第81話『アスクルムの戦い <追走> 』
ルキウス・ユリウス・カエサルとプブリウス・ルティリウス・ルプスが執政官の年(紀元前90年)十月、ピケヌム地方 アスクルム、ティトゥス
「ラビエヌス様が……昨夜から姿を見せておりません……」
「何……?」
一瞬、時が止まる。
血の気が引き、頭上から冷水を浴びせられたような感覚が全身を駆け巡った。クラウスの青ざめた顔を見つめながら、最悪の予感が脳裏を支配していく。
――まさか。
「いつから?」
自分でも声が震えているのを感じている。クラウスは早口で一気にまくし立てながら、ことの次第を報告してくれた。
「デキムス様から報告がありティトゥス様を探しておりました。ラビエヌス様が早朝の集合時間にいらっしゃらなかったため、ご自宅へお迎えに行かれたそうです。ご家族が寝床を確認したところ空でして、朝早くあるいは夜明け前から出かけたのかもしれない、とのことでした。デキムス様はその後もラビエヌス様を探しているのですが、どなたも未だラビエヌス様のお姿を見ておらぬようです……」
混乱する頭の中で必死に時間を計算する。黒章隊の集合時間は使節団の出発より早かったはずだ。もしラビエヌスが夜中に動いたとすれば……。
状況は既に破綻している可能性が高い。
――いや、そんなはずはない。そうであってはならない。
だが、昨夜の彼の様子が脳裏に蘇る。夜気に震える手、何度も握り直される剣の柄。
そして俺を見つめる瞳の奥に宿っていた炎のような何か……。あれは単なる決意ではなく、絶望と誇りが混じり合った危険な光だったのか?
昨夜、確かにラビエヌスは、俺にこう言ったのだ。
「信じてるぜ、ティトゥス。お前をな」
その言葉に偽りはなかったはずだ。だが、彼の中にある『ピケヌム人としての誇り』と『現実的な判断』の間で、何かが弾けてしまったのかもしれない。彼の中でせめぎ合う二つの声。
——戦士として死ぬか、生き残りとして屈辱を飲むか。その選択を、彼は一人で決めてしまったのだろうか。
心の中で最悪のシナリオが展開される。
夜陰に紛れてローマ軍陣営に忍び込むラビエヌス。
番犬に見つかり、捕らえられる彼の姿。
そして怒り狂うストラボが使節団を前にして、見せしめにラビエヌスの処刑を行う光景……
和平は破綻し、血が流れる。
――アスクルムは終わる。
△▼△▼△▼△▼△
「……若旦那様、どうなさいますか?」
クラウスの問いかけに、俺は一瞬で現実に引き戻される。
俺はどのくらい自分の思考に溺れていたのか……。
冷静に考え直そう。
もしラビエヌスが既にローマ軍の手に落ちているとすれば、追いかけても手遅れかもしれない。だが、座して死を待つわけにもいかない。
「市内の様子はどうだ?」
「アルケウス様たちはまだローマ軍陣営から戻られていないので、街の中は落ち着いております」
それならば、まだ間に合う可能性がある。
即座に決断する。
「こちらもストラボ将軍の元へ向かう。クラウス、ソフィアとデモステネスに伝えてくれ。万が一の時は、市民の避難準備を整えるよう」
「若旦那様が直接? それは危険すぎますっ!」
「ラビエヌスを見殺しにはできない。それに——」
俺は言葉を切り、胸の奥で静かに決意を固める。
「これは最初から俺が覚悟していたことだ。アスクルムを救うためなら、俺は何でもする」
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最短経路を選んで城門へと駆け出した。
石畳の上を駆ける足音が住宅街の閑寂を破って響く。
脳裏には時間への焦燥が張り付いて離れない。
一刻一刻が、ラビエヌスをストラボに近づけている。
胸の中で時計の刻む音が、まるで死刑執行の鐘のように響く。
通りすがりの市民たちが驚いた顔でこちらを見つめるが、振り返っている余裕はない。
角を曲がったところで、ソフィアが俺の前に現れた。
普段なら完璧に整えられた彼女の髪が乱れており、明らかに全力で走ってきたことが分かる。
「ティトゥス様!」
立ち止まることなく、移動しながら経緯を説明する。
「ラビエヌスが単独でローマ軍陣営に向かった可能性が高い。すぐに追わなければ」
「私も同行します」
ソフィアの声は普段通り冷静だったが、その瞳には強い決意が宿っていた。彼女もまた、ラビエヌスを仲間として大切に思っているのだ。
彼女がラビエヌスの訓練に付き合い、傷の手当てをし、時には厳しく叱咤してきた姿を俺は何度も見てきた。きっと彼女にとってもラビエヌスは、守るべき仲間の一人なのだろう。
「いや、君は市内に残ってくれ。万が一交渉が決裂した場合、市民の避難誘導が必要になる。デモステネスと連携して、最悪の事態に備えてくれ」
彼女の同行を断ると、ソフィアは明らかに不満そうな表情を浮かべた。
しかし俺の判断が正しいことを理解しているようだった。彼女は市民から信頼されているし、またその身のこなしがあればパニックに陥った市民たちを冷静に誘導できる。その能力を、今は街の守りのために使ってもらわなければならない。
「……承知しました。ですが、ティトゥス様もくれぐれもご注意を」
「分かってる。ありがとう。君たちがいるから、安心して行ける」彼女に軽く手を振って、再び走り出す。
城門の手前、路地を曲がる直前でデモステネスが待ち受けていた。彼は音もなく俺の前に立ち、無表情のままだ。
その黒い瞳に、普段の冷静さを超えた何かが宿っているのを感じ取る。
彼の瞳の奥には、まるで夜の森のような深い闇があり、その中で何かが静かに燃えていた。
「……デモステネス」
俺が声をかけても彼は返事をしない。だがその沈黙にも意味があることは理解していた。
彼は常に、俺の身の安全を最優先に行動している。そこにブレはない。
ただ、同時にラビエヌスの身を案じてもいる。三人の間に築かれた友情を、彼なりに大切にしているのだ。
「……わかった。だがお前の姿は敵に見せるな。最後まで俺の動きをよく見ておけ」
そう告げると、彼は小さく頷いて道を開け、陰へと身を潜めた。
影に溶け込むような、まるで最初からそこには誰もいなかったかのような鮮やかさだった。
普段なら苦笑いの一つも浮かべるところだが、今はそんな余裕もない。
城門までたどり着くと、門番の兵士のうち一人が、こちらに近づいてきた。
通行許可を持たぬ者が門を出ることは禁じられていたが、俺は必死に声を絞り出す。
「長老たちから補佐として指名されている者だ。今、急ぎ合流し伝えなければならない事由がある」
声が上ずっているのを自分でも感じる。
嘘ではない、だが真実でもない。
でもある意味では真実だ。俺がアルケウスに同行する可能性は、事前に話し合われていたのだから。
だが今はそんな言葉遊びをしている時間すらもったいない。
門兵は一瞬眉をひそめたが、こちらの顔を見ると何かを悟ったように頷いた。
この数ヶ月間、市の重要事項への関与は彼らも承知していたのだろう。
そして今の俺の表情に、何か尋常ではない緊急事態が起きていることを感じ取ったに違いない。
「……急げ」
「すまない」
城門が開くと同時に、礼を言って外へ駆け出す。
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城門を抜けると、ピケヌムの美しい丘陵地帯が眼前に広がった。
普段なら心を癒やすはずの風景も、今日ばかりは不吉な予感を漂わせているように見える。
丘の斜面には野生のオリーブの木が点在し、秋の陽光で黄金色に輝く麦の切り株が風に揺れている。
だがその牧歌的な光景の向こうに、死の匂いが漂っているような気がしてならなかった。
遠くに見えるローマ軍の陣営は、想像を遥かに超える規模で広がっていた。
整然と並べられた天幕、規則正しく配置された柵、そして陣営全体を囲む土塁。
全てが軍事的な効率性を追求して作られており、その完璧さが逆に不気味だった。
陣営の周囲にはローマ軍の象徴である赤い鷲旗が何本も立てられていた。
風に翻るその旗を見ていると、ローマの圧倒的な威容とそれに立ち向かうアスクルムの儚さが対比となって迫ってくる。
この街がどれほど小さくどれほど無力な存在なのかを、この風景は静かに教えていた。
そして初めて、心の底から理解する。
自分がこれから向かおうとしているのは単なる交渉の場ではない。
アスクルムの運命を決める最後の戦場なのだ。ここで失敗すれば愛する人たちの全てを失う。
ラビエヌスを、ソフィアを、デモステネスを、そして街の全ての人々を。
——ラビエヌス!
心の中で彼の名前を叫んでいた。声に出さずとも、その叫びが喉を焼くように熱い。
胸の奥で何かが重く沈む。
だが同時に静かな覚悟も宿っていた。
俺はラビエヌスを救い、この街を守り抜く。
感情に流されるのではなく冷徹な計算で全てを制御するのだ。
それが俺にできる唯一の戦い方だった。
ローマ軍陣営へと近づくにつれ、心は驚くほど落ち着いていた。もはや迷いはない。ここから先は、俺の戦場だ。
――街道の向こうに、使節団の白い旗が見える。
交渉は既に始まっているのだろう。そして、どこかでラビエヌスが——
俺は足を速めた。すべてを終わらせるために。
本作品は生成AIを活用しつつ、作者自身の構成・加筆・編集を加えて仕上げた創作小説です。AIとの共創による物語をどうぞご覧ください。
なお作者は著作権法上の問題はないと判断のうえ、投稿を行っております。安心してお楽しみいただければ幸いです。
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