第60話『ファレルノ山の勝利と誤算』
ルキウス・ユリウス・カエサルとプブリウス・ルティリウス・ルプスが執政官の年(紀元前90年)三月、ピケヌム地方アスクルム市内、ティトゥス
三月。
事態は未だ膠着状態が続くと思われたが、戦局は一気に動き出した。
執政官ルプス(ローマの最高行政官)と副官ストラボはピケヌム全般に『ゆるい封鎖線』を敷いた。
包囲線は敢えて”孔だらけ”にし、敵兵力を外へ引き出して平地戦へ誘導する作戦だったようだ。
しかし、この思惑は脆くも外れることとなった。
イタリカ軍(同盟諸都市の反ローマ連合軍)指導者ティトゥス・ラフレニウスとガイウス・ウィダキリウスが連合軍六万を動員し、ファレルノ山の戦いにてストラボを撃破したのである。ローマ軍が山間部移動中に襲撃したようだ。
ストラボはイタリカ軍の挟撃を受け撤退を開始し、フィルムムまで後退した。そこでしばし籠城する事態となったとのこと。地の利のあるイタリカ側の作戦勝ちだな。ただし、ストラボを討ち取れなかったことは、イタリカ軍にとって悔いの残る結果となった。
この報せがアスクルムに届いたとき、街の空気は一変した。
「ローマ軍が敗れた!」
「ストラボ将軍が逃げ回っている!」
「今こそ我らの時だ! 後に続け!!」
反ローマ派の声が急激に高まり、市内の雰囲気は一気に好戦的なものとなった。ウィダキリウス派の若者たちが街を練り歩き、ローマ恭順派の商店に石を投げる事件も発生する。
俺たちは改めて現在の状況を確認し、今後の活動方針について打ち合わせを行った。まずは家族とフィルムム本店メンバーの無事を確認する。
「フィルムム本店メンバーは皆無事なようだね、爺様から連絡が来たときは驚いたよ」
「よく大旦那様から書簡が届きましたね。一体どのような伝手をお持ちなのでしょうか……」
「爺様の底知れぬ行動力については、俺にもさっぱり見当がつかない。母と姉、それに小アエリアがローマの父の元へ移っていたおかげで、爺様は自由に動き回れているのだろう」
「ガイウス様は猛禽のような方ですからね。籠から放たれて、大人しくすることができるのかしら……」
ソフィア……爺様を鳥扱いか……さすがだ。ついでに母さんは鳥かご扱い……。
続いてデモステネスから、アスクルム市の首脳陣に関する報告があった。
「若様、状況が悪化していますね。市議会では反ローマ派、いやウィダキリウス派の発言力が増しています。十七名家における会合でも同様の状況だと思われます」
ソフィアが続けて市内の雰囲気を伝えてくれた。
「パピリウスが再び過激な主張を始めました。今度は武器の調達を公然と要求していますよ。懲りてないわね」
壁に貼り付けたイタリア半島南部(ピケヌム以南)の地図を見ながら、俺は自身の考えを整理する。ファレルノ山の戦いでの勝利により、イタリカ軍の士気は一気に高まった。
そりゃローマをやり込めたのだから盛り上がるだろう。しかし、これは一時的な現象に過ぎない。おそらくストラボは四月までにフィルムム会戦で逆転勝利を収めるはずだ。
「まずは落ち着こうか。まだ序盤戦に過ぎないよ。重要なのは、この勢いに流されて無謀な行動に出ないことだ」
△▼△▼△▼△▼△
戦争の行方はこのあと、史実通りの展開となっていくはず。
俺はそう思い込み、戦況をやや楽観視し過ぎていた。ここから俺の計算に狂いが生じ始めることとなる。
理由は明確だった——リクトル・サルウィウスの存在である。
リクトル・サルウィウス。彼がなぜこれほどまでに理想主義に駆り立てられるのか、その背景には複雑な過去があった。
十年ほど前、まだ若かった彼はマリウス将軍率いる軍に加わりウェルケッラエの戦い(北方ゲルマン民族との大戦)でキンブリ族と戦った。
そこで彼が目にしたのは、ローマ市民として認められない同盟市兵士たちの悲哀だった。戦場では命を懸けて戦いながら、勝利の後では二等市民として扱われる現実。
仲間たちの死を目の当たりにした彼は、『戦とは剣を振るだけではない。何を守りたいか、それを決めてから握るもの』という信念を胸に刻んだ。
マリウス将軍は、そんな彼を高く評価していた。
「君のような純粋な魂こそが、ローマの、いやイタリアの未来を担うのだ」
——最後に会った時の、あの温かい握手と共に語られた言葉は、今でもリクトルの心の支えとなっていたようだ。ドルーススの死により一度は動揺した彼だったが、ファレルノ山での勝利が戦士としての血を再び呼び覚ましたのだ。
しかし彼の理想主義の根源には、より個人的な痛みもあった。リクトルの父は、かつてローマ市民権獲得運動の先駆者として活動していたが、『ローマとの友好』を信じて財産の大半を投資に回した結果、サルウィウス家は往時の輝きを失っていた。父の理想が現実に砕かれた姿を見続けてきたからこそ、リクトルは『今度こそは違う』という思いで理想を追い続けているのである。
ラビエヌスのような若者たちが兄貴分として彼を慕うのも、こうした純粋な信念ゆえだった。
『ローマに服従するのが正しいなら、私は剣を折る』という彼の言葉は、単なる修辞ではなく、生き方そのものの表明だった。
そして今、イタリカ軍によるファレルノ山での戦勝の報せが彼の内に眠っていた理想への情熱を、再び燃え上がらせていた。
今の彼は自信に満ち溢れており、その言動には人を惹き付ける魅力を取り戻している。
以前の動揺は嘘のように鳴りを潜めており、何か立ち直るきっかけがあったのかもしれない。
リクトルは広場で民衆に向かって持論を説く。
「今こそピケヌムの誇りを示すときだ」
「ローマの圧政に屈することなく、祖先の血を引く者として戦うべきだ」
「我々はピケヌムの父祖の栄光を子孫に残さなくてはならない。一度絶えてしまえば取り戻すことはできないものが、この世にはあるのだ」
彼の言葉は多くのアスクルム市民の心を揺り動かした。イタリカ建国宣言から実際に戦争が始まり、ローマが軍を派遣する事態に至り、アスクルム市内の世情は大きく変化した。俺が慎重に築き上げてきた穏健派の結束が徐々に崩れ始めている。
リクトルは十七名家の反ローマ派の主役に躍り出ようとしていた。まぁ、あまり目立ちたくない一部の当主に煽てられているだけかもしれないが。
△▼△▼△▼△▼△
四月初旬、状況は再び急変する。
ストラボがフィルムムで反撃を開始したのだ。自ら精鋭の六大隊でフィルムム市外に突撃し、副官のプブリウス・スルピキウス・ルフス隊を敵背面に潜り込ませ、仕返しとばかりに”挟撃”を仕掛けたのだ。火攻めで相手の士気を崩し、フィルムム包囲戦を突破。そして、なんとラフレニウスを討ち取ったのである。
この報せが届くと、アスクルムの空気は今度は一転して沈鬱なものとなった。
「ラフレニウス将軍が死んだ…」
「……ストラボめ、やりおった」
「これで形勢は逆転か……」
街角では落胆した市民たちの姿が目立った。つい先月まで勝利に酔いしれていた反ローマ派も、急に元気を失っている。忙しい奴らだ。
この機会を逃すまいと、俺は再び活動を活発化させる。
アルケウス長老との会談を重ね、市議会での穏健派の結束を図った。デモステネスには、市内の商人層への働きかけを強化させた。またソフィアには反ローマ派内部の動向をより詳細に探らせた。
しかし、ここでまた予想外の事態が起こった。
リクトルが一人、単独で行動を開始したのである。
「一度敗北したからといって、すぐに諦めるのか」
「ラフレニウスの死を無駄にしてはならない」
彼は少数の支持者と共に集会を開き、自らを鼓舞するかのように、より一層発言を過激に彩っていく。
「ティトゥス様、リクトルが独自の武装集団を組織しようとしています」
俺はソフィアからの報告でこの動きを知る。
これは完全に想定外だった。想定では一進一退はあるもののフィルムム会戦の敗北以降、アスクルム市内の反ローマ派は徐々に沈静化し、穏健派が主導権を握れる状況になるはずだった。だがリクトルのような理想主義者は、むしろ逆境に燃える性質がある。
「デモステネス、リクトルの動向を詳しく調査してほしい。彼が何を計画しているのか知る必要がある」
「承知しました。セルウィリウス法務官訪問後、リクトル殿からはしばらく目を離していたので、改めて体制を構築します」
だが、調査の結果は更に頭の痛い内容だった。リクトルは近隣の反乱都市と秘密裏に連絡を取り、アスクルムを反ローマ蜂起の拠点にしようと画策していたのだ。
「――これは危険だ」俺はアルケウス長老にすぐさま相談する。
「リクトル殿の行動がローマに知れれば、アスクルムは再び標的になります」
「分かっている。だが、リクトル坊や……あの理想主義者を止める方法が見つからないのだよ。彼は市民の尊敬を集める人物でもあるのだ」
アルケウスは困った表情を浮かべてそういった。
そうだった。リクトルはアスクルムにおいては、対ゲルマン及びユグルタ戦役(北アフリカでの対外戦争)の英雄であり、高潔な人格者として知られている。彼を公然と批判すれば、批判した当人が『ローマの手先』と疑われかねない。
特に俺とリクトルの間には幾つかの問題が生じていたことが、輪をかけて解決に至る道を険しくしていた。昨年のセルウィリウス来訪事件で生じた深い溝である。俺たちは簡単に会話ができる関係性ではなくなっていたからだ。
△▼△▼△▼△▼△
書斎に戻り、地図を前に深く考え込んだ。アルケウス長老との会談を終え、夕暮れの石畳を踏みしめながらクリスプス商会へと足を向けた道のりで、頭の中は既に次の手を模索していた。
市場から流れてくる商人たちの声、遠くで響く鍛冶屋の槌音、そして城壁に掲げられた軍旗が風に翻る音——アスクルムの日常の音が耳に入りながらも、心は戦略の組み立てに集中していた。
アスクルムが単独でローマに勝てる武力を持たない以上、選べる手段、選択肢は極めて限られている。しかし、だからこそ慎重に戦略を練る必要があった。
まず、アスクルムが置かれた状況を冷静に分析する。この都市には三つの道がある。
第一に、イタリカ軍と共に最後まで戦い抜く道。
第二に、早期にローマに降伏する道。
そして第三に、戦争の推移を見極めながら最適なタイミングで行動を決める道。
第一の選択肢は論外だ。アスクルムには軍事的勝算がない。第二の選択肢も危険すぎる。ローマは反逆都市への見せしめを必要としており、早期降伏が必ずしも寛大な処遇を保証するわけではない。
となれば、残る選択肢は第三の道——時を稼ぎながら最善の機会を待つことだった。しかし、この戦略には致命的な問題がある。リクトルのような理想主義者が暴走すれば、この計画は全て水泡に帰してしまう。
どうしてもここで考えが詰んでしまう。
そこで何か打開策はないかと、デモステネスを呼んで議論することにした。
「ストラボの注意を引く方法について、何か案はないかな?」
「ストラボ将軍の注意を、ですか?」
デモステネスが眉をひそめ、腕を組む。そのまま左手を顎に当て考え込んだ。それが彼のいつものスタイルだな。ちなみに俺は、いつもの机上で胡坐をかくのがスタイルだ。
「危険な考えのように思われますが……」
「危険だが、必要なことかもしれない。このままリクトルが暴走すれば、アスクルム全体が巻き込まれる。ストラボに我々の存在を認識させ、何らかの交渉の糸口を作る必要がある」
頭の中では、既に複数のシナリオが組み立てられていた。ストラボは単なる武将ではない。政治的野心を持つ男だ。適切な条件を提示すれば、無益な流血を避ける道を選ぶ可能性がある。
問題は、その条件をどう提示するかだった。アスクルムが完全な降伏以外の選択肢を持っていることを示し、なおかつストラボにとってメリットのある提案を行う——これが課せられた至難の命題だった。
他の都市のことを考えると胸が痛む。だが、今の俺にできることはアスクルムを救うことだけだ。それすらもこの掌からこぼれ落ちようとしている。
ただ、全てを救おうとして結局何も救えないより確実に救えるものから救う。それが現実主義である俺の選択だった。
本作品は生成AIを活用しつつ、作者自身の構成・加筆・編集を加えて仕上げた創作小説です。AIとの共創による物語をどうぞご覧ください。
なお作者は著作権法上の問題はないと判断のうえ、投稿を行っております。安心してお楽しみいただければ幸いです。
--------------------------------------------------
(軍事オプションがないということが、如何に外交上の不利益をもたらすのか。これは真面目に考えざるを得ない現実だと思います)
もし物語の余韻が心に残りましたら、評価やブックマークという形で、想いを返していただければ幸いです。
第一部の登場人物一覧はこちら↓
https://ncode.syosetu.com/n4684kz/1/
第一部の関連地図はこちら↓
https://ncode.syosetu.com/n4684kz/2/




