第15話『苦悩の闇」
ガイウス・クラウディウス・プルケルと マルクス・ペルペルナが執政官の年(紀元前92年)八月、ピケヌム地方アスクルム市内、ティトゥス
アスクルム、それはピケヌム地方の要衝だった。
白壁に囲まれた美しい都市。ローマと同盟を結びながらも、独立心を色濃く残していた。ピケヌム地方の中で最大級の都市であり、フィルムムから南東の山間に位置する。ここで学び、成長するよう父に命じられた。
白い石壁に囲まれたこの街は、誇り高い歴史を持ちながらもローマの圧力と、イタリア同盟市の独立運動に挟まれ、揺れていた。
アスクルム南門は想像より低かった。山の中で河畔なのに、どこか熱をもつ湿り気を含んだ風を吸い込んだせいか、俺の胸の奥がぐっと熱くなる。
それでも高さが八メートルもある、石灰岩の壁面に彫られたピケヌムの象徴である啄木鳥のレリーフが見える。その嘴の下に、橙色の松明がゆらりと揺れ、影が門番の顔を黒く切り裂いていた。
石壁は夕日を浴びると赤銅色に染まるが、その光彩は飢えた獣の舌のようで、門番の槍先まで生々しく照らし出している。
父の商隊が提出した納税証を門兵が点検しているあいだ、俺は木箱の上に立って城壁を見上げた。9歳の背丈では石の継ぎ目すら手に届かない。想像より低かったはずの城壁が急に迫ってくるように感じ、思わず息を吞む。
「胸をゆっくり張って。静かに、深く息を吸うのです」
幌馬車の手綱を握るデモステネスが、後ろを見ずにギリシア語で囁く。黒髪に銀糸を織り込んだような艶を持つ彼は、俺の脳内に古代の英雄譚と最新の商会帳簿を同時に叩き込む怪物だ。
馬車の後ろには陽焼けした頬のソフィアが腰掛け、腕を組んだまま半眼で門番を観察している。薄い絹の左袖の下に剣傷と火傷の跡が交互に刻まれているのが見え、冬枯れた山道のようなうっすらとした陰影をつくっていた。
彼女の表情からは年齢に見合わぬ刃の質を感じさせる。しかし笑顔には可愛らしさも残っており、不思議な印象を抱かせる女性である。
検査はすぐに終わり、銀貨二枚が門番の手から手へ移ると木の関柵が上がった。轅がきしむ音を合図に、俺たちはアスクルムへ踏み込む。
鼻孔を刺すのは焼いた羊脂の臭い。石畳の隙間には鉄滓がこびりつき、遠くの鍛冶場からは槌音が絶え間なく鳴っている。この街の胎動を聞いているかのようだ。
「若様。南門から東へ三街区、左手の石蔵が今夜の我々の寝床になります」
デモステネスが指示を出し、荷車が角を曲がるたびに俺の視界は新しい陰影で満たされた。塔に掲げられる軍旗、路地で交差するサビニ語とラテン語の罵声、そして行商人を装った別の隊列が密やかに荷馬を曳く姿。
デモステネスは重い轅を軋ませながら馬車による隊列を止めさせる。完全に止まった後、俺は幌の縁からひらりと飛び降り、土埃まじりの石畳へ靴底を打ちつけた。
その瞬間、ふと思い出した。
ここ、ローマに略奪され滅亡する都市じゃなかったっけか。
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現代日本で得た知識。
どこかで読んだか、どこで聞いたか。曖昧な記憶だが確信があった。確かにアスクルムは滅びる運命にある。そんな当てにならない未来の記憶に悩まされる。
同盟市戦争が起きること。
アスクルム市民が虐殺されること。
そしてその将がグナエウス・ポンペイウス・ストラボであること……。
俺はこんな処に飛ばされ、どうすればよい?
運命に翻弄されるしかない、こんなちっぽけな存在に過ぎない俺が一体何をできるっていうんだ?
そもそも転生って何だよ。街は臭いし、人も野蛮で原始的で。飯はそこそこ食べられるものがあったが、転んで骨折でもしたら、そこからはまともに暮らすことも出来やしない。
9月のアスクルムは、まるで黄金色に燃えるようだった。乾いた風が街路を吹き抜け、遠くに見える丘陵は熟れた果実のように秋の色彩を帯びている。人々の声や荷車の軋みは変わらず活気を帯びていたが、俺の目にはその平和な光景が、砂時計の砂が落ちるような無情さとともに映っていた。
朝、デモステネスとともに市場を歩きながら、香ばしいパンや甘い果物の香りを嗅ぐ。活気溢れる人々の間を抜けながら、俺はつい無意識に考えてしまう。あと二年。この街の運命は俺だけが知っている。そして、この無力感。
俺がアスクルムに来て最初に感じたのは、この街の持つ独特な "誇り" だった。
ピケヌム地方の中でも、アスクルムは特別な位置にある。山間の要衝に築かれたこの街は、単なる商業都市ではない。ここはサムニウム人の血を引く誇り高い戦士たちと、我々ピケヌム人の商才が混じり合う、まさに同盟市の象徴なのだ。
父から聞いた話では、アスクルムの城壁は三重に巡らされ、一万を超える市民が住んでいる。これは同盟市の中でも最大級の規模だ。しかも、ここの市民たちは代々武勇で知られており、ローマ軍の補助兵としても重用されてきた。つまり、軍事的価値が極めて高いということになる。
だが、それ以上に重要なのは政治的な意味だ。
アスクルムが陥落すれば、同盟市側の士気は完全に崩壊する。逆に、ここを守り抜けば、他の都市にも希望を与えられる。ポンペイウス・ストラボがわざわざ大軍を率いてここを包囲したのも、そのためだろう。
現代の知識で言えば、アスクルムは同盟市戦争における「天王山」みたいなものだ。ここでの勝敗がイタリア半島全体の未来を決める。そして歴史通りなら、この街は壮絶な抵抗の末に陥落し、市民は皆殺しにされる。
ローマでの出来事が俺の心を蝕む。
あの街は美しさと醜さを同時に併せ持っており、人々は権力と金銭に目を奪われ名誉という空虚な言葉に踊らされている。
しかし、その中に一点、光が差していた。
ガイウス・ユリウス・カエサル。
まだ今の俺と同じ数えで8歳に過ぎないというのに、その瞳は老成した知性に溢れていた。言葉を交わした時の軽妙な受け答えをし、また議論した際には論理的で鋭い返答を返してくる。まさに文字通り衝撃を受けた。
俺が見たカエサルの輝きと可能性は、あの退廃したローマの未来を照らす希望の光だった。
俺は心の中で決めた。
あの少年を支えよう。
俺がこれから先、進むべき道を整え、彼がローマの新しい風となるのを助けようと。
だがこのアスクルムに到着した途端、その決意は揺らいでしまった。現実の重さが再びおれを押し潰そうとしていたのだ。
市場を抜けた後、俺はアスクルムの丘にある神殿の前に座り込んだ。街全体を見渡せるこの場所で、風を頬に受けながら、ぼんやりと市街を眺める。子供たちが通りで遊び、大人たちは仕事に追われる。その営みはごく普通のものであり、変わることのない日常だった。しかし、俺はその光景を見ていると、胸が苦しくなってくる。
五十年という時間を生き、それなりの経験や判断基準も持ち合わせていたこの俺。しかも現代日本というここ古代ローマ時代と比べれば、科学は宇宙の構造にまで干渉する術を得、経済は人間の欲望を制度に昇華させるまでに精緻化した世界に居たにも関わらず、ここでの俺は何の役にも立っていない。
もちろん俺が二十一世紀の知恵をすべて持ち合わせているわけではない。しかし、俺が今ここに存在する意味は、果たしてどこにあるというのか。この街を救うどころか、自分自身を守る術さえ持ち合わせていないというのに。
「一体、俺に何ができる?」
声に出したつもりはなかったが、自嘲するような言葉が口をついて出た。
デモステネスが俺に気付いて近寄り、優しい眼差しで私を見下ろす。
「お悩みですか、ティトゥス坊ちゃん?」
その言葉に俺は苦笑した。いつもは俺のことを若様、と呼びかけるデモステネスが『坊ちゃん』と声をかけてきたのは久方ぶりのことだ。そこにデモステネスの優しさが見え隠れする。思わず居たたまれなくなり、何故か申し訳ない気持ちになる。
だが彼はこの俺の、今のごちゃごちゃの心持ちや思考、そして何よりこの不安を知らない。知ることもできない。
だから俺はただ首を横に振り、『何でもない』と曖昧に返すことしかできなかった。
午後は家で修辞学や歴史を学び、夕暮れが近づく頃に街を散歩するのが日課となっていた。道端の露店で売られている陶器や彫刻を眺めているうちに、時折、ふと記憶が現実を追い越すことがあった。
二年後、この街は灰燼に帰す。その光景を想像するだけで胸が潰れそうになる。
「もし俺がこの事実を誰かに伝えたとして、誰が信じるというのか……」
夕日に染まった城壁、少し熱を持つ石に触れながらそっと呟く。壁は堅牢でかつ美しく、この街を永遠に守り続けるような錯覚を覚える。しかし俺の中にある未来の記憶が、その幻想を冷酷に切り裂くのだ。
日々の営みが無意味に思えてしまう。中年の危機――まさに俺が今感じているのは、あの時代の男たちが味わう絶望や無力感なのだろう。
俺は足元の小石を蹴飛ばし、沈んだ気持ちのまま家路を辿った。夕食を終え、部屋の寝台に横たわって目を閉じる。暗闇の中で、ローマで見たカエサルの輝く瞳を思い出す。その輝きだけが、唯一の慰めだった。
「俺は無力だ。それでも、彼のために何かをしなくては……」
かすれた声で呟き、俺は深い眠りへと落ちていった。
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結局その冬の間、俺は何もしなかった。
いや、正確には『やるべきことだけを最低限こなした』と言った方がいい。読み書きの訓練、そろばん、帳簿の写し取り。ギリシア語の復習にラテン語の構文変化。そういうのは、一応きちんとやった。俺は “真面目な子ども” を演じることに長けていたし、それはこの世界でも現代の日本でも、無難に生きる術として身に染みついていたものだったから。
けれど……それ以上は、しなかった。
商会の雑事に手を出すこともなければ、市の状況にも関心を向けなかった。マルクス・カピトが何をしていようが、興味がなかった。
『関われば、いずれ自分自身の期待に裏切られる』と、俺のどこかが怯えていた。
知ってしまっている未来。
……アスクルムが滅び、ローマの将軍に蹂躙されるという歴史の記憶。それが俺の行動を縛っていた。どれだけあがいても、大きな流れは変わらない。
何をやっても、結局は「無力な自分」が知識だけ持って足掻くだけなんじゃないのか?
そんな中年男の心の危機に右往左往する日々を過ごす。
その一方で、俺の周囲は動いていた。
デモステネスは帳簿と書簡を一枚ずつ調べ上げ、商会の深部を掌握しはじめていたし、ソフィアも市場の行商人たちに目配せしながら、不穏な動きの芽を潰していた。
二人の背中を見ながら、俺は……なぜか余計に動けなかった。
現代の俺だったら、もっと上手くやれたんじゃないか?
いや、むしろ現代でも、たいして変わらなかったんじゃないか?
“過去”も“今”も、『俺』はどこかで他人事として、傍観者であった気がする。
そんな俺にとってアスクルムでの毎日は、どこか薄く、灰色だった。
山の冷たい風。
石畳の反響。
焼けた脂の匂い。
すべてが鮮烈であるはずなのに、なぜか “本物の現実” として感じられなかった。
本作品は生成AIを活用しつつ、作者自身の構成・加筆・編集を加えて仕上げた創作小説です。AIとの共創による物語をどうぞご覧ください。
なお作者は著作権法上の問題はないと判断のうえ、投稿を行っております。安心してお楽しみいただければ幸いです。
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(初めてアスクルムに足を入れたティトゥスの場面から、物語はリスタート。ただ、ティトゥス自身は自分の置かれた立場を受け入れたくないようで……。そりゃ、気持ちはわかります。普通に考えたら受け容れられるわけないですもん。でもがんばって、ティトゥス)
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