第50話『嵐への備え』
ルキウス・マルキウス・ピリップスと セクストゥス・ユリウス・カエサルが執政官の年(紀元前91年)十一月初旬、ピケヌム地方アスクルム市内、ティトゥス
石造りの門をくぐり、馴染みの中庭に足を踏み入れると、ようやく肩の力が抜けた。噴水の水音が心地よく響き、オリーブの木々が秋風に葉を揺らしている。
屋敷に戻ると、玄関の石段でアウレリウスが待ち構えていた。俺の姿を認めた瞬間、彼の顔に安堵の色が浮かぶ。その手には白い布巾が握られており——俺の汗を拭うつもりだったのだろう。心配をかけてしまったな。
「ティトゥス様、セルウィリウス殿との会談はいかがでしたか?」彼の声には緊張が滲んでいる。
「厳しいものだったよ」と、正直に答える。
「詳細は後で話そう。まず、軽い食事を用意してもらえるか?」
「承知しました」
重い足取りで玄関を上がる。アウレリウスが深々と頭を下げ、使用人たちに手早く指示を出し始めた。
いつもの書斎に向かい、窓際の椅子に座る。羊皮紙の匂いと、窓から流れ込む秋の冷たい風が頬を撫でていく。外を見ると、アスクルムの街並みがいつものように穏やかに広がっている。商人たちの呼び声、荷車の軋む音、子供たちの笑い声が遠くから聞こえてくる。昨夜の騒動など、まるでなかったかのような日常だ。
しかし、分かっている。この平和は脆い。一触即発の状況が、薄い表皮の下に隠されているのだ。
「若様」デモステネスが扉の向こうから声をかけてきた。
「お食事の準備が整いましたが、こちらにお持ちしましょうか?」
「そうしてくれ。ありがとう」
食事も取れる机へと移動しながら、ふと考えが浮かぶ。
――転生してから約十年。俺はこの世界で何を成し遂げてきたのだろうか?
現代日本にいた頃は、ごく平凡な会社員だった。仕事で海外に居たときはそれなりに忙しく過ごしていたが、日本に戻ってからはそこそこに残業し、満員電車に揺られ、特に大きな野望も持たずに日々を過ごしていた。唯一の趣味と言えば、歴史小説を読むことくらいだったし。少し冒険したと言えば、20代の頃に一度休職してイタリアに留学したくらい経験があるくらいだ。それも3年で終わってしまったが。
――あの頃の俺なら、今の状況を『歴史小説の主人公みたいでカッコいい』とでも思っただろう。だが現実は違う。一つの判断ミスが数万人の命を左右する。現代日本の『責任』とは重みが違いすぎる。
そんな平凡だった俺が今、古代ローマの政治という巨大な渦の中心にいる。一万数千もの人々の命運を、この手で左右しなければならない立場にいるのだ。
ため息をつくと、その責任の重さが、改めて鉛のように肩にのしかかってきた。やれやれ
ふと気づくと、ソフィアが心配そうに首を傾げながら覗き込んでいた。
「ティトゥス様。お顔が青白いです。大丈夫ですか?」
「……少し考え事をしていただけだ。大丈夫」
……驚いた。全く気が付かなかった。それにしても、ちょっとだけ近すぎやしないか、ソフィア。
彼女の心配そうな表情を見ていると、昨夜のことが思い出される。リクトルの屋敷前で群衆を前に演説した時、確かに「政治家」として行動していた。パピリウスを説得し、民衆を納得させ、流血を防いだ。あの瞬間、間違いなく指導者だった。
「……若様、何かお手伝いできることはありませんか?」デモステネスが気遣うように尋ねてきたが、『いや、今は一人で考えたい』と答える。
しかし、それは本当に俺なのだろうか? 転生者としての知識、現代人としての価値観、そして十年弱のこの世界での経験——それらが混合した結果としての俺。果たして、これが本当の自分なのか、それとも状況が作り上げた仮の姿なのか。
現代人なら当たり前の『基本的人権』や『民主主義』という概念が、この世界では革命的すぎて口にすることさえ危険だ。だが、それを知っているからこそ見える視点もある。古代ローマの政治手法を、現代の政治学で分析できる優位性もあるのだ。
そんな思考を巡らせているうちに、アウレリウスが軽食を運んできてくれた。銀の盆に丁寧に盛り付けられた焼きたてのパン、オリーブ、チーズ、そして山羊のミルクと薄めた葡萄酒だった。ミルクは温められており、シナモンの甘い香りが鼻腔をくすぐる。パンの香ばしい匂いと、オリーブの塩気のある風味が口の中に広がり、空腹だった胃に染み渡る。
「ありがとう。ところで、市内の様子はどうだ? 今朝の件で何か変化はある?」
「はい」とアウレリウスが答えた。蝋板を取り出しながら、状況を説明してくれる。
「昨夜の騒動については、既に様々な噂が飛び交っております。しかし、若旦那が仲裁されたということで、多くの市民は安堵しているようです」
「そうか」
「それからリクトル様から伝言がございます。『昨夜は助けていただき、心から感謝している。近日中に、改めてお礼に伺いたい』とのことでした」
アウレリウスからの報告に『了解』と頷く。リクトルとの関係修復は重要だな。彼が完全に俺の側に来ることはないだろうが、少なくとも敵対することは避けたい。
パンを一口かじりながら、今後の戦略を考える。
「若旦那、何かお気に障ることでもございましたか?」アウレリウスが遠慮がちに口を開いた。
「……いや、特にないよ。ただ、これからのことを考えていたんだ」
なるべく平静を装いながら答えるが、内心では嵐のような思考が渦巻いている。
セルウィリウスはローマ元老院に対し、今回の事件を己に都合の良い報告をするだろう。その結果、次に派遣されるのは、より強硬な相手のはずだ。政務官が率いる大隊などではな。歴史的に考えれば、それはポンペイウス・ストラボによるローマ軍の可能性が高い。
ストラボは、セルウィリウスとは格が違う。歴戦の将軍であり、政治的手腕も一流だ。何より、彼は後に息子のポンペイウス・マグヌスを育て上げた男でもある。
――歴史を知っているアドバンテージがここにある。彼の息子がどれほどの人物になるかを知っているからこそ、父親の実力も推測できる。現代のビジネスで言えば、競合他社の将来戦略まで知っているようなものだ。
そのストラボと対峙することになれば、現在の防衛体制・兵站のままでは準備不足だろう。
――何か、決定的な手を打つ必要がある。
しかし、何を?
頭の中で、様々な可能性が渦巻く。十七名家の完全な結束、商会ネットワークを使った情報戦、ローマ内部の政治的混乱の利用……。
「ティトゥス様、デモステネスが」ソフィアが小声で話しかけてきた。
「分かった。入ってもらって」
だが、どれも決定打に欠ける。根本的な解決策ではない。そう考えているその時、アウレリウスと入れ替わりで、デモステネスが書斎に入ってきた。彼の表情は深刻で、何か重要な話があることを察する。
「若様、お食事の方はいかがですか?」
「ああ、だいぶ落ち着いた。ありがとう。……ところでデモステネス、率直に聞きたい。今の俺たちの戦力で、あのポンペイウス・ストラボと戦えると思うか?」
その名前を口にした瞬間、部屋の空気が重くなった気がする。デモステネスは椅子に腰掛け、しばらく沈黙してから重い口を開いた。
「軍事的には……正直に申し上げて、勝ち目はありません」彼の声には苦渋が滲んでいる。「政治的には……微妙なところです」
俺も思わず身を乗り出す。「政治的に? 具体的にはどういうことだ?」
「ストラボは確かに有能な将軍です。しかし……」デモステネスが一瞬躊躇い、それから決意を込めて続ける。「同時に非常に欲深い男でもあります。金銭や地位への執着は人一倍強い。だからこそ、交渉の余地があるのです」
「……交渉、か」
俺は椅子の背にもたれかかり、天井を見上げた。
――Win-Winの関係構築か。現代のビジネス交渉理論そのものだな。相手の真の欲求を満たし、こちらの利益も確保する。ハーバード交渉術の原則がこの時代にも通用するとは。
「そうです。ストラボが本当に欲しているのは、アスクルムの破壊ではない。自分の政治的地位の向上です。我々がその手助けをできれば……」
「なるほど。しかし、そのためには相当な準備が必要だね」
俺は拳を握りしめる。時間がどれほど残されているのだろうか。
「その通りです。まず、ストラボの弱点と欲望を詳細に調査しなければなりません。それから、我々が提供できる価値を整理し、交渉戦略を練る必要があります。しかし若様……」
彼の表情に不安の影が差す。「時間が足りるでしょうか?」
交渉戦略か……確かに、興味深いアプローチだ。やはりデモステネスは鋭い洞察を持っている。その分析力なら、この絶望的な状況でも活路を見出せるかもしれない。
「分かった。その線で準備を進めよう。ただし……」俺は一度言葉を切り、重い現実を口にする。
「交渉が失敗した場合の備えも必要だ」
「軍事的な備えでしょうか?」
「いや、避難計画だ。最悪の場合、市民を安全な場所に避難させなければならない」
「それは……敗北を前提とした計画ですね」
「そうだ。勝利を目指すが、敗北も想定する。それが責任ある指導者の務めなんだ」
デモステネスの声に緊張が走り、顔がやや青ざめた。その彼の目をまっすぐ見つめる。
――現代で言うリスクマネジメントだな。最良のシナリオだけでなく、最悪のケースまで想定して対策を練る。これは現代のプロジェクト管理の基本だが、この時代の人間には『弱気』に映るのかもしれない。
首を横に振ってその意図を示すと、デモステネスの表情が暗くなった。悪手であるのは率直に認める必要がある。しかし試算をしないわけにはいかない。そう考え込んでいるその時、ソフィアが扉をそっと閉め、恭しく頭を下げながら、書斎に入ってきた。
「失礼します。ティトゥス様、ブリンディシウム支店からの報告書が届きました」
書類を受け取り、羊皮紙を広げてさっと目を通す。文字を追っていくうちに、重要な一文が目に飛び込んできた瞬間——血の気が引く。
これから先の展開を予想させる、大きな情報だった。
本作品は生成AIを活用しつつ、作者自身の構成・加筆・編集を加えて仕上げた創作小説です。AIとの共創による物語をどうぞご覧ください。
なお作者は著作権法上の問題はないと判断のうえ、投稿を行っております。安心してお楽しみいただければ幸いです。
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(未来を知っているって、本当にアドバンテージなのでしょうか。。ちょっと考えちゃいますね)
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