第36話『価値観の違い』
ルキウス・マルキウス・ピリップスとセクストゥス・ユリウス・カエサルが執政官の年(紀元前91年)十月、ピケヌム地方アスクルム市内、ティトゥス
商会に戻ると、デモステネスとソフィアに結果を報告した。デモステネスは腕を組み、深いため息をついた。
「予想通りでしたね。リクトル殿の理想主義は、現実的な妥協を許さない性質のものでした」
デモステネスが呟くと、ソフィアが前向きな意見を提案してくれた。
「でも、諦めるには早すぎませんか? 別のアプローチを試してみては?」
「どのようなアプローチが考えられる?」
「リクトル殿の理想を否定するのではなく、それを実現するための手段として現実的な選択肢を提示するのです」
「ドルーススの理想を継承し、より良い形で実現する道があると説得するのです」デモステネスが補足した。
「現在の混乱を収束させることで、将来的により大きな理想を実現できる可能性があると」
「なるほど。理想を捨てろと言うのではなく、理想を実現するための戦略として現実路線を提示するということか」
「その通りです。ティトゥス様の最初のアプローチは、どうしても理想を軽視しているように聞こえてしまいました」
ソフィアが優しく微笑んでくれたのを確認してから腕を組んで目を瞑り、自分の失敗を振り返ってみる。
ついでに机に上がって胡坐をかき、思考を整理しようとした。確かにリクトルの理想に対する敬意が不足していたかもしれない。
これまでは彼を『説得すべき相手』と捉えていたが、彼にとって理想とは妥協できない生き方そのものだったのだ。
目を閉じていても、ソフィアの視線が刺さっているのがわかる。視線って痛いんだぞ、ソフィアよ…。
史実の知識に頼り、計算ばかりに走って、人の心を軽んじていたのかもしれない。ドルーススの死がリクトルに与えた打撃の深さを、果たして本当に理解できていたのだろうか。
「もう一度、挑戦してみる価値はありそうだな。今度は、彼の理想を尊重しつつ、現実的な道筋を示してみよう」
しばらく座禅をしていたが、半眼を開き机を降りる。これからもたまには瞑想を取り入れてみるか。
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三日後、再びサルウィウス家を訪れた。前回の失敗を何度も振り返り、今度は全く違うアプローチを試みることにした。今回は何かを提案するのではなく、率直に相談を持ちかけるつもりだった。
リクトルは前回よりもさらに疲れた表情を浮かべていた。目の下にうっすらと影が落ち、普段なら整った身なりにも乱れが見える。しかし、その疲労の奥に燃える何かがあった。諦めではない。むしろ、より強い決意のようなものが宿っていた。
「またお越しいただいて。何かお考えがおありなのでしょうか」
「前回は、失礼な発言をしてしまい申し訳ありませんでした」
「いえいえ、あなたの懸念も理解できますから。気にしないでください」やつれた顔のリクトルに気を遣われると何だか辛い。
今度は全く違うアプローチで臨んだ。
「リクトル殿、実は……正直に申し上げて、私は途方に暮れています」
「途方に暮れている?」
その瞬間、彼の目に一瞬の困惑が浮かんだ。これまでの相談は常に解決策を持参していたからだ。
そして困惑の後に現れたのは、興味深げな表情だった。初めて対等な立場で相談を持ちかけられたことに、かすかな安堵を感じているようにも見えた。
「はい。セルウィリウス法務官の件もそうですが、それ以上に深刻な問題があります。パピリウス殿の動向です」
「…パピリウスが何か?」
「彼の過激化が止まりません。若者たちを扇動し、武力衝突を煽っています。このままでは、アスクルム市民が無用な血を流すことになりかねません」
リクトルは考え込んだ。「それで、私に何を求めているのですか?」
「率直に申し上げます。リクトル殿の影響力なしには、若者たちの暴走は止められません。しかし、私にはリクトル殿を説得する資格も能力もない。だからこそ、お知恵を拝借したいのです」
リクトルの手が止まった。「お知恵を拝借とは一体どういうことでしょう?」
「理想を保持しつつ、現実的な危機を回避する方法があるとすれば、それはリクトル殿のような方にしか見出せないでしょう」
「私は商人の息子です。利害計算は得意ですが、人の心を動かす力はありません。しかし、リクトル殿は違う。ドルースス護民官の理想を受け継ぎ、それを現実の中で活かす道を見つけることができるのではないでしょうか」
リクトルは長い間沈黙していた。その沈黙の間、彼の表情は複雑に変化した。最初は疑念、次に思索、そして一瞬の迷い。投げかけた言葉に心を動かされそうになっている自分に、彼自身が戸惑っているのかもしれない。しかし最終的に、彼の表情は静かな決意に落ち着いた。
「ティトゥス殿、あなたが私の知恵を求めているということは分かりました。しかし、私にも答えは見つかっていないのです」
「それでも構いません。一緒に考えていただけませんか?セルウィリウスの件も、パピリウスの件も、アスクルムの未来も。私一人では荷が重すぎます」
「アスクルムの文化と伝統を守りつつ、市民の安全も確保する。そのような道があるとすれば、リクトル殿にこそ見出していただきたいのです」
しかし、リクトルは首を振った。「ティトゥス殿、お気持ちは理解できます。しかし、私は既に答えを出しています」
「どのような?」
「理想は決して曲げてはならない、ということです」
リクトルがゆっくりと立ち上がった。
「ただし、ティトゥス殿。理想を守るということは、感情論だけで行動することではありません。ピケヌム人の誇りと自治権を維持するためには、長期的な視野が必要です。今、妥協すれば一時的な平穏は得られるでしょう。しかし、それは将来のより大きな屈服への道を開くことになる。ウィダキリウス殿のような方々と連携することで、より強固な政治的基盤を築くことができるのです」
「どれほど困難であろうとも、ピケヌム人の誇りと自治権は守り抜かなければなりません」
「しかし、理想を守るために市民が犠牲になってもよろしいのですか?」
「理想なくして、何のために生きるのですか?」リクトルの声に強い確信が宿った。
「ドルーススは死んでしまわれた。しかし、彼の意志を継ぐ者たちがまだいる。ウィダキリウス殿のような方々が」
「ティトゥス殿、あなたは私を変えようとしていますが、変わるべきはあなたの方かもしれません」
リクトルの言葉を聞きながら、俺は彼の中で何かが変化していることに気づいた。最初の警戒心は消え、代わりに穏やかな確信が宿っている。彼は俺を敵として見ているのではなく、異なる道を歩む同志として見てくれているのかもしれない。
言葉を失った。リクトルの信念は想像を遥かに超えて深く、そして彼にはまだ希望があるのだ。
「申し訳ありませんでした。お邪魔いたしました」
「ティトゥス殿、私はあなたを拒絶しているわけではありません。ただ、私には私の使命があるということです。それをご理解ください」
重い足取りで、再びサルウィウス家を後にした。
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商会に戻った後、デモステネスとソフィアに二度目の失敗を報告した。
「やはり難しかったようですね」デモステネスが同情するように言った。
「理解が浅かったようだな。リクトル殿にとって、理想は手段ではなく目的そのものだった」
「それは、ドルーススの死が大きく影響していると思います。彼にとって、理想を曲げることは、ドルーススの死を無駄にすることを意味するのでしょう」
ソフィアがそう分析してくれたがその通りだな。リクトルとの関係修復は重要だが、セルウィリウスの来訪まで時間がない。これ以上の試みは、かえって関係を悪化させる可能性がある。
「若様。もう一度挑戦されますか?」
デモステネスが確認してくるのを聞き、また机の上に上がり、胡坐ではなくちゃんと座禅を組む。
しばらくの間、思考の海に入り込む。
「いや、もう十分だ。リクトルには彼の道を歩んでもらおう」
「それは賢明な判断だと思います、ティトゥス様。無理に協力を求めるより、リクトルの立場を尊重する方が、長期的には良い関係を築けるでしょう」
ソフィアが同意すると、デモステネスも提案してぬれる。
「そうですね。ただしセルウィリウス対応では、リクトル殿の動向を注意深く監視する必要があります。協力は得られなくても、敵対されては困りますから」
二人の意見を聞き、俺も思いを新たにする。
「その通りだ。リクトルが急進派と完全に結託することは避けなければならない」
リクトルとの関係修復は、結局失敗に終わった。しかしこの失敗を通じて、重要なことを学んだ——いや、学んだというより、自分の醜さを思い知らされたというべきか。
史実の知識を武器に、効率的な解決策を提示しようとした。根底にあったのは無用な血を流すことへの恐れだった。ドルーススの暗殺以来、各地で起きている政治的混乱と暴力の連鎖を断ち切りたいという願いが、現実的な妥協案を模索させていたのだ。
リクトルにとって、理想とは単なる手段ではない。それは彼の存在意義そのものなのだ。ドルーススの死によって一度は絶望の淵に立たされながらも、ウィダキリウスという新たな希望に縋っている彼を、俺は「非現実的」と切り捨てようとしていた。
表面的には現実主義と理想主義の対立に見えたが、実際はもっと複雑だった。リクトルは決して非現実的な夢想家ではない。ウィダキリウスとの連携という具体的な政治戦略を持ち、長期的な視野で自治権の確保を図ろうとしている。一方で、こちらの現実主義的アプローチも単純な利害計算ではなく、市民の安全と平和を願う理想から出発していた。
問題は手段の違いだった。そしてその違いは、それぞれが大切にする価値観の違いから生まれている。リクトルにとって誇りは生存の前提であり、俺にとって生存は誇りの前提だった。どちらも正しく、どちらも不完全だった。
彼らは俺の恐れ——無用な血が流されることへの恐怖——を理解していたし、俺も彼らの誇り——ピケヌム人としてのアイデンティティ——の重要性を認識していた。ただ、優先順位が違っただけなのだ。
リクトルは原則を貫くことで信頼を築き、同志を集めて大きな変革を目指している。対して自分は段階的な妥協を重ねることで実質的な利益を確保し、危機を回避しようとしている。どちらも正当性があり、どちらも危険性を孕んでいた。
セルウィリウスの来訪という試練を前に、新たな現実を受け入れなければならなかった。すべての人との協力関係を築くことは不可能だが、それでも最善を尽くす必要がある。アスクルムの未来のために。
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十月中旬の夕暮れ、市場での偶然の出会いを期待してラビエヌスを探していた。ドルースス暗殺の報が市内に広まって以来、彼との関係は日に日に悪化していた。
城壁南側の訓練場で、ついに彼を見つけた。黒章隊の少年たちと共に剣の稽古をしている。
「ラビエヌス」
声をかけると彼は振り返ったが、その表情は明らかに不快そうだった。
「何の用だ、ティトゥス」
冷たい口調だった。その冷たさの裏に深い失望が滲んでいた。期待していた友人に裏切られた時の、あの特有の痛みが彼の声に宿っている。
いつもの「お前」ではなく「ティトゥス」と呼ばれたことで、彼の怒りの深さを実感した。
「君と話したいことがある。少し時間をもらえないか?」
ラビエヌスは木剣を地面に突き立てた。「話すことなど何もない。お前の考えはよくわかっている」
「それは誤解だ。俺は——」
「誤解? リクトル兄貴のことを『頑固で非現実的』だと言ったのは誰だ?あの人がどれだけ街のために悩んでいるか、知らないくせに」
ラビエヌスの声が上ずる。その通りだ、俺はリクトルの感情を軽視し、論理だけで彼を批判していた。
「すまない。あの時の言い方は間違っていた」
「言い方の問題じゃない。お前は人の心がわからないんだ。すべてを損得勘定でしか見ていない」
ラビエヌスの声が震えていた。怒りだけでなく、期待を裏切られた悲しみが混じっている。彼にとっては、理想を共有できる数少ない同世代だったのだろう。その相手から「非現実的」と言われた時の絶望が、今の怒りを生んでいた。
「お前はな、いつも正論ばかり言う。確かに間違っちゃいない。リクトル兄貴だって、お前の言うことが論理的には筋が通ってることは認めてる。でも、それだけじゃダメなんだ。‥‥‥お前は街の人たちを守りたいと思ってくれている。それはわかる。でも守るっていうのは、ただ生きてりゃいいってことじゃないんだ。誇りを失ったピケヌム人なんて、もうピケヌム人じゃない。お前にはそれがわからない」
「ラビエヌス——」
「もういい。お前の冷たい計算にはもう付き合えない」
彼はそう言い残すと、黒章隊の少年たちと共にその場を去っていった。俺は一人、夕闇の中に取り残された。
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それから数日間、様々な方法でラビエヌスとの関係修復を試みた。共通の価値観を見つけ出そうとした。ピケヌム人としての誇り、市民の安全、アスクルムの繁栄——これらは俺たちが共有できるはずの価値だった。
商会を通じて、黒章隊の活動に必要な物資を提供することも申し出た。しかし、ラビエヌスは副長のデキムスを通じて丁重に断ってきた。
「ティトゥス様のお気持ちは有り難いが、我々は自力でやらせていただく」
次第に俺は孤立感を深めていった。商会のデモステネスやソフィア、アウレリウスは変わらず忠実だったが、政治的な影響力を持つ人物たちとの関係は軒並み悪化していた。
「ティトゥス様」ある夜、ソフィアが俺の書斎を訪れた。
「ラビエヌスとの件、何か他の方法はないでしょうか?」
「正直、もうわからない。俺のやり方では、彼の心は動かせないようだ」
「でも諦めるのは早すぎます。ラビエヌスも街のことを考えているのは同じです。きっと機会は来ます」
その機会が、予想外の形でやってきた。
本作品は生成AIを活用しつつ、作者自身の構成・加筆・編集を加えて仕上げた創作小説です。AIとの共創による物語をどうぞご覧ください。
なお作者は著作権法上の問題はないと判断のうえ、投稿を行っております。安心してお楽しみいただければ幸いです。
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(価値観ほどギャップを埋めるのに難しいことはありません。家族の中ですらそうなのですが。否定されることが続くと、イヤになって投げ出したくなりますよね。ティトゥス、、がんばれ!)
もし物語の余韻が心に残りましたら、評価やブックマークという形で、想いを返していただければ幸いです。
第一部の登場人物一覧はこちら↓
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