第27話『街を守る者たち』
ルキウス・マルキウス・ピリップスとセクストゥス・ユリウス・カエサルが執政官の年(紀元前91年)六月、ピケヌム地方アスクルム市内、ティトゥス
初夏の陽射しが商会の中庭に差し込み、乾いた石畳を熱く照らしている。中庭の隅では小さなオリーブの木が緑陰を作り、その下で使用人たちが水甕を運んでいる。街全体がうだるような暑さに包まれ、石造りの建物からは熱気が立ち上っていた。デモステネスが整理した山のような書類を前に、深い溜息が漏れた。
人質交換阻止から二ヶ月‥‥街の空気は確実に変わりつつあるが、それは必ずしも良い方向ばかりではない。
「若様、カピトの一件で動揺した商人たちから、続々と証言が集まっております」
デモステネスが新たな羊皮紙の束を卓上に置いた。彼の額にも汗が浮かんでおり、普段は完璧な身なりも今日は少し乱れている。
「急進派による人質交換は、市議会の正式決議を経ていない私的行為だったと証言する者が十二名。そのうち七名は、自分たちの子弟が勝手に送り出されそうになったと憤慨しています」
「十二名、か」書類をめくりつ、そう呟く。
羊皮紙の手触りは汗ばんだ指先に重く感じられる。
「これだけあれば、市議会でも無視できないな」
「ええ。特にマルクス・フラビウス商会の主人は、『息子を無断で人質に出そうとした』として、ウィダキリウス派を厳しく批判しています」
ソフィアが奥から現れ、手に持った蝋板を示した。彼女の頬も上気しており、絹の短衣の袖が肌に張り付いている。
「私も市場で聞き込みを続けていますが、庶民の間でも急進派への不信が高まっています。『勝手に子どもを危険な目に遭わせる』という評判が広まっているんです」
彼女の銀髪が陽光に輝き、鋭い瞳には満足げな色が浮かんでいる。この半年ほどで、ソフィアは市内の女性たちの間で情報収集のネットワークを築き上げた。洗濯女から商人の妻まで、彼女の言葉に耳を傾けない者はいない。
「問題は」羊皮紙を巻き直しながら、言葉を紡ぐ。
「これらの証拠をどう使うかだ。ローマから法務官が視察に来るとの噂がまことしやかに囁かれている。その時に提示すべきか、それとも市議会で先手を打つべきか」
窓の外からは市場の喧騒が聞こえてくる。
果物売りの威勢の良い声、荷車の軋む音、子供たちの笑い声。しかし、その中に時折混じる怒声や口論の声が街の緊張感を物語っていた。
△▼△▼△▼△▼△
神殿からの帰り道、市場を通り抜ける。夕方の賑わいの中で果物売りの声が響いている。石畳の上には一日の商売を終えた野菜くずや魚の鱗が散らばり、掃除をする少年たちが箒を動かしていた。露店の軒先には色とりどりの布が吊るされ、夕日に照らされて鮮やかに輝いている。
商人たちの表情は以前より硬く、客との値段交渉もどこかぎこちない。政治的な緊張が日常の商売にまで影を落としているのがわかる。陶器を売る老人は度々空を見上げ、まるで嵐の前触れを読み取ろうとしているかのようだった。
しかし、その中に別の声も混じっていた。
「ローマの犬どもに尻尾を振って、何になるというのか!」
急進派の若者が市場の中央で演説を行っている。数十人の群衆が取り囲み、一部は拍手を送っている。演説者の周りには松明が灯され、その炎が彼の興奮した表情を赤々と照らし出していた。
「我らピケヌムの民は、ローマ人と対等の権利を持つべきだ! なぜ属州民と同様に扱われなければならない!」
群衆の熱気が高まっていくと、手を振り上げる者、足踏みをする者、『そうだ!』と叫ぶ者が現れ始めてきた。石畳に響く声と足音が市場全体を重苦しい雰囲気で包んでおり、胸に不安がよぎる。この調子では、またいつ暴動が起きてもおかしくない。
その時、黒い肩布をまとったラビエヌスの姿が見えた。彼は黒章隊の仲間六人と共に市場の四隅に静かに配置についている。
武器は持たず、ただ群衆を見守っているだけだがその存在感は十分に威圧的だ。黒い肩布が夕風にわずかに揺れ、まるで闇に潜む番犬のようにも見える。
演説者は最初こそ威勢良く話していた。たが自警団の視線を感じてか、次第に声に迷いが生じてきたようだ。群衆も落ち着きを取り戻し、やがて自然に解散していく。露店の商人たちもほっとした表情を見せ、再び商売を始めた。
ラビエヌスが俺に近づいてきた。汗で濡れた額を手の甲で拭いながら、疲れた表情を見せている。
「最近、こういう演説が増えている。昼間は大したことないが、夜になると過激になる連中もいる」
「夜の巡回は続けているのか?」
「ああ。特に排水門周辺は重点的に見回っている。また何かあるかもしれないからな」
四月の人質交換阻止以来、ウィダキリウス派は別の手段を模索しているはずだ。油断はできない。
「気をつけてくれ。相手も必死だ。危険を感じたら無理をするな」
「心配いらない。俺たちは見回りのプロだからな」
ラビエヌスが笑顔を見せたがその目は真剣だった。この若者もまた街を守るという重責を背負っているのだ。夕日が彼の後ろに沈みかけ、長い影が石畳に伸びていた。
△▼△▼△▼△▼△
その夜、商会の書斎でデモステネスと今後の戦略を練っていた。ランタンの灯が書類を照らし、二人の影が壁に大きく映っている。外からは夜警の太鼓の音が定期的に響き、街が夜の静寂に包まれつつあることを告げていた。
「昼間の若者はアスクルムは属州民と同じ、と言っていたな」
「はい」とデモステネスが静かに応える。
「あれは、ローマ市民が同盟市民を蔑むのと同じだな」
「……」
「現実に不満がある者は、より立場の低い者を蔑むことで自らの溜飲を下げるのです」デモステネスはそう呟くと、愁いを帯びた表情を見せ、言葉続ける。
「さて若様、フェルムムとカメリヌムとの連携を強化してはいかがでしょうか」
地図を広げながら話題の切り替えを提案してきた。羊皮紙の地図には、ピケヌム地方の主要都市が詳細に描かれている。
「同盟市の一部では既に戦争準備が始まっています。物流網が遮断される前に、安定した供給ルートを確保すべきです」
「具体的には?」
「フェルムム本店との定期連絡を強化し、備蓄情報を共有します。カメリヌムの塩商人とは危機時の融通枠を設定する。南方のアエシナとも新たに契約を結び、万が一の際の食料確保に備えるのです」
地図上の都市を指でなぞってみる。確かにこれらの都市との関係を強化しておけば、たとえアスクルムが孤立しても生き延びることができる。地図上に描かれた街道は商業の血管であり、同時に情報伝達の神経でもある。
「それは良いアイデアだ。ただし――」顔を上げ、デモステネスを見つめる。
「ローマ・フェルモ・カメリヌムの三角経済圏という位置づけで進めてくれ。あくまでローマとの関係を断つのではなく、強化するという名目で」
「承知しました。明日にでも書簡を送りましょう」
その時、外から騒がしい声が聞こえてきた。窓から覗くと松明を持った一団が商会の前を通り過ぎていく。二十人ほどの集団で、全員が黒いフードを被っているようだ。足音は石畳に重く響き、不気味な沈黙の中を進んでいく。
「また夜間の集会か」
俺は苦い顔をした。ウィダキリウス派は昼間の演説で支持を集められないと見るや、夜間の秘密集会に活動の場を移しているのだ。
「若様、そろそろソフィアが戻ってくる頃です」
デモステネスの言葉通り、間もなく裏口からソフィアが入ってきた。彼女の表情は険しく、通常の優雅な動きではない。急いで駆けつけた様子が見て取れる、髪は少し乱れ呼吸も荒い。
「大変なことがわかりました」
ソフィアは息を切らしながら報告した。手に持った小さな巻紙を机の上に置く。
「急進派がまた人質交換を企んでいます。今度はマルシ族のトゥッリウム市との間で、やはり市議会の承認なしに事を進めるつもりです」
「何だって?」
立ち上がってソフィアに近づいて、巻紙を受け取る。四月の件で懲りたと思っていたが、まだ諦めていなかったのか。
「しかも今度は、十代の少年たちを狙っています。家族には『商業研修』と偽って送り出すつもりらしいです」
デモステネスが眉をひそめた。ランタンの光が彼の厳しい表情を浮き彫りにしている。
「それは完全に誘拐です」
「どこまで詳しい情報を掴んでいる?」
「実行予定日は明後日。場所は前回と同じ排水門です。ただし‥‥‥」ソフィアの声が低くなった。
「今度は完全に武装した護衛がつくという話です」
思わず心の中で頭を抱えてしまう。急進派も学習しているらしい。そりゃ、そうだ。前回のように簡単にはいかないだろう。外では夜風が窓を揺らし、まるで嵐の前触れのようだった。
「ラビエヌスに連絡を取れるか?」
「すぐに呼んできます」
ソフィアが直ぐさま駆け出していく。その足音が廊下に響き、やがて外の闇に消えていった。俺とデモステネスは顔を見合わせた。
「若様、今度は慎重に行きましょう。相手も本気です」
「わかっている。だが、今回も見過ごすわけにはいかない」
△▼△▼△▼△▼△
翌日の朝、父マルクスへの書簡に筆を走らせていた。フェルモとの連携強化について相談する必要があったが、それ以上に現在の状況を報告しておきたかった。朝の光が書斎に差し込み、インクと羊皮紙の匂いが部屋の中を漂っている。
『拝啓 父上
アスクルムの情勢についてご報告申し上げます。ウィダキリウス派の動きが活発化しており、違法な人質交換を企てる動きが続いております。息子なりに対応しておりますが、事態の推移によってはより大きな判断が必要になるかもしれません。
商会の経営については、デモステネスとソフィアの支援により順調に推移しております。市民からの信頼も厚く、父上にご心配をおかけすることはございません。
現在、ローマから法務官セルウィリウスが来訪予定との情報が入っています。来訪時期は確定していないようですが、夏以降になる見込みのようです。この機会に、アスクルムの立場を明確にできればと考えております。そのための動きを続けたいと思います。
敬具 息子ティトゥス』
書簡を封印しながら複雑な心境に沈んでいく。史実を、未来を知る身としては、この先に起こる悲劇を防ごうとしている。しかしそれは同時に歴史を変えることでもある。果たして俺に、そんな大それたことをする権利があるのだろうか。
またいつもの悩みが蛇の形に姿を変え、頭をもたげ襲いかかってくるような錯覚に陥る。そんな時、声がかかってハッと我に返った。
「若様、お悩みですか?」
本作品は生成AIを活用しつつ、作者自身の構成・加筆・編集を加えて仕上げた創作小説です。AIとの共創による物語をどうぞご覧ください。
なお作者は著作権法上の問題はないと判断のうえ、投稿を行っております。安心してお楽しみいただければ幸いです。
--------------------------------------------------
(一度流れが出来てしまうと勢いはつくものです。勝ち馬に乗りたいのは皆同じ。沈む舟からは鼠も逃げ出します。果たして手繰り寄せた流れを人はどうやって維持するのが一番か。逆に勢いを失った側はどうするのが最適解か。人により対応は分かれます)
もし物語の余韻が心に残りましたら、評価やブックマークという形で、想いを返していただければ幸いです。
第一部の登場人物一覧はこちら↓
https://ncode.syosetu.com/n4684kz/1/
第一部の関連地図はこちら↓
https://ncode.syosetu.com/n4684kz/2/




