第41話『リクトル・サルウィウス』
ルキウス・マルキウス・ピリップスと セクストゥス・ユリウス・カエサルが執政官の年(紀元前91年)十一月初旬、ピケヌム地方アスクルム市内、ティトゥス
アルケウス長老との会談を終えて自宅に戻ると、既に太陽は中天高く昇っていた。簡素な昼食を取りながら、午後の予定を整理する。セルウィリウス対策の最後の仕上げとして、どうしても確認しておかねばならない人物がいた。
リクトル・サルウィウス
――アスクルムの理想主義者たちを束ねる精神的指導者。彼の動向次第では、明日の式典が思わぬ方向に転がる可能性がある。
午後の日差しが傾き始める頃、アルケウスの紹介状を懐に、サルウィウス家の邸宅へと足を向けた。この屋敷は、市の西側にある古い貴族街の一角にある。かつては栄華を極めた一族の居住地だが、今は往時の輝きを失い、どこか寂寥感が漂っていた。
使用人に案内されて邸宅内に入ると、廊下には家族の肖像画が並んでいる。栄光の時代を物語る品々が、薄暗い室内に静かに佇んでいた。途中、リクトルの父親の肖像画の前で足を止めた。かつてローマ市民権獲得運動の先駆者として名を馳せた人物だが、その理想は息子に重い遺産として受け継がれているようだった。
書斎の扉を叩くと、中から弱々しい声が応答する。促され部屋に入ると、リクトルは大きな机に向かい、羊皮紙に何かを書き続けていた。窓から差し込む午後の光が、彼の疲れ切った横顔を照らしている。
「リクトル殿、お忙しい中お時間を作っていただき感謝申し上げます」
「いや、大したことはありませんよ……」
リクトルの声は多少気力を取り戻したようだが、明らかに中央広場で演説していた時のような力強さが欠けている。ドルースス暗殺の衝撃が、彼の精神に深い傷を残していることは明らかだった。
「明日の法務官セルウィリウス殿の受け入れについて、ご相談があります」
「ああ、そのことですね」リクトルが羊皮紙から顔を上げた。
「実は私も、重要な決意を固めたところです」
リクトルは一見胸を張って話し始めるものの、その目の奥にはどこか虚ろな影が宿っている。
その危険な響きを含んだ言葉を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走る。危機感を覚えながら、慎重に言葉を選んで尋ねる。
「一体どのような決意なのでしょうか? 差し支えなければお教えいただきたく…」
リクトルは立ち上がり、客用の長椅子に座りながら手招きする。彼に促されたテーブル向かいの椅子に座り、じっと言葉を待つ。
「ローマの法務官であるセルウィリウス殿に対して、堂々と我々の理想を語るつもりです。ドルースス殿の遺志を継ぎ、真のイタリア統合の必要性を説くのです」
リクトルの目に危険な光が宿っている。
うわ……内心で頭を抱えたくなったぞ。それは最悪の選択だ。
「リクトル殿、それは危険すぎます。セルウィリウス殿は理想論を聞きたがっているわけではありません」
「では、何を聞きたがっているのです? アスクルムの屈服でしょうか? 我々に誇りを捨てることを求めに来たとでも? この屋敷も、いずれは手放すことになるでしょう」
リクトルが苦笑いを浮かべながら振り返った。
「父は『ローマとの友好』を信じて財産の大半を投資に回しましたが、結果は……ご覧の通りです」
彼の声に宿る苦々しさは、単なる政治的理想だけでなく、個人的な恨みも含んでいることを物語っていた。
「……そうではありません。しかし、今は慎重な対応が必要で――」
「慎重な対応とは? ドルースス殿が殺され、イタリア人の希望が踏みにじられているのに、まだ慎重でいろというのですか?」
リクトルの声が一段と高くなる。彼の感情的な起伏を見て、直接的な説得は逆効果だと判断し咄嗟に会話の流れを変えた。
「リクトル殿の理想は立派です。しかし、それを実現するためには、まず生き残る必要があります」
「生き残って、奴隷のような生活を続けろと?」
「いえ、生き残って別の機会を待つのです。今回はピケヌムの理想を語る場ではありません。嵐をやり過ごすべきです」
「……」
リクトルは突然立ち上がり、窓際へと歩いていった。彼の背中に、言いようのない重圧が感じられる。
「ティトゥス殿、あなたは現実主義者だ。それは理解している。しかし、私には見えるのです。このまま何もしなければ、我々の子供たちがどんな未来を迎えることになるかが」
「リクトル殿……」
「ドルースス殿は言っていました。『変革には犠牲が伴う』と。私は、その犠牲を引き受ける覚悟でいるのです。最後にお会いしたのは三月でした」
リクトルは振り返ることなく、窓の外に顔を向けている。彼の目が遠くを見つめている。
「『君のような純粋な魂こそが、イタリアの未来を担うのだ』とおっしゃってくださった。あの時の握手の温かさを、私は忘れることができません」
彼の声に宿る決意の固さに、説得の難しさを痛感した。理想を抱く者の純粋さが、時として最も危険な武器になることを改めて思い知る。
「しかし、リクトル殿。ドルースス殿もまた、無謀な行動は取らなかった。彼は時を選び、場を選んで理想を語ったのです」
「それでも彼は殺された」リクトルが振り返る。その目には、失望と怒りが混在していた。
「慎重さが何の保証になったというのです?」
この問いかけには、簡単に答えることができない。確かにドルーススは慎重に行動していたにもかかわらず、暗殺されてしまった。リクトルの絶望も無理からぬことだった。
「ドルースス殿の死は確かに大きな損失でした。しかし、彼の理想は死んではいません。理想だけでは人は救えません。具体的な行動が必要なのです」
「では、お聞きします」椅子から立ち上がり、リクトルと改めて向き合った。
「セルウィリウス殿に理想を語って、仮に彼が感動したとしましょう。その後、何が起こると思われますか?」
「それは……」
「彼は一法務官に過ぎません。元老院の決定を覆す権限はない。むしろ、あなたの発言を危険視して、ローマに報告するでしょう」
リクトルの表情が動揺を示し始める。感情的になっていた彼に、冷静な現実認識を促すことができたようだ。
「つまり、理想を語ることで得られるのは一時的な満足感だけ。その代償として、アスクルム全体が危機に陥るのです」
「……しかし、黙っていても状況は改善しない」
「改善しないかもしれません。しかし、悪化を防ぐことはできます」俺は一歩近づいた。
「リクトル殿、あなたには多くの支持者がいる。彼らの安全も考えてください」
外では馬蹄の音が響いている。午後も遅い時間に騎馬で急ぐ者がいるとすれば、それは尋常ではない。リクトルも同じことを感じ取ったのか、窓の方へ視線を向けた。遠くから聞こえてくる複数の足音が、徐々に近づいてくる。
長い沈黙が部屋を支配した。
リクトルは再び窓の外を見つめ、何かと格闘しているようだった。その時、書斎の扉が急にノックされた。使用人が慌てた様子で入ってくる。
「申し訳ございません、リクトル様。カエシウス・セウェルス様の使者がお見えになり、『緊急にお話が』と……」
リクトルと俺の視線が交錯した。
使用人の慌てぶりが尋常ではない。普段であれば、来客は事前に予告されるものだ。しかも序列2位であるカエシウス・セウェルスほどの人物が「緊急に」と言うからには、アスクルム全体に関わる重大事が起きている可能性がある。セルウィリウスの到着予定が早まったのか、それとも別の—より深刻な—事態が発生したのか。
セウェルスの使者は、この微妙な交渉に新たな変数をもたらす可能性があった。
「少しお待ちいただくよう伝えてください」リクトルが使用人に指示を出す。
「今、重要な話し合いをしているところですから」
使用人が去った後、部屋に再び沈黙が戻った。しかし今度は、時間の切迫感が加わっていた。
廊下の向こうから、使者の足音が聞こえてくる。明らかに苛立っている様子だ。おそらく五分と待ってはくれまい。リクトルとの交渉を完結させ、なおかつセウェルスの使者が持参した「緊急事態」に対処する—残された時間は限られている。
彼の内面で、理想と現実、信念と責任が激しくぶつかり合っているのが手に取るように分かる。
「私は……」リクトルが口を開きかけて、また黙り込んだ。
さらに時間をかけて、彼の心境の変化を待った。急かすことはできない。このような重要な決断は、本人が納得するまで時間が必要だった。
「……あなたの言いたいことは分かります。しかし、私には引くべき時と進むべき時を見極める自信がありません」
その素直な告白に、彼の純朴な人間性を感じた。ラビエヌスが兄と慕う気持ちがよくわかる。
「なら、今回は判断を他の人に委ねませんか? アルケウス長老が前面に立ち、リクトル殿は後方で控える。それが最も安全です」
リクトルが深い溜息と共に肩を落とす姿を見て、ようやく届いたか…と気持ちが込み上げてくる。
「私は……」リクトルが震える手で額を押さえた。
「ドルースス殿を失った後、怒りで頭が沸騰していたのかもしれません。冷静になって考えてみれば、確かにあなたの言う通りです」
長い沈黙の後、彼は深く息を吸った。
「理想を追うことと、無謀に突進することは違う。ドルースス殿ならば、必ずより賢明な道を選んだでしょう」
そして、ようやく安堵できる言葉が続いた。
「分かりました。今回は、あなたの判断に従いましょう」
この言葉によって、リクトルの危険な暴走も何とか防ぐ目処が立ったことになった。内心で安堵の溜息をつくことができた。
やれやれ、これでセルウィリウスは命拾いしたことになりそうだな。
しかし廊下の足音は止まることなく、むしろ頻繁になっている。彼が運んできた知らせが、今回の交渉をさらに複雑にする可能性は十分にあった。セルウィリウスの件だけで済むと考えていたのは、楽観的すぎたのかもしれない。
…あ、まだパピリウスがいた。
本作品は生成AIを活用しつつ、作者自身の構成・加筆・編集を加えて仕上げた創作小説です。AIとの共創による物語をどうぞご覧ください。
なお作者は著作権法上の問題はないと判断のうえ、投稿を行っております。安心してお楽しみいただければ幸いです。
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