第8話『追憶』
ルキウス・ユリウス・カエサルとプブリウス・ルティリウス・ルプスが執政官の年(紀元前90年)九月、ピケヌム地方アスクルム市内、ラビエヌス
朝の空気は冷たく、石畳に霧がまとわりついている。アスクルムの朝早く、おれはいつもの場所にやってきた。するとサビヌス師匠の姿とは明らかに異なる人物が佇んでいるのが見えた、
そうだ、今朝は師匠が所用のため不在だったので、リクトル兄貴と二人で修練を積むことになっていたのだ。おれは慌てて兄貴の元に駆け出した、
リクトル兄貴はおれより十五ほど年上で、サビヌス師範の兄弟子にあたる。アスクルムの名家「サルウィウス家」の次男として生まれ、幼い頃はローマへ学びに行ってたらしい。十年ほど前にはマリウス将軍率いる軍に加わり、ウェルケッラエ(現ヴェルチェッリ)の戦いに従軍。師範と共にキンブリ族を相手に戦った経験もある。
サルウィウス家を継ぐために帰郷後は、アスクルムの財務官に立候補し見事に当選。その後は「アスクルムの市議会で若手ながら極めて雄弁な改革派として頭角を現している」らしい。カリストラテス先生がそう言っていた。とにかくリクトル兄貴はおれの自慢だ。血は繋がっていないけど。
剣の柄を握る指先が寒さでかじかむ。その瞬間剣先がほんの僅かブレてしまったが、気にせず素振りを続けた。するとリクトル兄貴はおれの動きに目を凝らし声をかけてきた。
「踏み込みが浅い。ティトゥス、お前の正義が揺らいでいる時は、剣先も曇るぞ」
その声は厳しいが、どこか温かい。兄貴の剣は静かで、鋭くて、嘘がない。振りかぶるでもなく、淡々とおれの胸元へ打ち込まれる稽古打ちは、まるで言葉のようだった。おれはそれを受け止めながら、剣ではなく、兄貴の中にある何かに打たれていたのだと思う。
「ローマに服従するのが正しいなら、私は剣を折る」
「私は剣を折らぬためにも、正しく剣を奮い、ピケヌムの誇りを貫きたい」
そう言って笑った兄貴の横顔が、霧の向こうにぼんやりと霞んだ。あの人は、理屈だけで剣を振るっていない。正しさのために、誰よりも強くあろうとしている。
兄貴のようになりたいと思っていた。剣を使って人を斬るのではなく、剣を通して誰かを守れる男に。リクトル兄貴はそれを教えてくれる。ただの稽古じゃない。これは、おれの中に火を灯す儀式だ。あの人のような男になる。いつか。
昼近くになると、リクトル兄貴はよく我が家に寄ってくれた。母が焼いたパンと干し肉、茹でた豆を並べた素朴な食卓に、兄貴はいつも気取らず腰を下ろす。父は無口な人だが、兄貴の話にはときおり眉をひそめながらも、耳を傾けていた。
「ローマの法廷では、民衆の前で真実を語ることに意味があるんだ。高位の者だけで物事を決めるのは、共和国の精神に反する。僕らもその輪の中に入らなくちゃいけない」
リクトル兄貴は薄めた葡萄酒の盃を片手に語った。目が本気だった。母は微笑みながらスープを注ぎ、父はパンをちぎりながらぼそりと漏らした。
「夢を語るには立派な口だが、ローマがその夢を分け合うとは思えんよ」
「だからこそ、立ち上がるべきなんです。イタリア人が、ただの兵士や納税者じゃなく、市民として尊重される日を——」
「その点マルシ族は進んでいる。ウィダキリウス殿はその中でも高い政治的手腕と軍事的能力を備えたすごい人なんだ。他部族からも信頼されるカリスマ的存在で、性格は誇り高く、武力によってでも、自らの正義を貫こうとする気質の持ち主で——」
兄貴が熱を帯びて語ると、つられておれの胸もざわざわと熱くなった。けれど同時に、頭の中で別の疑問が湧いてくる。おれは思わず口を挟んだ。
「兄貴、ローマの戦はどんなだった? マルシの丘で戦ったって聞いた」
「ティトゥス!」母が軽くおれの膝を叩く。
「食事中に戦の話はやめなさい。剣と血の話より、葡萄の育ち具合のほうが皆の口には合うのよ」
「構いませんよ、奥様」と兄貴は笑った。
「でもな、ティトゥス。戦とはな、剣を振るだけじゃない。何を守りたいか、それを決めてから握るものだ」
その言葉が胸の真ん中にずしんと沈む。兄貴はただの兵士じゃない。思想を、志を、その剣に宿しているのだ。そしておれはその背中を追い続けたかった。
しかし、それは無理だった。
△▼△▼△▼△
昨年の一月、最初の兆候が現れた。おれたち同盟市民のために動いていたお偉いさんが、ローマで公式に「同盟市市民権付与法案」を構想として発表した。その結果、近隣のマルシ族やサムニウム族が次々にローマに対して市民権を要求する運動を始めたのだ。父はその知らせを聞くと、急に表情を曇らせた。
「息子よ、これは長引くぞ。商売どころではなくなる」
これまでおれにとって対外戦争や内乱は遠い世界の話だった。だがいま、まさに目の前まで動乱が迫っている。街でも皆の間に動揺が広がっていた。市場での会話もいつしか市民権の話ばかりになった。
「ローマは我々を対等に扱わない」
「長年共に戦ってきたのに、いまだに市民権すらもらえぬとは」
そんな声がくすぶり続けていた。
父は家族会議を開き、おれたちに話しかける。
「皆、これから厳しい時代になる。ローマとの関係を断つか、それとも従来通りローマ側につくか――この選択を誤れば一族の命運が決まる」
母は不安そうに黙っていたが、おれには父の迷いがよく分かった。商人として各地に取引相手を持つ父にとって、この戦争は複雑すぎた。
同盟市の中にも、ローマに従う者もいれば反旗を翻す者もいる。どちらが勝つかも分からない。
「とりあえず様子を見よう。急いで旗色を決める必要はない」
父はそう結論づけた。
しかしその「様子見」の時間は、長い期間ではなかった。
しばらくすると近隣都市からの難民がアスクルムに流れ込んできたのだ。彼らがもたらした話は悲惨で凄惨だった。
「ローマ軍が村を焼いた」
「反乱に加担した者は皆殺しだ」
「だが我々も手を緩めない。ローマに従う者は裏切り者として処刑される」
難民の子供たちと話しをしてみると嫌でも周囲の状況がよく理解できる。彼らの多くはおれと同じ年頃だった。
「君の村はどうなったの?」
「燃えた。全部燃えた。父さんは逃げろって言ったきり、帰ってこない」
その子は涙を流さずに語った。涙を流すことすら忘れてしまったような、空虚な目をしていた。
△▼△▼△▼△
春になる頃には、アスクルムでも市民同士の対立が激しくなってきた。
市民集会では連日のように激論が交わされ、そこではリクトル兄貴が純粋理想主義を語っていたようだ。
「ローマに従い続けるべきだ。反乱など無謀だ」
「いや、今こそ立ち上がる時だ。市民権を勝ち取ろう」
「他都市と人的交流を行い、互いの意思を確認し、同じ方向を向うではないか」
「マルシ族の英雄、ウィダキリウス・スカト殿についていこう!」
おれも父に連れられて何度か集会を見学したが、大人たちの顔は日に日に険しくなっていく。
夜、見知らぬ馬車が街の中を彷徨いている、倉庫街に見たこともない連中が屯していた、などまことしやかに物騒な噂が流れてくる。
リクトル兄貴は武力に訴えることや人的交流、つまり要は人質交換だが、それには反対していたようだ。しかし兄貴の子分のような存在だったパピリウスが主導し、テアテから有力者の息子を呼び寄せた。兄貴はその尻拭いをおれにも頼りながらも何とか対処していたが、彼らの一部が武器を手に街を練り歩き、ローマ側につく者を威嚇し始めた頃になると歯止めが利かなくなっていた。
ガイウス・パピリウス・ルクルス。
アスクルムの名家出身、母方はマルシ人。兄貴の同期で共にローマで修辞学を修め、騎兵としての軍歴もある。
剛直かつ雄弁だが、過激で妥協を許さない男だ。彼は何をしだすかわからない怖さがある。彼は自らの集団を「ウィダキリウス派」と呼び徒党を組み始めた。
兄貴はウィダキリウス派の舵取りをすべく躍起になっている。だが、あまりうまくはいっていないようだった。兄貴でもうまくいかないことはあるんだな、そう思った記憶が残っている。
父はこの状況を憂い、急ぎ家の防備を固めサビヌス師範に同居を依頼した。カリストラテス先生も自宅を引き払い、一緒に住むことが決まった。妹はそれを無邪気に喜んでいる。
「息子よ、これからしばらく外出は控えろ。特に、夜間は絶対に出歩くな」
しかし、そんな父の心配をよそに、おれの心には別の感情が芽生えていた。
なぜ隠れて暮らさなければならないのか。
なぜピケヌム人同士で争わなければならないのか。
なぜローマは、長年共に歩んできた同盟市にこんな仕打ちをするのか。
おれは納得がいかなかった。
本作品は生成AIを活用しつつ、作者自身の構成・加筆・編集を加えて仕上げた創作小説です。AIとの共創による物語をどうぞご覧ください。
なお作者は著作権法上の問題はないと判断のうえ、投稿を行っております。安心してお楽しみいただければ幸いです。
--------------------------------------------------
(幼い頃の憧れ、即ち憧憬は、人の心に深く刻まれるものですよね。そのある意味呪縛のようなものに囚われ続けるのか、解き放って違う道に進むことができるのかは、本人のみならず周囲の人々の運命にも大きな影響を与えることになると思います)
もし物語の余韻が心に残りましたら、評価やブックマークという形で、想いを返していただければ幸いです。
第一部の登場人物一覧はこちら↓
https://ncode.syosetu.com/n3241kv/2/




