「冷遇されてる婚約者」、冷遇されてるつもりない
ヒロイチはショックを受けた。
同時に、出鼻を挫かれたような、面白くない気持ちになった。
「愛だとか、お気遣いは結構です! わたし、そういうのがなくても頑張ってたくさん子供を産みますので!」
これはヒロイチの婚約者として対面した、月子の――憎らしいほどに――元気な第一声であった。
……たしかに、純人間を娶るということは、世間一般ではそのような解釈をされても致し方のないことである。
ヒロイチはオオカミ獣人の古い家系に生まれ、もちろんヒロイチ自身も立派な耳としっぽ、牙に爪をそなえた、オオカミ獣人である。
一方、月子の耳は毛も生えていないし小さい。しっぽも、立派な牙も、鋭い爪もなく、心許ない。どこからどう見ても、獣人ではなく、純人間であった。
この獣人社会において、他種族とつがうことはタブーに近しい。たとえばヒロイチの場合、同じオオカミ獣人とつがいになるのには問題がないものの、ネコ獣人とつがいになりたいなどと言い出せば、勘当はまぬがれまい。
しかしなにごとにも例外はある。獣人ではない相手――すなわち、純人間とつがいになる場合は、特に咎められはしない。
むしろ、獣人の名家であればどこでだってやっている。
それというのも、純人間は獣人より遥かに脆弱だが、こと繁殖能力においては獣人よりも優れている。
他種族の獣人同士では子供が生まれることはまずなく、同種族同士の獣人でもなかなか子供ができないということも多くあるため、繁殖能力の高い純人間に跡継ぎを生ませる――ということは、獣人の名家では珍しくないことなのだ。
けれども、ヒロイチの今は亡き母親はオオカミ獣人で、同じオオカミ獣人の父親とは仲睦まじく、ヒロイチを筆頭に三人の子宝に恵まれた。
だから、そんな両親の姿を見て育ったヒロイチにとって、月子のセリフはちょっと見逃せないものだった。
今は婚約者同士だが、いずれ夫婦として暮らし、生涯を共にするというのに、「愛だとか、お気遣いは結構です」という第一声は、ヒロイチには受け入れがたいものだった。
けれどもここで、
「いいや、俺はきみと真摯に愛しあいたい」
……などと言えたのであればたいそう立派であったが、ヒロイチはあろうことか月子を冷たく突き放してしまった。
「わかった、きみがそう言うならそうしよう」
ヒロイチは、冷たく強張った声でそう言い放ち、対面のために設けられた場をさっさと離れてしまった。
そして最初にそんな態度を取ってしまうと、あとから「あれは本心じゃなかったんだ」などとはなかなか言いだせない。ちっぽけなプライドと、臆病な心が邪魔をしてくる。
そうなると、冷たい態度でいることをずるずると続けるしかない。
心の中でいくら後悔しても、言葉として外に出さなければ、それは他人からすればないこととほとんど同じである。
ヒロイチ、一七歳の冬の失敗であった。
「純愛思考もほどほどにしときなよ」……などと生意気盛りの下の弟に揶揄されつつ、月子へのそっけない態度を崩せないまま、季節は冬から春、春から夏へと変わっていた。
月子がヒロイチの家――狼神家へとやってきてから、そろそろ半年が経とうとしている。
その間にヒロイチは誕生日を迎えて一八歳になっていた。
一方、月子はまだ一六歳なので、すぐに結婚するのしないのの話にはならない。
それはヒロイチにとっては良くもあり悪くもあり。いずれにせよ現状に甘んじてしまっているのは、月子とは法的にはまだ夫婦になれないということも多少関係してはいた。
月子はまだあくまで婚約者。ヒロイチと結婚し、狼神家へ嫁入りするのかどうかはまだ未知数なのである。
とは言えどもそれはほぼ空論だ。すでに月子は狼神家へ居を移している。このまま月子が一八を迎えれば、ヒロイチとつつがなく結婚することになるだろう。
しかし「つつがなく」という表現は上辺だけのもので、実際のところ問題はある。
問題とはヒロイチのことである。
それは、ヒロイチ自身よく理解していた。
他方、月子は冷たい態度を取る婚約者――ヒロイチをどう思っているのか、ヒロイチはよくわからない。
月子はいつも笑顔を絶やさず、ヒロイチが冷たい態度をとっても意に介した風でもなく、元気いっぱいだ。……少なくとも、ヒロイチにはそのように見えている。
月子から涙のにおいがしたことはないが、実のところ陰では枕を濡らしているかもしれない……。
しかしヒロイチが知る限りでは、月子が落ち込んだ様子は一度としてなく、いつだってにこにことしている。
けれどもそれは、見せかけだけのものかもしれない……。
――ひとこと、謝ればいいのだ。
そこから果たして挽回できるのかどうかまでは定かではないものの、まず謝罪してからではないと始まるものも始まらないだろう。
ヒロイチだってわかっている。頭では理解しているが、いまひとつ行動に移せないのだ。
今もヒロイチの脳裏で、「謝罪するべき」という言葉がくるくると渦を描いて踊っている。
月子が通う純人間のための学校へ、彼女を迎えに行く道中。月子の学校への送り迎えは、婚約者であるヒロイチの役目だった。
純人間は獣人の子供を産めるという需要があり、かつ純人間は力で獣人より明確に劣るため、このような送迎は欠かせない。
ヒロイチはそれを嫌だと思ったことはないものの、嫌でも月子の存在を意識してしまうので、今のように針山の上に立たされるかのような、罪悪感にさいなまれる時間はいかんともしがたい。
ヒロイチは鬱々としながらも、校舎内にある昇降口で同性の――もちろん純人間の――友人たちとおしゃべりに興じている月子を見つける。その様子は狼神家の屋敷にいるときと大して変わりはない。
ヒロイチが昇降口に入るまでもなく、月子もヒロイチを認め、友人たちに手を振って足早に駆け寄ってくる。
ヒロイチは、月子が転ぶんじゃないか、怪我をするんじゃないかと内心ハラハラだ。
純人間にだって獣人と同じようにプライドがあり、自立心ももちろんある。それはヒロイチも承知していたが、純人間はどうしたって獣人よりか弱い存在だ。ヒロイチの、小学生である下の弟よりも、月子のほうが弱いのだ。そういうわけで、心配は尽きない。
けれどもヒロイチは月子と婚約してからの初対面で、彼女を冷たく突き放してしまった。
内心では月子を案じていても、それを表に出したことはなかった。
今だって、駆け寄ってきた月子に
「そんなに急ぐな」
と素っ気ない声で、命じるような態度で言ってしまった。
「怪我でもしたら面倒だ」
おまけに、いらない言葉もつけてしまう。
ヒロイチは内心でじたばたしたが、一度口に出してしまった言葉を、完全になかったことにするのは現実問題難しい。
しかしヒロイチの煩悶を知らない月子は、笑顔で「高校生にもなってずっこけないですって!」などと明るく答える。
月子がヒロイチの素っ気ない言い方を気にした様子がなかったので、ヒロイチは安堵する。同時に、そんな自分がひどく矮小な存在に感じられ、月子への罪悪感が膨らむのを感じた。
月子と並んで帰路を行く途中、会話はない。
正確には月子が一方的にしゃべり続けて、ヒロイチがそれにたまに相槌を打つというのがお決まりの光景だった。
月子はそんな状況をどう思っているのか、ヒロイチにはわからない。
しかし返事を要するような問いかけを月子があまり投げかけてこないところを鑑みるに、彼女のほうもヒロイチの返事を期待していないというか、相槌で済むような話題をわざわざ選んでいるのかもしれなかった。
常であれば、そのような調子で屋敷に着くまでしゃべり続ける月子だったが、今日は珍しくヒロイチにこんなことを言い出す。
「あの、ヒロイチさん。もしよろしければ、なんですけれども……」
月子は、迷うようにそこで一度言葉を切った。
「トウメさんのお墓参りに行きたいんです、けど」
……ヒロイチたち三兄弟の母親が亡くなって、もう一〇年近く経つが、命日には家族そろっての墓参りを欠かしていない。
ヒロイチの母親が亡くなったのは晩秋のことだ。
今は夏休みを前に、暑さが厳しさを増すころ。ヒロイチの母親の命日にはまだいくらか早かった。またお盆にも少々早い。
それでもヒロイチは月子から理由を聞き出すことをせず、遠くでセミがまだか弱い鳴き声を発する中、彼女の頼みを了承した。
先述の通り、純人間のその需要から、無理やりに攫おうなどと企てるよからぬ輩は世にごまんといる。
月子ももちろんそんな嘆かわしい世の中の風潮を知っているわけで、墓参りひとつするにもひとりではままならず、獣人であるヒロイチの同行を願ったのだ。
ヒロイチは、これまで月子に謝罪する機会――そしてヒロイチが冷たい態度を取るきっかけとなった、例の発言をした月子を理解し、歩み寄ろうとする機会を、ずっと見過ごし続けていた。
「ヒロイチさん、お待たせしました!」
月子からの頼みを聞いてすぐの休日。玄関で待つヒロイチのもとへ現れた月子は、ヒロイチの亡き母が愛用していたワンピースを身に纏っていた。
「これ……生前に譲っていただいたもので……夏用のワンピースだとうかがっていたので、今の季節にちょうどいいかな、と」
シンプルな型だが、しかしヒロイチには見慣れたワンピース。もう何年も見ていなかったにもかかわらず、ヒロイチはひと目見て、それが母のワンピースだということに気づけた。
――月子に謝罪しなければ。
――謝って、できることなら関係を修復したい。
目の前に立ち現れた亡き母のワンピースを見て、ヒロイチは決意を固めた。
そんなことは実のところもう何度もしていたが、今回はなんだか違うという予感がヒロイチの中にあった。
――いや、俺が違うものにしてみせるんだ。
ヒロイチはやや緊張しながらも月子を促し、まず墓前に供える花を買いに行くことにした。
青空を背景に立ち上るような夏の入道雲の上にある太陽、本格的に鳴き始めたセミの声が重なり、この時期に日陰の少ない霊園で長居をするのは骨が折れそうだった。
道中で月子が晴雨兼用だという傘を差して、強引に相合傘の形にしたが、身長差の関係もあり、今はヒロイチが日傘を手にしている。
途中で寄って購入した花々と、水を汲んだ桶と柄杓を手にした月子に、ヒロイチは日傘で陰を作ってやりつつ、狼神家の墓へと向かう。
遠くの景色がゆらゆらと揺れ、陽炎が見えた。ここ数日でもう夏の盛りといった様相になり、ヒロイチは月子の体調が気にかかった。
とは言えども今回の訪問は月子たっての願い。ヒロイチが月子の体調を慮ったとしても、せっついて早く帰るなんてことは心情的にできないのであった。
「……トウメさんからいただいたワンピースがちょうどぴったり着れることに気づいたので、お墓参りに行きたいなって思ったんです。でもひとりでは出歩けないので、ヒロイチさんに……」
ヒロイチはそんな月子の言葉に、かろうじてあいまいな相槌ではなく「……そうか」とだけ言えた。
ヒロイチは内心で自身を叱咤して鼓舞しようとし、また上手くことを進められない現実を前に悶々とした感情を持て余す。
しかし月子にはそのようなヒロイチの複雑な心情などわからないわけで、墓前で膝を折ってかがむと、両の手のひらを合わせた。
「トウメさん、ワンピース、ありがとうございました。狼神家のみなさんも優しくて、ヒロイチさんとも上手くやれています」
厳かに語りかける月子の表情は穏やかそのものだった。
しかし、だがそれゆえに、ヒロイチは胸が痛んだ。
月子はいつだって明るく振る舞って、ヒロイチの冷たい態度を批難したり、ましてなじったことなどはない。
それに甘んじて、月子に無理をさせて、母の墓前で嘘まで言わせている――。
ヒロイチは居ても立っても居られない気持ちに駆られた。
母が生きていれば、情けないヒロイチのことを厳しく叱ったに違いない。
その想像が、ヒロイチの背中を押し、一歩を踏み出させる。
「――月子」
そうして名前を呼んだヒロイチの声はわずかに上擦って響いた。それに、みっともなく震えている気もした。
だが、この機会をまた見過ごして、月子とこれまで通りの関係を続けることのほうが、よほどみっともないことだと、ヒロイチは勇気を振り絞った。
「ヒロイチさん?」
月子は、かがんでいた姿勢から膝に手をやり、やおら立ち上がる。
ヒロイチの様子がおかしいことに気づいたのか、少し怪訝そうに頭をわずかに傾けた。
日傘を差したままだったので、直射日光が当たっているときよりは暑くはない。それでも、ヒロイチは玉のような汗が浮かぶ錯覚をした。
四方八方ではセミのオスがメスを求めて懸命に鳴いている。そんな声を聞きながら、ヒロイチは一度つばを飲み込んでから、口を開いた。
「悪かった」
「……え?」
「これまで……お前に冷たい態度を取ってきた。それを、謝りたいと思ったんだ。こちらから懇願するのは虫のいいことだとわかっているが――お前と、婚約者として、やり直したい」
ヒロイチはどうにか言いたいことを喉から絞り出せた。
しかし達成感や満足感からはほど遠い心境だ。
ヒロイチが言ったように、勝手に冷たい態度を取って、勝手に謝罪してきて、身勝手に関係修復を申し出た――と、なんとも虫のいいことをしているというのが現状なわけである。
ヒロイチは、月子が怒り出したり、なんだったら平手打ちの一発をお見舞いしてきても仕方のないことだと腹をくくる。
ただそうする月子をヒロイチは上手く想像できなかった。
むしろ、悲しそうな顔をする月子のほうが、容易に思い描ける。
だが――月子はヒロイチが空想したどちらの顔もしなかった。
「え? ヒロイチさんって、これまでわたしに冷たくしていたつもりなんですか?」
「よくわかりません」という言葉がありありと顔に書いてある月子を見て、ヒロイチは呆気に取られた。
優しい月子が、ヒロイチを思いやって、わざと素っ頓狂な返しをしてしらばくれているのかと思いきや、彼女は本気でヒロイチの謝罪の言葉が理解できないらしい……とこちらが理解するのには多少時間がかかった。
「え……だってヒロイチさん、わたしがしゃべってるときは耳をぴくぴくさせて、いつもしっぽを揺らしてるし……」
「わたしがお屋敷で落とし物をして困っていたときも、においでわかったって、すぐに見つけて届けてくれましたし……」
「送迎のときには、絶対わたしに車道側を歩かせないですし……」
「今日だって、霊園に着くまでずっとわたしが熱中症にならないかどうかとか、すごく気にかけてくれてましたよね? 冷えたペットボトル持たせたり……」
「……だから、わたしヒロイチさんが冷たいだなんて思ったことないですよ」
月子は本気で言っているらしい。
そしてヒロイチは――
「俺が、そんな行動を……?!」
ほとんど無意識に行っていた数々の行動を突きつけられ……恥ずかしさで死にかけていた。
そこへ月子の「え? 無意識だったんですか?」という純粋ににおどろいた様子の言葉が追い打ちをかける。
「……いや、それでも俺は最初に月子に冷たい態度を取ったのはたしかで……」
「そうなんですか? お義父さまは『ヒロイチはクーデレなんだ』っておっしゃっていましたけど……」
月子はまだヒロイチの婚約者という立場であったが、ヒロイチの父は月子に「おとうさま」と呼ばせている。
気の早い呼び方をさせている実父に、ヒロイチは内心で若干やきもきしていたが……そんなことよりも、月子に「ヒロイチはクーデレ」などと吹き込んでいたという事実に、脱力しそうになる。
「父さん、『クーデレ』って単語知ってるんだ」とか「俺にデレ要素なんてないだろ! ……いや、あったのか?」とか、ヒロイチの脳内は大騒ぎである。
ただ怒りが湧くよりも、月子との婚約者としての初対面のあと、父親にそのようなフォロー――と呼んで差し支えないだろう――をさせていたのかと思うと、いたたまれなく頭が上がらない気持ちになる。
唸りたくなるのを必死に抑えながら、しかしヒロイチは月子の顔をまともに見れず、あらぬ方向へと視線を飛ばす。
「……わたし、ヒロイチさんが優しいって知ってますから」
「……そんなことは――」
「ない」とヒロイチが言い切る前に、対面する月子はゆるく首を左右に振って、微笑んだ。
「わたしを助けてくれたじゃないですか」
「それは……明らかに危ない目に遭っているやつがいたら、だれだってそうするだろう」
「……わたし、ヒロイチさんのそういうところ、好きです。――あのとき、家を逃げ出して、ひと攫いに遭って危ないところを助けてくれたのは、他でもないヒロイチさんなんですから」
ヒロイチと月子は、婚約者として会った時点で初対面ではなかった。
昔、月子は獣人同士から生まれた純人間だったがゆえに虐げられ、ロクデナシの親に売り飛ばされそうになったところを逃げ出したが、その先でもひと攫いに遭うという憂き目を見た。
ヒロイチがそれを助けたのはほんの偶然だ。
当時ヒロイチは小学生ではあったが、中学生に間違われるほど体格が良く、だからこそひと攫いに対抗できた。
ヒロイチは助けた月子の、艶のないバサバサの髪や、やせ細って枝みたいな腕と脚にショックを受けて、そのまま狼神家に連れて帰ってしまった。もちろん、両親にはしこたま怒られた。
「……恩返しのつもりなのか?」
「それはもちろんあります。だって、今のわたしがあるのはヒロイチさんや、狼神家のみなさんのお陰なんですから」
今よりも落ち着きがなくやんちゃだったヒロイチは、月子を連れ回して遊びに付き合わせていた記憶がある。
振り返れば、月子はなにごとにも無気力だった。親から虐待を受け、心を鈍麻させることでその苦痛から逃れていたのだろう。
しかし小学生の、それも今よりずっとガサツだったヒロイチにそんなことがわかるはずもなく、自分が楽しいと思うことはきっと月子も楽しいだろうと思って、にこりともしない彼女を連れ回していたわけだ。しかも獣人と人間の身体能力の差――子供のころなのでそう大きく開きはなかったが――なんて考えずに。
「ヒロイチさんがいたから……わたし、もう少し生きていてもいいかなって思えたんです。ヒロイチさんや、みなさんがいたから、わたし、笑えるようになったので」
月子が笑うようになったのはいつからだっただろうか。
月子がヒロイチの母からワンピースを分けてもらったのだと言ってきたときには、もう彼女は笑えていた。
「それに、ヒロイチさんが未来を約束してくれたから」
「約束……」
「忘れたとは言わせませんよ?」
月子がいつもとは違う、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「わたしをお嫁さんにもらってくれるって言ったじゃないですか」
「……言った。でもあれは」
「貰い手がいなかったら、ですね。……でもわたし、ヒロイチさんが初恋のひとなんですよ。だから、ヒロイチさんのお嫁さんになりたくて、お義父さまに頼んだんです。何年経ってもわたしのことを気にかけてくださって、ちょくちょくお会いしていたので……」
唐突に、月子は「ごめんなさい」と言った。微笑みを浮かべてはいたが、どこか痛ましく感じられた。
「わたし、ヒロイチさんのそばにいられるなら、なんだってよかったんです。ただ、子供産むためだけの存在でも……。でも、わたしの言葉のせいでヒロイチさんを苦しめてしまった」
「謝るのは俺のほうだ。ずいぶんと子供っぽいことをしてしまった」
「でも――」
「――俺も、初恋は月子だ」
月子は「えっ」と言って、伏せていた目を丸くして、ヒロイチを見上げた。
「ずっと、月子のことが忘れられなくて、でも婚約者が月子だって聞いて……浮かれてしまって。それで、勝手に傷ついて、冷たい態度を取ってしまった。……すまない」
月子は微笑んだ。先ほどあった痛ましさは、その微笑みからは消えていた。
「わたしたち、両思いだったんですね」
「あ、ああ。そういうことになる、のか」
「『初恋は実らない』と言いますが、わたしたちに限っては嘘、ですね」
「……実らせていいのか?」
「わたしは、実らせたいと思っているんですけれど……」
ヒロイチは、先ほどとは別種の恥ずかしさが襲ってくるのを感じた。そこには、もちろん喜びも含まれているわけだが。
「だめ、ですか?」
「……だめじゃない」
ヒロイチはその言葉が真実であることを証明するように、爪を立てないようにしながら、指の腹でそっと月子の手首に触れる。汗をかいているのか、少しだけ皮膚の表面はしっとりとしていたが、今ばかりはそんな感触も嫌ではなかった。
ヒロイチは小柄な月子を見下ろす。べっこう飴のような、つやつやとした月子の茶色い瞳を見つめる。
やがて月子も見つめ合ったまま、ヒロイチの手首をそっと指先で撫でた。
日傘のシルエットに隠れながらも、ふたりの影はそっと重なった。