3.やがて復讐という名の雨
チャイナタウン神保町の朝市は、活気に満ちていた。
「ほら、3個で千円、千円だ! 買った買った! おや、見回りかい。あんたには1個おまけするよ、リウ」
「リウ! こないだは助かった。寄っていきなよ、いい魚が入ってる」
「朝ごはんにどう? リウになら豆乳一袋で三百円。出来立てほやほや、まだ温かいよ」
声をかけられ、笑顔を返すたびに増えていく品物。抱えた焼きまんじゅうの袋に、果物の包みと香辛料をぶら下げ、更に袋詰めの豆乳が加わった。
歩く間にも道の両脇に並ぶ出店は、その場で調理されたもののほかに、種々の食材も商っている。
頭と尾が二股ずつになった魚、足が十本ある小動物の肉、「清純水」と書かれた水の甕。
終末事変前には奇形と呼ばれた生物が日常的に販売され、飲料に耐える純度の水は非常に高価。だが、危険と知っても口にしなければ生きてはいけない。
ディエスは黙って市に並ぶ商品を眺めている。
旨そうな屋台飯の隣には、出どころの怪しげな嗜好品。
玉石混淆の店々を通りぬけるリウの背中を、一歩離れた場所からディエスは追っている。見慣れぬ異邦人たるディエスに声をかける者はいないが、町の掃除屋が傍にいるせいか、必要以上に恐れているものもいない様子だった。
リウは袋から取り出した焼きまんじゅうを一つ、かじりながら歩く。
「誰かさんの口車にのせられて、早朝から市なんか見回ることになっちまった」
「早朝? ああ、まあ……主観的にそう呼ぶことを咎める必要はないか」
思わず、中天に近づいていた太陽を見上げるディエスの腰に、ぽすんとなにかがぶつかった。
「ごめんなさーい!」
見下ろせば、リウの半分ほどの背丈の少女が立っている。
黒い髪を丁寧に結い上げ、花柄の旗袍を着た少女は、丸い瞳をぱちぱちと瞬かせた。両手で抱えた籠に、ぎっしり詰まっているのは手巻き煙草だ。
先へ行きかけていたリウが、少女の朗らかな声を聞きつけて振り返る。
「なんだ、思妍じゃないか!」
「リウ! じゃあこちらリウの……ずいぶん大きなお連れさんね?」
爪先立って下から見上げる少女の傍らに、ディエスは膝を突き目線を合わせる。
「あらまぁ」
「あー、そいつはディエス。しばらくうちに滞在する予定だ。おい、ディエス。こっちは思妍。市の奥に建つ煙草屋の一人娘さ」
「よろしく、señorita。Eres un sol」
「しにょりた? えれ、うん、そる?」
首を傾げた思妍に、ディエスは一拍おいてウィンクを見せた。
「太陽のようなお嬢さんってことだ、シニョリータ」
「あは、大げさ! けど嬉しいわ、ありがと! 煙草、サービスしとくわね」
「あっ、オレもオレも」
「リウはだーめ。今週はもう2回も買いに来たって父さん言ってたよ。吸い過ぎは身体に毒だって」
「その毒を売ってるのが君んちだろ」
「リウには恩があるんだもの、長生きしてほしいのよ。秋葉原の奴らが入ってきたら、あたしの店も壊されちゃうわ」
「煙草がないと、元気が出なくて次はやられちゃうかも」
ぷっと膨れたリウの顔を見て、思妍は楽しそうな笑い声を漏らした。
「しょうがないわね、あたしたちを守ってくれる掃除屋さんの働きに免じて一箱だけ」
「あーあー、ありがたくいただくよ、どうも」
貰った煙草を上着の中にしまい、隣で苦笑するディエスを小突いてから、リウは再び歩き出した。
「で、どうだ。神保町チャイナタウンは?」
「活気がある」
「そういう上っ面の話が聞きたいんじゃない。あんた、なにか目的があってきたんだろ、その話を聞いてる」
「ああ、実を言えば――」
ディエスは、先ほど思妍に見せたのと同じウィンクを、今度はリウに向けて見せた。
「実を言えば、目的は既に達した」
「なに?」
思わず足を止めたリウの肩に、ぽんと手を置く。
「俺の目的は二つ。一つは単にニュメロ研究所の外へ出たかった」
「もう一つは」
「今、俺の目の前にいる」
しばしぼんやりとディエスを見ていたリウは、グレーの瞳に映る自分の姿に、ようやく気付いたのだった。
◆◇◆◇◆
ニュメロ研究所では、生体工学の研究が行われている。
人体に接続する強化パーツ。
汚染に耐えうる臓器。
人間を超えた人間に近づくための研究だ。
「その研究の中でも最も成果をあげているのが、強化クローン研究だ。ドナーの遺伝子をもとに、遺伝子操作によって作られたクローンたちは、全部で10体――俺は、その10番目のクローン――最後の遺伝子改変クローンだ」
「……ほへー」
ディエスの言葉を聞きながら、リウは焼きまんじゅうをかじっている。
聞いているのかいないのか、あいまいに頷く態度にも、ディエスは嫌な顔をしなかった。
「お前が関わりたくないのはよくわかる」
「わかるぅ? じゃあほっといてほしいんだけど」
「だが、俺にも俺の事情がある」
ディエスは小さく息を吸い、じっとリウの顔を見た。
「10人のクローンたちのうち、俺以外に研究所を生きて出られたのはお前たちだけだった。お前とお前の兄のスーだけ」
ついにはっきりと言及されたリウは、ぐるりと目を回して空を仰いだ。
「オレが研究所生まれだってこと、隠してるとは思わなかったの?」
「だから、人通りがなくなるまで待った」
確かにリウは、徐々に裏通りに向かって歩いてきた。表通りの喧騒は遠く、今は、周囲に人影はない。
「そうしてやったのはオレなんだけど」
「だから俺も話している。お前を連れて研究所に戻ろうと思っていた」
「……嫌だと言ったら?」
睨みつけるリウの殺気が膨れ上がっていく。
ディエスはそれを受け流すような半身の姿勢で、ちらりとジャケットの前身頃を開けた。
一瞬だけだが、のぞいたのは銃把。
「ンなもん持ってたなら、秋葉原の奴らに向ければよかったのに!」
「俺が狙えば殺してしまう。俺はこれ以上人口を減らしたい訳じゃない」
「じゃあオレは」
「だから撃たない」
結局、ディエスはそのままジャケットを着直し、ボタンを閉じてしまった。
「お前を連れて戻るつもりだった。だが、やめた。お前は必要とされている」
ちらりと表通りに目を向ける。
「仕方がない。別の手を考える」
「……なにしに来たんだよ、結局」
リウは構えていた拳をおろして、首を捻った。
確かに、研究所に戻りたいとは思っていない。だが、こんなに簡単に諦められるとそれはそれで拍子抜けである。
六は、兄の四と共に研究所で育った。
兄弟とは言っても、同じ一人の遺伝子をもとに作られたというだけで、一般的な兄弟とは違う。
だが、他人からは人間扱いされない中で、助け合ってきた絆があった。
普通の兄弟以上に。
遺伝子改変の実験体として生まれた二人には、他にも兄弟や姉妹がいた――だが、他には誰一人として生き残れなかった。
一はそもそもまともな形で生まれていない。そう聞いた。
七は、リウたちより前に逃げようとして殺された。
そして――二、三、五は実験中に死んだ。
実験体に対する実験に、人道なんてものはなかった。
そもそも生き物とすら見られていないと感じていた。
リウは生きたかった。だから、唯一残った兄を連れて研究所を出た。
「――結局、研究所を出たスーは生きられなかった。オレは……オレのワガママでスーを殺した。置いて行けば助けられたかもしれないのに」
柵に腰を預けながら、リウは地面を蹴る。
「だから、あんたがなにも喋らずに……オレが助けるチャンスがあるのに、それを言わずに研究所に戻るって言うなら、オレは止めなきゃいけない」
リウの黄金の目が、ディエスを見た。
ディエスは一瞬目を伏せる。
「八と九も死んだ。俺が生まれ、お前たちが出て行った後だ。スーが研究所にいても同じことだっただろう」
「そうか……それで、あんたも生きるために逃げてきた――んじゃないんだっけ? そもそもあんたが十ってことは……なんか順番が逆じゃない? 実験体は数字の順に作られたはずだけど」
「順番だけで言うならお前が兄で間違いない」
「は……じゃあオレより年下? その落ち着きとか大人っぽい態度とかは?」
「お前が子どもっぽ過ぎるんだ。年の話をするなら――お前たちの研究所脱走はもう四十年も前の話だと聞いている」
「はぁ!? 還暦過ぎた男はもうちょっと落ち着いてるもんだって!? 言うに事欠いてそれは酷いでしょ!」
「言ってない。順番の話に脱線したのはお前だ。俺は――子どもを作れと言われた。俺の遺伝子が、元の遺伝子と混ざったとき、どんな子が生まれるか見たいと。俺は拒否した。それで、お前たちを探すことにした」
唐突な言葉に、リウは一瞬沈黙した。
目の前の、突然できた弟が、なにから逃げてきたのかに気づいて。
「オレたちの、改変される前の遺伝子の、持ち主……それって」
「ゼロ、と呼ばれる女だ」
リウが声をあげかけた瞬間、二人は同時に表通りの方へ視線を向けた。
表通りの喧騒が、いつの間にやらひどく耳障りになってきている――まるで、悲鳴のような。
一瞬だけ、互いに視線を交わすとすぐに表通りへと駆けて行った。