2.神保町チャイナタウンで朝食を
「……朝食を食べないか?」
「ふぇ?」
聞きなれない声に、リウはぱちぱちと瞬きを繰り返す。
真上から覗き込んできたのは、これまた見おぼえのない深いグレーの瞳だった。陽光の角度によってアンティークの銀食器のような鈍い光を宿す色は、見ているだけで妙に惹き込まれる。
黒のシャツにカーゴパンツは影のような色みをしているのに、白髪に近いプラチナブロンドは光そのもので、端正な顔立ちに華やかさを添えている。
そんな壮年の男が一人、寝台の脇に立って、リウの頭の横に腕を突いていた。
年の頃は30代の半ばも過ぎた位だろうか。リウよりも一回りは上のように思え――余計に、この男に見覚えがないことがはっきりした。
リウは黄金の瞳を一瞬細め、勢いよく起き上がる。
「――あんた誰だ!? なんでオレの部屋に!」
「お前が連れてきた」
回答は単純で、そして明快。
それでもリウがなにも思い出せない様子を見かねたのか、男は親指で背後を指した。
「勝手に洗面台を借りた。見せる相手もないが、髭を当たって髪を整えれば不審に思われることも減る」
「不審って、この部屋に今いるあんたがまさに不審者――あっ」
昨夜のことを思い出した。
自分の身体よりも一回り大きい男――ディエスを背負い、ねぐらまでなんとか辿り着いた。だが、そこまでの疲労困憊が過ぎた。
なにもかも面倒になったリウは、ディエスごと身体を寝台の上に横たえると、なにも考えずそのまま眠り込んでしまったのだった。
「あの……つまりあんた、オレが昨日拾った――」
「ディエスだ。昨夜は助かった」
表情変化の少ない顔にうっすらと笑みが宿る。
低い声に簡素な言葉も、どうやら彼なりに感謝の思いを込めているようには感じられた。
リウは、半ば起こしかけた身体を、今度こそしっかりと起こして寝台にあぐらをかく。
「ま、いいさ。行きあったのもなにかの縁だったんじゃない? 持ちつ持たれつ、情けは人の為ならずってね。お互い、助け合いが肝心って訳よ」
「昨日は、俺を助けるつもりじゃないと言っていたが」
「聞いてたのか? 意識があったなら自分で歩けよ。重てぇんだ、あんた……あっ、あれか。秋葉原の奴らと同じで強化パーツつけてんのか?」
「いや、特に。単にお前が非力なだけだろう」
「――うるせぇ! これから成長するんだよ。それよりなんだ起き抜けに」
「食材を見つけたから、ついでに朝食を作った」
「はぁ? オレより一回りも年上のおっさんが?」
リウの驚きに、ディエスはどこか悪戯な笑みで返した。
「自分にできないことは他人にもできないと思い込むのは良くないな」
「説教かよ」
「いいや、交渉だ」
「はあ? オレになんの」
「お前の足りないものを提供しよう。その代わり俺に今足りないものが欲しい」
「あんたに足りないものって……」
不審げなリウの目の前で、ディエスはゆっくりと視線を室内に巡らせる。
その眼差しで、リウには彼の思惑がわかった。
「ここに住もうって!? ダメダメ、この部屋は狭いんだよ、わかるだろ。それに、掃除屋の部屋によそ者が住むなんて許される訳ないだろ」
「じゃあなぜ俺を引き入れた?」
「目の前で知らねぇ奴が倒れてたら、とりあえず助けるくらいはするだろうが」
「では、目の前で困ってる相手も助けてもらいたいね」
「んなこと言ったって……!」
「ついでに掃除もしておいた。多少は生活しやすくなる」
「は? 掃除?」
言われて寝台を飛び出せば、確かになにやら部屋が綺麗になっている。
脱ぎっぱなしだった長袍やら功夫裤は洗濯まで終わって表に干され、使いっぱなしの床のゴミはまとめて袋に詰められている。
見れば、流しの中にため込まれていた食器もすべて綺麗に磨き上げられていた。
「お、や……や、やるじゃん。でもな、別にオレは家政婦に困ってる訳でもないし……いや、掃除屋って呼ばれるからって別に掃除が得意な訳じゃない。そうだろ?」
「お前がやってないだけだ、変な言い訳をしなくていいい。で、どうする、朝食は。冷える前に食べるのを勧めるが」
「……そりゃ、あんた……でもさ」
リウはじっとディエスの顔を睨みつけていたが、台所から漂ってくる良い香りに誘われて、ついに髪を掻きむしって答えた。
「ああ! わかった、わかったよ! とりあえずここに住めばいいだろ、引き換えに家事周りしてくれるってんなら!」
「恩に着る」
「着らなくていいけど早めに出て行ってくれよ。あんた、なにが目的でこんなとこにいるんだ。秋葉原の奴らに追われてまで」
リウはじろりと睨みつける。
その金色に射抜かれたディエスは、一拍おいて唇を緩めた。
「とりあえず朝食を。俺としても、折角作ったものは旨いうちに食べてもらいたい」
◆◇◆◇◆
ディエスの作った朝食は、控えめに言って絶品だった。
ジャンクなものから丁寧な料理まで、旨いものの多いこの神保町でも類を見ないくらいのレベルだ。
最初は半信半疑だったリウも、食べ始めたら手が止まらなかった。
チョップスティックで切れるほどのふわふわのパンケーキにメープルシロップをたっぷり。ミルクとバター、オニオン、チーズにベーコンと具沢山のオムレツ。どこで手に入れたかフレッシュなオレンジのジュース。
ガツガツと食い尽くして、皿の上が綺麗になったところで、リウはようやく我に返った。
「……えと、それで話を戻すんだけど」
「1時間ばかり?」
「う、うるせぇな! こんな旨いもん久々に食ったんだよ。この辺りじゃ朝飯は、屋台の揚げパンと粥って決まってんの」
「それはそれで悪くない。少しトッピングを足してやれば栄養価も満足度も上がりそうだ。メバル、ササミ、貝柱、エビ、ネギ、三葉、生姜、干し椎茸――」
「旨そう! 足し算はいいよな、朝からガッツリ具材を盛ってさぁ」
「では、明日はそれで。足りない具材を買い出しに行かねばな。市はどこだ?」
「太好了!」
リウの頭の中で、鶏肉、フカヒレ、ザーサイに豚肉が黄金のドラゴンのように並んで舞龍を始める。
正直に言えば、リウは旨い食事が好きだ。テイクアウトボックスにぎっしり詰まった油っぽい炒飯も手軽だし好きだが、旨ければ旨い方がいいに決まってる。
もともと出し惜しみする方でもないので、嬉々として財布を掴むとディエスの後を追った。
――結局、ディエスの身の上について追及し損ねたことに気づいたのは、市に着いてからだった。