第12話『憂悶』
ルキウス・ユリウス・カエサルとプブリウス・ルティリウス・ルプスが執政官の年(紀元前90年)八月、ピケヌム地方アスクルム市内、ラビエヌス
夏を迎える前、どうやらティトゥスは”戦わない”と改めて心を定めたようだった。直接は言わないが、その表情から読み取れた。
確かに、あいつの眼差しは以前にも増して冷静になっていた。市内での議論が激化する中、ティトゥスだけは常に一歩引いた位置から全体を見渡している。まるで戦場の高台に立つ将軍のような視線で、感情に流されることなく状況を把握し続けていた。
その頃おれたちの自警団は、市の正式な組織となった。名前も黒章隊と名付けられる。肩に黒い布を付けていたからかな。
街の治安を守る既存の組織と組織の間を取り持ち、円滑に作用させる。そんな役割を担っていた。
市議会や民衆もおれたちを頼りにしている。ティトゥスは脱出経路の確保、避難民の世話、火災時の指揮など、戦闘以外の任務を与えてくる。それも重要な仕事だとおれは理解している。
正式に認められたことでおれたちの任務は格段に重みを増した。もはや少年たちの遊びではない。アスクルムの命運を左右する存在として、市民から期待と不安の入り混じった視線を向けられることが多くなった。
「……‥責任とは重いものだな」
ある夕方、訓練を終えた後でおれが独り言ちると、隣にいた副長を務めているデキムス・レグルスが苦笑いを浮かべた。
「だが、やりがいもあるよ。街の人たちが俺たちを見る目が変わったからさ」
確かにそうだった。以前は『あの乱暴な少年たち』程度にしか思われていなかったおれたちが、今では市民から感謝の言葉をかけられることも珍しくない。特に老人や女性たちは、黒章隊の姿を見ると安堵の表情を浮かべる。
そのような仕事を淡々とこなしているうちに、黒章隊の連中のおれを見る目が変わった。どうやら頼りにされているようだ。視線は重いがやらねばならない。
最初の頃は『リクトルの弟分』として見られていたおれだが、今では黒章隊長として認識されている。仲間たちの表情に、以前のような遠慮がなくなった。代わりに信頼と期待が宿っている。
だが、その期待は時として重荷でもあった。判断を誤れば仲間たちの命に関わる。街の安全に関わる。その責任の重さが、おれの肩に常にのしかかっていた。
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そして8月半ば、リクトル兄貴が密かに逃亡する事件が起きた。
リクトル兄貴はおれに一言もなく、出て行ってしまった。
胸の奥に空洞ができたような寂しさを覚えた。
ティトゥスはこの件について何も言わない。
おれもこの件は話したくない。
あの朝、兄貴の屋敷の使用人が慌てふためき駆け回っているのを見た時、おれは直感的に何かが起きたことを悟った。急いで屋敷に向かうと、既に兄貴の姿はなく、わずかな私物だけが残されていた。
「いつ出発されたのですか?」
おれが年老いた使用人に尋ねると、彼は涙を浮かべながら答えた。
「夜明け前でございます。『誰にも告げるな』とおっしゃって…」
なぜ何も言わずに去ったのか。なぜおれに相談してくれなかったのか。疑問と失望が胸の中でぐるぐると渦を巻いた。
ただ……もはや兄貴のアスクルムでの政治的立場は失われていたのだと思う。
セルウィリウス事件以降、リクトル兄貴への風当たりは日に日に強くなっていた。パピリウス派からは「軟弱すぎる」と批判され、穏健派からは「危険思想の持ち主」として敬遠される。八方塞がりの状況で、兄貴の心は次第に追い詰められていたのだろう。
兄貴は武力行使も検討しており、黒章隊にも興味を持っていた。一度相談を受けたこともある。おれは兄貴の想いには応えられなかった。
市議会もこの逃亡に関してはティトゥス同様に沈黙し、市民も騒ぐことはなかった。
ただ、パピリウス派だけは叫び兄貴を罵倒し続けた。パピリウス本人も失踪してしまっていたから自身の声望が落ちるだけにも関わらず。
「臆病者が逃げた!」
「裏切り者め!」
パピリウス派の声が広場に響くたび、おれの胸に怒りが燃え上がった。兄貴の苦悩を知らず、ただ自分の政治的利益のためだけに罵倒を続ける男たち。その醜い姿が、おれには耐えがたかった。
そこでおれは、リクトル兄貴の屋敷の扉前に「静寂」と書いた板を釘で打ち付けた。理由は分からない。そうしたかっただけだ。
板に釘を打ち込むその瞬間、おれの中で何かが決まった。兄貴への想いを封印し、新たな道を歩むという決意だった。「静寂」という文字には、兄貴への敬意と、同時に決別の意味が込められていた。
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ティトゥスは今後の街のことを考えてくれる。
信頼していたリクトル兄貴はもういない。
おれも自警団もこの街を守り続ける。それだけだ。
兄貴の不在は、おれに大きな変化をもたらした。これまでは兄貴の意向を多少気にしながら行動していたが、今は一人で判断しなければならない。その自由は得難いものであったと同時に、非常に重い責任をもたらした。
ティトゥスとの関係も微妙に変化した。以前は「リクトルの弟分」として見られていたであろうおれが、今では完全に対等な立場で意見を交換する相手として扱われるようになった。
「これからは、君とおれで街を支えていかなければならない」
ティトゥスがそう言った時、おれは改めて責務を実感した。だが同時に、不思議な安心感も覚えた。あいつとなら、きっと乗り越えられる。そんな確信があった。
この月の終わり頃、市議会から「パピリウスに連なる過激派十二名を拘束せよ」という命が下された。
この十二名は、兄貴が逃げた後も現実を直視せず、閉じこもり、叫び、扇動をやめなかった。資金を集め武器を準備期間する。彼らは直接剣を振るうことはなかったが、市民を不安に陥れる存在として誰からも厭われていた。庇い立てるパピリウスも既にアスクルムから出奔しており、ここにはもういない。
彼らの顔を思い浮かべると、おれの心は複雑だった。確かに彼らの行動は街の平和を乱している。だが、同時に彼らなりの信念があることも理解できた。ただ、その信念が現実と乖離しすぎているのが問題だった。
おれは命令に従い、慎重に隊を編成して全員を拘束した。
作戦は夜明け前に実行された。黒章隊を三つの班に分け、それぞれが担当する人物の自宅を包囲する。抵抗は予想していたが、実際には大きな混乱はなかった。皆、薄々自分たちの立場が危険になっていることを感じていたのだろう。
拘束された十二名の中には、おれが幼い頃から知っている顔もあった。商店主の息子、農民の次男、職人の弟子。彼らも同じアスクルムの住民だった。それだけに、おれの心は重かった。
その夜、おれはティトゥスに問いかけた。
「この者たちをどうするのか」
ティトゥスは、躊躇いもなく答えた。
「ストラボへ引き渡す。交渉には対価がいる。これは最小の損失で最大の成果を得る”落とし所”だ」
ティトゥスのその眼は、凍っているように、おれにはそう見えた。
いつものティトゥスなら、もう少し感情を見せるはずだった。だが、この時のあいつは完全に感情を排除し、純粋に計算だけで物事を判断していた。その冷徹さが、おれには恐ろしくもあり、同時に頼もしくもあった。
おれは頷いた。
だが、おれの怒りが本格的に燃え始めたのはこの時だった。
ティトゥスへ向けた怒りではない。
それは全くない。
怒りの対象は、自分自身だった。
なぜ自分は、ティトゥスのような冷静な判断ができないのか。なぜ感情に振り回されてしまうのか。なぜ兄貴を見捨てることができたのか。未だに兄貴に依存しているのではないか。
さまざまな自問が、おれの心を責め立てた。
同時に、この状況を作り出した全ての要因への怒りも燃え上がった。ローマへの怒り、無能な市議会への怒り、混乱を招いた過激派への怒り。そして何より、力のない自分への怒り。
その怒りは、おれの中で黒い炎となって燃え続けた。表面的には冷静を装っていたが、内側では激しい感情が渦巻いていた。
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そしてその後の九月末、とうとうアスクルムにローマ軍がやってきた。
グナエウス・ポンペイウス・ストラボ――このローマ遠征軍を率いる将軍は、おれたちと同じピケヌム地方の人間だ。にもかかわらず奴はローマの旗でおれたちを包囲した。これは裏切りだ。
ストラボ軍の接近は、前日から察知していた。見張り台からの報告で、東の丘陵地帯に土煙が立ち上がっているのが確認されたのだ。最初は商隊かと思ったが、その規模の大きさから軍隊であることは明らかだった。
そして朝を迎えた時、アスクルムの周囲にはローマ軍の赤い盾と鷲の旗が並んでいた。完全包囲。蟻一匹逃げ出せない状況だった。
このピケヌム人のローマ将軍は配下に角笛を吹かせ、その響きはこの山峡にこだまする。この音色は、ピケヌム人としてのおれの胸を裂く棘として残り続けた。角笛の音は、単なる軍事的な合図以上の意味を持っている。それは「ピケヌム人がピケヌム人を包囲する」という屈辱的な現実を象徴する音だった。故郷の山々に響くその音は、おれの心の奥深くにまで染み渡り、癒えることのない傷を残した。
だから、この戦いに負けるわけにはいかなかった。
確かにティトゥスに言われたことがきっかけだったが、負けないためにおれが自警団を作り、同士を集めて戦ってきたんだ。おれなりに考え、皆で行動し、好戦派の連中の暴走を防ぎ、街の治安維持に努めてきたんだ。
包囲が始まってから、おれたちの任務はさらに重要になった。市民の動揺を抑え、パニックを防ぎ、秩序を維持する。戦闘はなくとも、心理戦は既に始まっていた。
黒章隊の面々は、その重圧に見事に応えてくれた。持ち場を離れることなく、市民を励まし、不安を和らげるために尽力した。彼らの成長ぶりを見ていると、おれは誇らしさと同時に、さらなる職責を感じていた。
しかしその一方、どうしても誇りを踏みにじられたという思いが澱のようにおれの中に溜まっていった。それは体内で黒い焔となり、おれの理性を焼いていった。
包囲が続く中、その怒りは日を追うごとに激しくなった。ローマ軍の兵士たちが悠然と陣営で過ごしている姿を城壁から見るたび、おれの中の炎は勢いを増した。
特に腹立たしかったのは、ストラボが「寛大な処置」を匂わせながら、実際には心理的圧迫を加え続けていることだった。これは戦争ではなく、屈服を強要する見せしめだった。
ティトゥスはこの状況でも冷静だった。むしろ、包囲が始まってからの方が生き生きとしているようにさえ見えた。交渉の準備を進め、各方面との連絡を取り、戦わずして勝つ道を模索し続けていた。
だが、おれには待つことができなかった。この屈辱を黙って受け入れることができなかった。
街が完全包囲された九日目の晩。
おれはこの戦いにひとつの決着をつけるべく、ローマ軍に忍び込むことを決意する。心は熱病に侵されたかのようにフワフワとしていたが、その奥底は何故か寒々と冷え切っていた。
出発前、おれは黒章隊副長のデキムスに短い指示を残した。
「明日の朝、おれが戻らなかったら、全ての指揮をティトゥスに委ねろ」
デキムスは何かを察したようだったが、何も言わなかった。ただ、しっかりと頷いただけだった。
天幕への侵入は、今思えば無謀極まりない行為だ。しかし、その時のおれには他に選択肢がないように思えた。このまま黙って降伏を待つなど、ピケヌム人としての誇りが許さなかった。
城壁を降り、包囲網の隙間を縫って敵陣に向かう。月明かりが頼りの危険な行軍だった。何度も見張りに発見されそうになったが、幸運と技術で切り抜けた。
ストラボの天幕が見えた時、おれの心臓は激しく打っていた。怒りと恐怖と決意が入り混じった、複雑な感情だった。
この行動が何をもたらすか、その時のおれには予想できなかった。ただ、このまま何もしないでいることはできないという思いだけが、おれを突き動かしていた。
結果として、おれのこの無謀な行動は、アスクルムの運命を大きく変えることになる。だが、それは後になってからわかったことだった。
天幕に向かって這い進むおれの心は、炎に包まれていた。そして同時に、氷のように冷たかった。この矛盾した感情こそが、その時のおれの全てだった。
本作品は生成AIを活用しつつ、作者自身の構成・加筆・編集を加えて仕上げた創作小説です。AIとの共創による物語をどうぞご覧ください。
なお作者は著作権法上の問題はないと判断のうえ、投稿を行っております。安心してお楽しみいただければ幸いです。
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(彼の怒りの源泉は一体何だったのでしょうか。怒りという感情を昇華できればモチベーションアップに使えるのですが、実際難しいですよね)
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