1.悪の函
ある日、"僕" は母親から奇妙な箱を手渡された。母は "僕" に言う。──『"本当に悪いモノ"を吸い取ってくれるんだって。あなたも私に似て星の巡りが悪い様だから。だからあげる』
と。
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僕は幼い頃から "星の巡りが悪い人" だった。
とにかくツイてないのだ。
虚弱体質でもなく、遺伝的疾患もない。それなのに大病を何度も患い、そのたびに家族の顔から血の気が引いていくのを見てきた。医師たちは首をひねり、統計学的にありえない、と呟いた。
そんな僕だが、ある日を境に少しはマシになった。
マシというのは、直接的に死と隣り合わせになることがなくなったという意味だ。大怪我で集中治療室に運ばれることも、原因不明の高熱で意識を失うこともなくなった。
今ではちょっと運が悪いかな、という程度。雨の日に限って傘を忘れるとか、買ったばかりの電化製品がすぐ壊れるとか。
でも昔は酷かった。
いつ死んでもおかしくない──そういうレベルで不運だった。階段から落ちて頭蓋骨にヒビが入ったり、食中毒で腎不全になりかけたり。確率論では説明できない頻度で、死神が僕の肩を叩いた。
不幸の総量は決まっているという説を、どこかで読んだことがある。エネルギー保存の法則のように、宇宙全体の不幸量は一定で、誰かが幸せになれば誰かが不幸になる。もしそれが本当なら、僕の不幸の総量は小さな町一つ分くらいはあるに違いない。
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僕には母がいる。
僕の母だけあって、やはりツイていない人だった。
母はもう五十を過ぎたが、若い頃は今の僕と同じように、いや、それ以上に過酷な運命に翻弄されてきたらしい。交通事故で三度も入院し、原因不明の病で医師団を困惑させ、落雷に遭ったことさえあるという。
過去形である。
現在の母はピンピンしている。風邪を引いても三日で治り、階段を踏み外してもせいぜい青あざ程度。雪道で滑ることはあっても、骨折には至らない。事故や事件に巻き込まれることもない。普通の人の、普通の不運の範囲内。
そんな母がある日、僕に "箱" をくれた。
小学校低学年の頃だった。一年生だったか、二年生だったか。季節は覚えている──梅雨の晴れ間で、紫陽花が不自然なほど鮮やかに咲いていた。
ルービックキューブより二回りほど大きい箱。黒檀のような深い色合いで、触れると妙に温かかった。表面に彫られた文様は、見れば見るほど目が回るような複雑さで、子供心に不気味さを感じた。
──これは私のお母さん、あなたのおばあちゃんから貰った箱なんだけれど。
母の声は、普段より低かった。
──"本当に悪いモノ" を吸い取ってくれるんだって。あなたも私に似て星の巡りが悪いようだから。だからあげる。
箱は見た目より軽く、中で何かが転がるような音がした。液体のような、砂のような、あるいはもっと別の何かのような。
母曰く、お守りとのこと。
そして母は、祖母から聞いたという奇妙な注意事項を付け加えた。
──"本当に悪いモノ" を全部吸い取ったら、その箱の役目はおしまい……っておばあちゃんは言ってたわ。それと、この箱はとても頼りになるけれど、ずっと持っていてはいけないって。
母は一呼吸置いて、続けた。
──大きくなってきたら "本当に悪いモノ" が漏れ出す前に手放しなさいって。燃やしてもいいし、埋めてもいいし、とにかく手元に置いておくなって。
木で出来た箱が大きくなるわけがない。物理法則に反している。幼い僕でもそう思った。でも母の真剣な表情が、その疑念を飲み込ませた。
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お守りがどれほどの効力を発揮したかは、科学的には証明できない。
ただ事実として、それを境に僕の不運は一応の落ち着きを見せた。
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小学校を卒業し、中学生となり。
一つ二つと青い恋をして、それが音もなく砕け散り。
そして高校生となって今の妻と出逢った。恋は静かに始まり、漫画や小説に描かれるような劇的な展開もなく、ただ穏やかに深まっていった。夏祭りでの告白も、初めてのキスも、どこにでもある普通の恋愛の一コマ。
一緒の大学に行こうと約束し、無事に同じキャンパスを歩いた。就職しても関係は変わらなかった。毎週末のデート、たまの喧嘩、仲直りのプレゼント。
都内在住という地理的幸運もあった。これが地方なら、上京だの遠距離だのとドラマが生まれる余地もあったかもしれない。
僕と妻の恋は、エンタメ的にはつまらないだろう。山も谷も、涙も叫びもない。でも僕たちにとっては、それこそが幸せだった。
結婚を意識したのは、就職して五年目の春。
桜が散り始めた頃、僕は気づいた。彼女の笑顔を見ることが、朝のコーヒーと同じくらい当たり前で必要なものになっていることに。
母の教えを思い出す。相手の良いところが輝いて見える間は恋で、相手の欠点が見えてもなお一緒にいたいと思えるようになったら、それが愛なのだと。
僕も妻も完璧からは程遠い。僕は片付けが苦手で、締切をよく忘れる。妻は朝が弱く、怒ると三日は口をきかない。世の中には「愛すべき欠点」なんて綺麗事があるが、欠点は欠点だ。苛立つし、不快だ。
でも、それでも。
互いの欠点による不快感より、離れることの不快感の方がずっと大きかった。だから僕たちは一緒になることを決めた。
ところで、気になることがある。
些細な不運──電車の遅延、コンビニの品切れ、突然の雨──そういうことがあるたびに、箱が微妙に大きくなっている気がするのだ。
ミリ単位の変化。目の錯覚かもしれない。
測ればいいじゃないか、という声が聞こえる。でも僕はそれをしたくない。確認すべきことだとわかっていても、見たくない現実というものがある。健康診断の結果とか、銀行の残高とか、そういう類の。
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ともあれ、僕と妻は結婚した。
二人の間に、今を燃やし尽くすような激情はなかった。でも、先を照らす行灯のような温かさはあった。
一年が過ぎ、二年が過ぎた。
良いことも悪いこともあった。昇進、リストラの噂、妻の転職、僕の入院。でも一番辛かったのは、三年目の秋に判明したことだった。
妻が子供を産めない体だと分かったのだ。
検査結果を聞いた時、診察室の空気が凍りついた。医師の説明は丁寧だったが、要点は残酷なまでにシンプルだった。可能性はゼロではないが、限りなくゼロに近い。
妻は泣いた。声を殺して、でも肩を激しく震わせて。そして僕に何度も謝った。ごめんなさい、ごめんなさい、と。
ドラマなら、ここで亀裂が入るのだろう。口では許しても、心の奥底の失望が相手に伝わって。でも僕たちはそうならなかった。させなかった。
僕が心配だったのは、ただ妻の心だけだった。彼女が自分を責め続けないか、鬱にならないか、笑顔を失わないか。
その気持ちを伝え続けた。言葉で、態度で、時には無言の抱擁で。
妻は少しずつ立ち直り、以前よりもっと僕たちは親密になった。ラブラブ、なんて死語を使いたくなるくらいに。
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ただ、僕は一つだけ、絶対に妻に悟られてはならない感情を抱いていた。
それは、安堵だ。
子供ができないと聞いた瞬間、心の奥底で、僕は安堵の息を漏らした。
最低な男だと思う。自分でもそう思う。でも、それが正直な気持ちだった。
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話を箱に戻そう。
僕の推察はこうだ。
祖母も "星の巡りが悪い人" だった。でも箱が "本当に悪いモノ" を吸い取り、祖母は平穏な後半生を送った。
しかし祖母の娘である母は、やはり "星の巡りが悪い人" として生まれた。遺伝なのか、呪いなのか、それとも確率の悪戯なのか。
祖母は母に箱を譲った。そして母もまた、箱の恩恵を受けて平穏を手に入れた。
そして僕だ。
三代目の "星の巡りが悪い人"。僕は母から箱を譲り受け、なんとか普通の人生を歩めている。結婚もできた。仕事もある。ささやかな幸せを、掴めている。
でも、もし僕に子供ができたら?
四代目は、どうなる?
箱を譲ればいい、と思うかもしれない。でも、それはもうできない。
なぜなら、燃やしてしまったからだ。
都心では焚き火なんてできない。だから奥多摩まで行った。電車を乗り継いで二時間。キャンプ場の管理人に事情を話し(もちろん本当のことは言わなかったが)、焚き火の許可をもらった。
なぜそんなことをしたのか?
かつてルービックキューブより少し大きい程度だった箱が、今や靴箱ほどの大きさになっていたからだ。表面の文様は、以前より複雑に、そして禍々しく見えた。持ち上げると、中で何かが──たくさんの何かが──蠢いているような感触があった。
真夏の夕暮れ、僕は箱を火に投じた。
乾いた薪がパチパチと音を立てる中、箱は異様な燃え方をした。青い炎、緑の炎、見たこともない色の炎が次々と立ち上った。そして──
悲鳴が聞こえた。
絶叫、咆哮、呻き声。人のものとは思えない、でも確かに苦痛を訴える声。それは祖母の "本当に悪いモノ" だったのか、母のものだったのか、それとも僕のものだったのか。三世代分の怨嗟が、炎の中で悶えているようだった。
僕は耳を塞ぎたかったが、最後まで見届ける義務があると感じた。これは僕が断ち切らなければならない連鎖だった。
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今でも、ふと思う。
もし子供ができていたら。
もし、その子が僕と同じように "星の巡りが悪い人" だったら。
もし、あの箱を譲っていたら。
もし、三世代にわたって蓄積された "本当に悪いモノ" が、限界を超えて漏れ出していたら。
どんな地獄が、この世に現れただろうか。
妻の不妊を知った時の、あの醜い安堵。それは単に子育ての責任から逃れたかったわけじゃない。この呪われた連鎖を、僕の代で終わらせることができる──その安堵だったのだ。
でも、このことは墓まで持っていく。
妻にはただ彼女を愛しているとだけ伝え続けようと思う。