第10話『信義』
ルキウス・ユリウス・カエサルとプブリウス・ルティリウス・ルプスが執政官の年(紀元前90年)八月、ピケヌム地方アスクルム市内、ラビエヌス
あの広場での騒動のあと、おれはリクトル兄貴から重要な任務を任せられることになった。
それは『人質として送られてきた少年――ルキウス・マルスクスの剣術指導』である。もちろん兄貴は人質とは一切言わない。おそらくまったくそんな風には思っていないのだろう。だが、おれには分かっていた。この十四歳のマルシ族の少年は、政治的な取引の駒として扱われているのだと。だから行動の監視役としておれが選ばれた、のだろう。
初めて彼と対面した時、おれは正直なところ戸惑ってしまった。
三つも年上に剣術を教えるなど、これまで経験したことがない。しかも相手はマルシ族の貴族子弟で、政治的発言権まで認められているという。一方おれは、まだ十一歳の商人の息子に過ぎないんだぞ。
「なぜ私がこのような老人と少年に教わらねばならぬのだ」
練習場でのマルスクスの第一声は、予想していた通りだった。彼の声には明らかな軽蔑と不満が込められており、サビヌス師範を「老人」、おれを「少年」と呼んだその口調には、マルシ族としての誇りと、この状況への苛立ちが表れている。
だが、おれは怒りを感じなかった。むしろ彼を哀れむ気持ちが湧いてきた。故郷を離れ、敵視する都市で、年下の子供に頭を下げなければならない屈辱。それがどれほど辛いものか、おれにも想像はできた。
「嫌なら他の師範を探してもらおう」
おれは淡々と答えた。
「リクトル兄貴から頼まれた仕事でおれがサビヌス師範に依頼したのだが、無理強いするつもりはない」
マルスクスは慌てたような表情を見せた。きっと、もっと感情的な反応を期待していたのだろう。
「待て。不満は言ったが、断るとは言っていない。まずは弟子である君が、私の相手に相応しいか見極めさせてもらう」
彼の態度は少し軟化していた。
おれは内心で微笑んだ。案外素直な少年なのかもしれない。
木剣を手に取ったマルスクスの動きは確かに洗練されていた。マルシ族の剣術は実戦重視で無駄な動きを削ぎ落とした効率的なものだと聞いていたが、その通りだった。しかしおれとの初太刀で彼の表情が変わった。
「なるほど」
息を弾ませながら、マルスクスが呟く。
「君の剣は、アスクルム式ではないな」
「グラディウス術だ。ローマ式を基本にしている。サビヌス師範の教えだ」
おれの答えに、マルスクスの眉が上がった。
「ローマ式を? 反ローマを唱える都市で?」
その問いかけには、驚きと困惑が混じっていた。おれは真っ直ぐに彼の目を見つめて答えた。
「優れた技術に、政治的立場は関係ない」
この日を境におれたちの関係は変わっていった。
マルスクスはおれが思っていたよりもずっと聡明だった。剣術の技法を教えるうちに彼は単なる技術だけでなく、その背景にある戦略的思考にも興味を示すようになった。
相手の動きを読み、間合いを測り、最適なタイミングで攻撃を仕掛ける。そうした技術は彼が言うように「政治的交渉にも通じる」ものだった。
一方で、おれも彼から多くを学んだ。マルシ族の実戦的な技法はおれが学んできたローマ式の体系的な剣術とは異なる魅力があった。何より彼の政治に対する鋭い洞察力には驚かされることが多かった。
十四歳でありながらアスクルムの政治情勢を冷静に分析し、時にはリクトル兄貴の理想主義的な発言に疑問を呈することもあった。
稽古を重ねるうちに、マルスクスに対する見方が大きく変わっていることに気づいた。最初は「年上だが指導すべき相手」として見ていた彼が、いつの間にか「対等に議論できる友人」になっていたのだ。
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冬の終わりから春にかけて、アスクルムの空気は微妙に変化していた。
ある朝、いつものようにリクトル兄貴と剣の稽古をしていると、兄貴の表情がいつもより険しいことに気づいた。木剣を構える手にも、どこか力が入り過ぎている。
「兄貴、何かあったのか」
稽古を終えた後、おれは思い切って聞いてみた。
「ローマでドルーススという護民官が、我々同盟市に市民権を与える法案を提出したらしい」
リクトル兄貴の声には、期待と不安が混じっていた。
「これまで何度も立ち消えになってきた話だが、今回は本格的な議論になるかもしれない」
その夜の食事で、父も同じような話をしていた。商会の取引先から入ってくる情報によれば、各地の同盟市でこの法案への関心が高まっているという。だが同時に、ローマの元老院では激しい反対論も渦巻いているらしい。
おれには、まだ政治の複雑さがよく分からなかった。ただ、大人たちの表情が日増しに真剣になっていくのを見て、何か大きな変化が起きようとしていることだけは理解できた。毎朝の剣の稽古でも、リクトル兄貴の指導に以前より力がこもっているのを感じる。
「剣を握る時は、常に何のために戦うかを考えろ」
兄貴の言葉が、おれの心に深く刺さった。これまでは技術を身につけることばかり考えていたが、その奥にある目的について考える必要があるのだと気づかされたのである。
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やがて暖かい日が続くようになると、街の雰囲気が明らかに変わった。噂では、偉い人がローマから帰ってきて、各地で工事を始めているという。アスクルム周辺でも、街道工事の音が聞こえるようになった。
「何のための工事なのでしょうか」
おれが父に聞くと、父は困ったような表情を見せた。
「表向きは道路整備らしいが、真の目的は分からない。ただ、商人の間では不安が広がっている」
市場を歩いていても、商人たちの会話に緊張が混じるようになった。以前のような呑気な商売の話ではなく、政治的な噂や不安が話題の中心になっている。子供たちの笑い声も、なんとなく少なくなったような気がする。
この頃から自警団の活動が始まる。おれも仲間と一緒に街の見回りを始めた。ティトゥスの助言で、同年代の信頼できる少年たちを集めて、定期的に街中を歩いて回ることにしたのだ。
「大げさなものではないが、街の異変にいち早く気づくことができる」
おれは仲間たちにそう説明した。武器は持たず、ただ目と耳を使って情報を集める。何か問題があれば、大人たちに報告する。それが、おれたちにできる最初の一歩だった。
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初夏の陽射しが厳しくなってくると、パピリウスの影響力が目に見えて強くなってきた。市議会でも、彼の主張に同調する声が増えている。一方で、リクトル兄貴の立場は微妙になっていた。平和的解決を主張しているが、その実現可能性に疑問を持つ人が増えているのだ。
「おれたちには、何ができるのだろう」
ある夕方、見回りを終えた後、おれは仲間の一人に漏らした。
「大人たちの政治に子供が口を出すことはできない。でも、この街で起きていることを見守ることはできるんじゃないかな」
仲間の答えに、おれは納得した。確かに、政治の大きな流れを変えることはできないかもしれない。だが、街の平和を守るために、小さなことから始めることはできる。
やがて夏の暑さが本格的になると、ローマからの悪い知らせが次々と届いた。ドルーススの法案が激しい反対に遭っているという。リクトル兄貴の表情も、日増しに険しくなっていった。
「もはや平和的解決は難しいかもしれない」
ある日の稽古で、兄貴がぽつりと漏らした言葉に、おれは背筋が寒くなった。
市議会でも、パピリウス派と穏健派の対立が表面化してきた。パピリウスは声を荒らげて叫んだ。
「もはや法的手段では解決不可能だ。我々は武力をもって、正当な権利を勝ち取るべきだ」
これに対してリクトル兄貴は、まだ話し合いの余地があると主張したが、その声には以前のような力強さが感じられなかった。
おれは、兄貴が苦しんでいることがよく分かった。理想と現実の間で板挟みになっているのだ。平和を愛する兄貴の心と、同盟市の権利を守りたいという義務感が激しく葛藤している。
この時期、おれの見回り活動も重要性を増してきた。街中で小さな口論や諍いが増えているのを目の当たりにするようになった。ローマ系の住民と地元民の間の溝が、確実に深くなっている。
「何かあったら、すぐに知らせてくれ」
ティトゥスからそう頼まれて、おれは責任の重さを感じた。子供だからといって、のんびりしていられる状況ではなくなっている。
夏の盛りを迎える頃、街の雰囲気は一変した。何かの準備が進められているという噂が飛び交い、商人たちは不安そうに空を見上げるようになった。母も、おれが外に出る時間を制限するようになった。
「最近、夜中に怪しい人影を見かけることが増えている」
見回りをしている仲間の一人がそう報告してきた。確かに、普段なら人通りの絶える時間帯に、松明を持った人々が移動しているのを目撃することがある。何のための移動なのかは分からないが、穏やかな目的ではないことは確かだった。
リクトル兄貴とパピリウスの対立も、ついに決定的になった。兄貴は依然として話し合いによる解決を主張したが、パピリウスは「もはや時機を逸した」と一蹴した。市議会でも、両派の支持者が激しく対立するようになった。
「ティトゥス、本当に戦になるのか」
ある夕方、おれは友人に率直な疑問をぶつけてみた。
「分からない。だが、準備だけはしておく必要がある」
ティトゥスの答えは、いつものように現実的だった。
「君の仲間たちも、いざという時には重要な役割を果たすことになるかもしれない」
夏の終わりが近づいた頃、ドルーススがローマで「最後の演説」を行ったという知らせが届いた。その内容は、同盟市への市民権付与を訴える必死の呼びかけだった。だが、もう遅いような気がした。
おれは城壁に上って、遠くの街道を見つめた。平和だった故郷の風景が、いつまで続くのだろうか。木剣を握りしめながら、おれは複雑な思いに沈んでいた。リクトル兄貴から学んだ「正義のための剣」という理念が、現実の複雑さの前で揺らいでいるのを感じていた。
だが、同時におれの中には新たな決意も芽生えていた。政治の大きな流れは変えられないかもしれない。だが、この街で起きる小さな諍いを防ぎ、人々が少しでも安心して暮らせるように努力することはできる。どんな状況になろうとも、この街と人々を守り抜くという意志を、おれは心に刻んだ。
仲間たちと一緒に、明日もまた街を見回ろう。大人たちが大きな政治を動かしている間、おれたちは足元の平和を守り続ける。それが、今のおれにできる最善のことだった。
本作品は生成AIを活用しつつ、作者自身の構成・加筆・編集を加えて仕上げた創作小説です。AIとの共創による物語をどうぞご覧ください。
なお作者は著作権法上の問題はないと判断のうえ、投稿を行っております。安心してお楽しみいただければ幸いです。
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(ラビエヌスは淡々と仕事しておりますが、大人でも難しいですよね。当たり前のことを当たり前にやるっていうのは、本当に大変です)
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