラボが目配せし、二人の兵士はラビエヌスを解き放つ。
ラビエヌスは震え声で答えた。
「はい、将軍。
アスクルムの市民――名をティトゥス・ラビエヌスと言います。
市民自警団の長であり……暴挙の責を、私が負います」
ラビエヌスが一歩進み、片膝をつく。
彼の背中は震えていたが顔は上げている。
剣はない。
盾もない。
ただ、生身の命一つでこの陣に入ってきた男の覚悟が、そこにあった。
十一歳の少年とは思えない大きな体躯が、今は痛々しいほど緊張で強張っている。普段の快活な笑顔は影を潜め、それでも震える声の中に確かな意志を込めて言葉を紡いでいた。
ストラボはラビエヌスをじっと見つめた。その視線は値踏みするようでありながら、同時に何かを探るようでもあった。
「……我が陣へ一人で乗り込むとは、大胆なことだな。剣も持たずに、何をしに来た?」
ストラボの声には意外にも興味深そうな響きが含まれていた。怒りよりも、好奇心の方が勝っているようだ。
そっと息を殺してストラボの表情を観察する。この男は単なる猛将ではない。ピケヌム地方を席巻し、多くの都市を屈服させてきた戦略家であり、政治的野心を秘めた実用主義者でもある。
その冷静な分析力を持つ瞳が、今ラビエヌスという一人の少年に向けられている。
ストラボは明らかにラビエヌスの行動に興味を抱いていた。彼のような人物が、なぜ一人の少年の無謀な行動に関心を示すのか。
それは単なる好奇心ではなく何かもっと深い理由があるのではないか。この男はラビエヌスの中に、何らかの価値を見出そうしている。
「市を守るためです、将軍。我々は決して反逆を企てたのではない。ただ、民の心が追い詰められ、爆ぜそうだった。俺は、それを……自分が引き受けて止めたかった」
ラビエヌスの答えは率直であり、取り繕うことなく自分の心境をそのまま語っている。
その言葉を聞いて、改めてラビエヌスという人間の天性の勘所に驚く。
『反逆を企てたのではない』という表現は、ローマへの敵意がないことを明確に示しており、また『民の心が追い詰められた』という言い方は、市民の窮状を訴えながらもそれを理由とした抗争ではないことを強調している。
緊張と恐怖の中でも状況を的確に把握し、最善の言葉を選んで答えている。
「独断で行動したな?」
ストラボの質問は鋭い。彼は既に状況を把握しているようだ。ラビエヌスの行動が計画的なものではなく、感情的な暴走であることを。
「……はい。ティトゥス・クリスプスには止められました。それでも俺は、止まれなかった」
言い訳はしない。ただ事実を述べ、責を負うつもりのラビエヌスの声は震えていたが、澱みがなかった。その誠実さは、ストラボにも伝わったようだ。
そして俺の名前が出た瞬間、天幕内の空気が微妙に変わる。ストラボの瞳が、わずかに鋭くなったような気がする。彼は俺の存在を既に把握していたのか。
ストラボは目を細めてラビエヌスを見つめ、そしてその隣に控えていた俺へと視線を移す。
その瞬間、俺は背筋に冷たいものが走るのを感じる。ストラボの視線は、俺の全てを見通そうとしているかのようだった。
この男の視線には単なる好奇心を超えた何かがあった。計算と分析、そして値踏み。俺は一瞬、自分がまるで市場の商品のように査定されているような感覚に陥った。
しかし同時に、その視線には知的な探究心も含まれていることを感じた。ストラボは俺を危険視しているのではなく、むしろ興味を抱いているのかもしれない。
必死に表情を制御しようと努める。この場で動揺を見せるわけにはいかない。
ストラボのような人物の前では一瞬の隙も見せてはならない。だが同時に彼の視線の中に、意外なほどの冷静さを見出していた。
怒りや軽蔑ではなく純粋な関心。それは俺にとって、希望の光のようなものだった。
△▼△▼△▼△▼△
「名を申せ」
ストラボの声は、ラビエヌスに対するときとは明らかに異なっていた。
同じ言葉であるのに、より注意深く、より慎重に。
「――ティトゥス・アエリウス・クリスプス。フィルムム出身、ローマ市民です」
思わず声が震えそうになるところを何とか押しとどめ、会話を続ける。この場で動揺を見せるわけにはいかない。
「閣下は、貴下の将兵及び城内の住民が無益に死ぬのは望まれないでしょう」
俺の言葉にストラボの眉が僅かに動いた。意外な発言だったのだろうか。
「……貴様か。ティトゥス・クリスプス」
やはり、俺の名を知っていたか。
ストラボは既に俺の情報を詳細に入手していたようだな。クリスプス商会の活動、ピケヌム地方での俺の役割、そしてアスクルムにおける政治的立場。きっと全てを把握した上で、この交渉に臨んでいるのだろう。
彼は単なる武人ではない。
情報収集能力に長け、相手の素性を事前に調査し、戦略的に交渉に臨む政治家でもあるのだ。
俺の名前がすぐに出てきたということは、彼が俺を今回の和平交渉の実質的なキーパーソンとして認識していることを意味している。
俺はストラボをじっと見つめる。
彼の金色の瞳にはラビエヌスを睥睨した際に見せた光とは異なる色が宿っており、より複雑で深い何かが漂っていた。
敵対心でもなく軽蔑でもなく、むしろ一種の敬意のようなものを感じたと言えば大げさだろうか。
俺は静かに一歩踏み出し、片膝をついた。
「将軍の寛大なるご判断を心より感謝いたします。無礼を働いた我が友に、どうか公正な処置を」
この言葉を口にしながら、俺はラビエヌスの方をそっと見やった。
彼は相変わらず緊張で身体を強張らせているが、俺が彼のことを「友」と呼んだことで、わずかに表情が和らいだような気がする。
ストラボは俺の言葉を聞きながら、指で机をコツコツと叩いている。それは考えを整理しているときの癖なのだろうか。
その単調なリズムに耳を傾けながら、この男の思考の流れを推測する。彼は今、俺たちをどう処遇するべきか、そして今回の交渉をどのような方向に導くべきかを計算しているのだろう。
「貴様の仲間の暴挙により、交渉は一時中断となった。その責任をどう取るつもりか?」
「ラビエヌスの行動は私の指示によるものではありません。しかし、彼が私の友人であることは事実です。彼の処罰については、将軍のご判断にお任せいたします。ただし、」
言葉を一度区切り、ストラボの反応を確認する。
彼の表情には俺の言葉に対する興味が浮かんでいる。
俺は責任を示しながらも、明確にラビエヌスを見捨てない姿勢を示した。
「彼の行動が市民の絶望的な心境から生まれたものであることも、ご理解いただければと思います」
この言葉にストラボの表情が変わった。
興味深そうな光がその瞳に宿る。その反応を見て自分の読みが当たったことを確信した。
この男は単純な力の論理だけでは動かない。相手の動機や背景を理解し、それを踏まえた上で最適解を導き出そうとする人物なのだ。
俺がラビエヌスの行動を『絶望的な心境から生まれたもの』と表現したことで、彼は今回の事件をより広い文脈で捉え始めたのだろう。よし、いいぞ。
△▼△▼△▼△
そして俺は使節団が語った内容より更に踏み込んだ条件をストラボ将軍に語り始めた。
ラビエヌスの暴走により、譲歩すべき項目を増やすべきと判断したためだ。
「アスクルムはストラボ将軍に降伏いたします。我々の望みは、市民の生命と最低限の財産の保護をお願いするのみです」
その後、具体的な条件の確認作業に入る。ストラボは自身が納得するまで一つ一つの内容を丁寧に確認してきた。交渉が大詰めになるにつれ、より枝葉の条件に話が移る。
「税収の増額については?」
「三年間で段階的に引き上げることで、ご了承いただけないでしょうか」
「軍事的協力は?」
「若い男子の徴兵には応じます。また、ローマ軍の兵站基地としてアスクルムをご利用いただくことも可能です」
最終的な条件の確認が進むにつれ、ストラボの表情は徐々に満足そうなものになっていった。
どうやら彼の求めていた条件以上のものを提示していることができているらしい。条件を書き込んだ文書を持ってきておいてよかった。流石にそらんじれるほど覚えちゃいないからな。
俺は交渉を進めながら、ストラボとラビエヌスの両者を観察し続けていた。ストラボは明らかに交渉に満足げだったが、それ以上に俺という人物への関心を深めているようだった。
一方のラビエヌスは交渉が順調に進んでいることに安堵しているようだったが、同時に自分の行動が結果的に条件の譲歩を強いることになったことに忸怩たる表情も見せている。
すべての条件を語り、何度かやり取りをした後、最後にストラボ将軍が質問を述べた。
「貴様、ティトゥス・クリスプス ──和平案を仕立てたのは、お前か?」
ストラボの声は低く、しかしその音色は俺への興味を隠しきれていない。
「差し出がましいことながら。市の長老たちの委任を受け、全体の調整を行っておりました」
「年端もいかないお前がか?」
「知識と経験だけではなく信義が、私を結果としてこの場に導きました」
俺の答えに、ストラボは何かを考え込むような表情を浮かべ、沈黙する。この沈黙の間、俺は天幕内の微細な変化を感じ取る。
ストラボの呼吸のリズム、指先の動き、瞳の焦点の移り変わり。その単調な音に集中しながら、俺はストラボの思考を読み取ろうと努めた。
彼の指の動きは一定のリズムを保っているが、時折微細な変化が生じる。それは彼の内面の変化を反映しているのかもしれない。俺という若い交渉相手に対する評価、そして今後の政治的関係についての計算。
全てが、この静寂の中で行われているのだ。
「貴様は、和平の代償を知っているか?」
突然の質問だった。
単純な条件交渉を超えた、より深い意味を含んだ問いかけ。
和平とは何か、そしてその代償とは何か。
この質問に対する答えが、今後の関係を決定づけることになるだろう。
「はい。和平とは、互いの矜持と利益を護る術にございます」
本作品は生成AIを活用しつつ、作者自身の構成・加筆・編集を加えて仕上げた創作小説です。AIとの共創による物語をどうぞご覧ください。
なお作者は著作権法上の問題はないと判断のうえ、投稿を行っております。安心してお楽しみいただければ幸いです。
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