5.太陽と月に背いて
「おい……意識はあるか?」
ディエスの声で、ふと目が覚めた。古い夢を見ていたようだ。
痛む頭を押さえながら起き上がる。
硬いマットレスも、薄汚れた白い床も、殺風景な室内は見慣れた場所だった。
見慣れたとは言っても、四十年ほど前には、という条件付きである。それに――記憶よりもだいぶ、埃や汚れでくたびれた様子ではあったが。
「結局ニュメロ研究所に戻されちまったのか」
「残念ながらそのようだな」
「他人事みたいな口ぶり――いや、やーめた。あんた別に、他人事だと思ってる訳じゃないもんな」
「ああ」
単に、感情表現がうまくないだけだ。
そう言えば、スーもどこかそんなところがあったと、今になって思い出した。
「それで、今どんな状況なのさ?」
「芳しくないな。気絶させられたお前と一緒に、思妍も連れてこられた。が、この部屋の前で引き離された。たぶん俺たちとは別の部屋に監禁されているんだろうな。まさか、外から連れてきた人間を実験体にはすまいと思うが……」
「そりゃ思いてぇけど、ちっと信用できないからな……よっ、と」
リウはバク転の要領でベッドから跳ね起きると、扉の近くまで歩み寄った。
「オレはやりたいこと決まってるけど、一応聞いとくわ。あんた、これからどうする?」
「思妍が捕らえられている。俺のせいで不幸になる人間がいることは、本意ではない」
「どうやら、オレたち協力できそうね」
ちらりとリウを見て、ディエスはゆっくりと頷いた。
「なにか考えがあるのか」
「べっつに。ここ、オレが入れられてた部屋だなーって気づいただけ。それに、向こうが人質を取るなら、こっちも人質を取ってもいいんじゃねぇかなって」
「……人質?」
「オレは知らないけど、研究所の創立者なんて人質として価値高いんじゃない?」
言いながら、窓枠の鉄格子を揺する。
前回はここの鉄格子を緩め逃げ出したのだが、さすがにもう対策されているようだ。びくともしない。
続けて、扉の蝶番を確認した。
上手い具合に劣化が進んでいる。どうやら、あれから四十年、この部屋は使われてこなかったようだ。
四十年前は、ここからは逃げられなかった。
力が足りなかったからだ。だが、今は。
「セイッ!」
リウは呼吸と共に足を踏み込み、扉に蹴りを入れる。
二度、三度と全く同じ個所に当て続けると、四度目で捻曲がった扉が、五度目で廊下へ向かって吹っ飛んだ。
「あらあら、劣化著しいな。四十年もメンテしてなきゃ、ま、こういうこともあるよねって」
「……まあ、そうかもな」
なにか言いたげな視線は、瞬き一つの間に真顔に戻った。
「今回は見逃そう。最優先事項は別にある。行くぞ、リウ」
「是 (シー)」
歪んだ扉を乗り越え、二人は研究所の奥へと向かった。
◆◇◆◇◆
途中で出会った研究員は、リウの蹴りで気絶させ、武器を奪って靴紐で両手を縛りつけてロッカーに押し込めた。
うち一つはディエスが拝借してきたが、他はまとめて焼却炉に放り込んである。
まさか、独房から逃げ出せるとは思ってもいなかったのだろう。
四十年前は、それができずに何人もの実験体がここで命を落としたのだから。
だがこういった場所は、往々にして内側からの崩壊にもろいものだ。
ディエスの先導で到着した先は、小さな個室だった。
扉の粗末さなど、なんならリウの独房の扉の方が、分厚い鉄製で豪華に見えるくらいだ。
「おい、本当にここなのか?」
「そうだ」
ディエスは礼儀正しくノックをすると、ノブを回した。
中では、古ぼけた木製の椅子に腰をかけた女が一人。
そして、その横にはお茶を飲んでいる少女――思妍だ。
「思妍! 無事か!?」
「リウ、ディエス! なんでここに!?」
目を丸くする思妍とは裏腹に、女は表情を変えなかった。
白銀の髪も赤い瞳も、深紅のローブも四十年前と変わらない。
部屋自体の粗末さとは裏腹に、女は今でも若々しく美しかった。
「――ゼロ」
「おまえたちか。最後の二人がこうして揃うとは、興味深いな」
彼女の声もまた、記憶通り。凍える冬のような冷たさで、リウを刺す。
他人事じみた口ぶりに、リウは眉をひそめた。
「十人も作っておいて、たった二人しか残らなかった子どもにそれは酷い言いぐさだろ」
「……子ども」
ゼロが、微かに目を見開いた。
「その発想は、なかった。おまえたちは、私の遺伝子をもとにしているとは聞いていたが――」
「ずいぶん他人事だなぁ!? あんたらの酷い実験のせいで、スーやほかの兄弟たちはみんな死んだんだぞ!」
「おい、リウ」
制止するようにディエスが手を伸ばしたが、リウはそれを跳ね除け、更にゼロへと迫る。
途中、思妍が怯えて後ずさるのが見えたが、それに構う余裕はなかった。
襟首を掴み上げ、彼女が苦しげに顔をしかめる。
「命を造り出し、弄び、戯れに踏みにじる――そんなことしてて楽しいかよ!」
「止めろ、リウ。ゼロに言うべき言葉じゃない」
「なんでだよ、こいつがこの実験のいちばん偉いヤツなんだろうが!」
「確かに彼女は出資者だ――だが、ゼロ自身もそんな実験がされてるなんて知らなかった!」
「……は?」
ディエスは、「そうか、お前が逃げた後の話か」と呟くと、ゼロへと向き直る。
「すまない、リウが知らないとは思わず――きちんと話していなかった」
「いや、リウの憎しみも仕方のないことだ。兄を喪ったのだから。把握していなかった私に責があることは疑いない」
脱力とともに放された襟を直し、息を整えると、ゼロは目を伏せ呟いた。
「そもそもが、私も実験体のようなものだ。なぜか老いぬ、そして死ぬこともない。終末事変のなにが影響したのやら、あれ以来、姿も変わらず年を取らぬまま生き続けている」
「……あんたが、実験体だって?」
「誰もが私をおいて死んでいった。残っているのは、お前たちだけだ」
ゼロは表情を変えない。
冷ややかな瞳は宝石のように赤く、記憶のままで――いや、違う。
スーやディエスとともに年月を重ねた今のリウには、その瞳が微かに感情を湛えていることに気づいた。
「私はこの実験を始めた。終末事変前とまでは望まない。だが、せめて幼い子どもたちが成長するまで、子が親の年を越えるまで、生きられるようにはできないかと」
「……じゃあ、なんでオレたちにあんな酷いことを」
「私が一人で細々と始めた実験はいつの間にか人を呼び寄せ、資金を集め、このニュメロ研究所となった。私の手によらぬ実験がいくつも並行で行われ――そのうちの一つが、お前たち『ニュメロ』を生み出すことだった」
「何にも知らなかったって言うのかよ!?」
「そうだ……情けないことに、私は、私の遺伝子を改変した子を作ったと聞いただけで、その実験でなにが行われていたか知らなかった。おまえが、私に声をかけるまでは」
ゼロと初めて会い、そして直談判した。
あの日のことを思い出す。子どもだった自分にはわからなかったかもしれないが、もしかしてあの日もゼロはこんな顔をしていたのだろうか。
まるで、自分自身が雨に降り込められた子どもであるかのような。
「……私は、親などではなかった。おまえから話を聞き、すぐに実験の中止を申し入れたが、その頃の研究所は巨大で、私一人の発言が即時に聞き入れられるような状況ではなかった。だが、おまえから聞いたスーの状況は一刻を争う。だから、私はおまえを外に逃がすことにした」
「――じゃあ、鉄格子が緩んでたのは」
「窓の外には藁束が敷いてあっただろう。うまくクッションになったはずだ」
ゼロは記憶を辿るように微かに目を細めたが、すぐに視線を床に落とした。
「だが、遅かった。神保町に腰を据えたおまえたちのところに、私は時折身を隠して立ち寄った。スーを診察し、必要な治療を施すためだが……彼の死はもうすぐそこまで近づいていた」
「なんで――!」
リウは悲鳴のように声を上げる。
「なんで、あの時それを言ってくれなかった! オレにそう教えてくれなかった!」
言い終わってから、自分で既に答えはわかっていた。
あの頃の、スー以外の他人をすべて拒絶していたリウには、信じることができなかったからだろう。
たとえそれがスーのためなのだと言われても。スー本人がそう言ったとしてさえも。
だが、リウ自身にすらわかっている答えをゼロは口にせず、そして不必要な謝罪もしようとはしなかった。
「あれから時間をかけ、私は研究所を変えたつもりだ。思妍を連れてきたことはすぐに報告を入れさせ、客人として丁重に取り扱うように指示した。おまえたちは――」
「解放されるより、俺たちが出る方が早かったな」
「そのようだ。サマーニァやノインは、無事に救うことができた。寂しいことに、寿命は私よりも先だったようだが」
「俺はまだ生きている」
これまで黙ってリウを見守ってきたディエスが、ふと口を開いた。
「俺たちはきっと、成功した部類なのだろう。ゼロの遺伝子のうち、なにがゼロの不老を支えるものなのか、俺たちの生存でかなり絞ることができた。だから、これからはその遺伝子をどうやって伝えるか、がカギになる――のは、わかっているのだが……」
徐々に声が小さくなったのは、どうやらそれがディエス自身望んでいないことだったからのようだ。
リウもまた、ここに至ってようやくディエスがなぜそれを拒んだかに気づいてしまった。
「あんたら、こうやって見ると本当にそっくりだもんな――いや、顔立ちとかじゃなくて」
顔立ちは、改変された遺伝子が影響したものか、まったく別の血が流れているように思える。
だが、この表情に出ない感情の豊かさと、使命に殉ずる気合の入りようは、間違いなく親子である。
少なくとも、リウよりもよっぽど似ている。
「ああ……俺だってまさか行為自体に抵抗があるなどと初心なことを言う年ではないが、ゼロが相手ではどうにも……」
「……そ、そうか。私にはそういった魅力はないからな。おまえがはっきり嫌と言うなら、研究所を出ずとも手はずをする……」
「いや、そういう意味ではなく……どう言えばいいんだ」
「なるほど、こうなるから言いづらかったのね」
リウは大きなため息をつくと、ゼロの肩を掴み、間近から睨みつけた。
「オレは違うけど、ディエスにとってはあんたは母親なワケ! よく考えて見ろよ! いや、よく考えないほうがいいけど、ディエスがこう思ってるってことはあんただってそうなんだろ。本当に自分の遺伝子をわけた子どもみたいな相手と、そういう気分になるか!?」
ゼロは小さく首を傾げ、それから、彼女には(多分)珍しく、あからさまに顔色を変えた。
「確かに……難しい、かも」
「そういうものよね」
部屋の隅にちょこんと座っていた思妍が、愛らしい声を上げる。
「だって、ディエスったらあたしのこと口説いてたのよ! それって母親は眼中にないってことでしょ」
「いや、それは」
口説いていないと言い切ってしまうのも、思妍を傷つけてしまうかもしれないと気づいたのだろう。ディエスは困ったように口を閉じた。
「そうだよな! 太陽のようなお嬢さん~とかって声かけてたし」
リウからすれば、いくらでもディエスの後方援護ができた状況ではあったが、今回は思妍に手を貸すことにした。
◆◇◆◇◆
思妍と手を繋いで神保町に帰る間、リウは何度か後ろを振り返った。
そのたびに、思妍に「残ればいいのに」と言われたが――別に、リウだって研究所に心残りがある訳じゃない。
ゼロは、少し抜けてはいるようだが、きっとますます研究所を掌握するだろう。
ディエスだって、彼の思うところをやり抜くに違いない。
ディエスはゼロのことを親として慕っているようだし、二人であれば、今の行き詰った状況をなにか変える方法もあるかもしれない。
だから……これはリウの勝手な希望だ。
あわよくば思妍の言っていることが真実となり、ディエスが神保町へ住まうことになったりはしないかと、そんな密かな望みは。
去っていくリウの背に、ふと背後から声がかかる。
「Nos vemos, tío!」
ディエスの言葉の意味はよくわからないが――微かに笑う表情と、朗らかな声でなんとなく言いたいことはわかった。
たぶん、いや、間違いなくわかっている。
「――またな、兄弟!」
リウは満面の笑みを浮かべ、思い切り手を振り返した。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
最終ページに、那月 結音さんの描いてくださったキャラ紹介イラストを掲載させていただきましたので、ぜひご覧ください。