1.世にも憂鬱なハムレットたち
真夜中。誰もが寝静まる黒い夜更け。
細い月は、ピンで留められたような不安定さで吊り下げられていた。
積み上げられた瓦礫の山は音を吸収する。
そうでなくとも、危険な夜にこの東京を出歩くような愚か者はいない。
いや、以前はいたのだろう――そいつらがまとめて命を失った結果、今はいなくなったというだけだ。
百年前の終末事変で、かつて東京が誇ったありとあらゆる文明は破壊され、人口は最盛期の四分の一になった。
そんな破壊されつくした街の夜、真っ暗な静寂の中――いや、耳をすませば、遠くで鈍い殴打音が響いている。
リウは息を潜めたまま、静かに音の方へと歩みよった。
御茶ノ水から神保町へと向かう道の途上、人気のない寂れた廃墟の隅だ。
闇の中、男たちが数人、足元の何かに向け暴力を振るっている。
「クソ、こいつ――こんな夜中に出張らせやがって」
「――ぐッ……」
忌々しげな男の罵倒の後に、くぐもった唸り声。
どう聞いても荒事の匂いのする現場に、割り入る者はない。
――リウを除けば。
「どーしたの、にーさん方さぁ。なにか面倒ごとぉ?」
呑気な声を、男たちの背中に投げ込む。
リウの気配に気づいていなかったのだろう。慌てた様子で男たちが振り向いた。
近づけば、立ち上がっている男は三人。彼らの足元にゴミくずのように転がっている男が一人。
彼らの視線を一身に受けたリウは、怯えることもなくへらりと笑って見せた。
「困るんだよね、この辺りでそういうの。神保町にもめ事は持ち込まない。不干渉。そういう約束だったはずだよ、秋葉原のお兄さんたち」
「……なぜ、おれたちが秋葉原の者だとわかった」
リウはにこりと笑いながら、はためく上着の袖から腕を抜く。
黒い長袍姿になったところで、カンフーシューズの足をゆるりと踏み出した。
滑らかに突き出した拳が、男たちに向かう。
「決まってるじゃん。あんたらから、ドブくせぇサイバー臭がするからだ――よッ」
蹴り出した前足が、瞬きの間にリウの身体を最初の男の正面に運んだ。
一人目の男は構える隙もないまま、顎を掌底でしたたか打ち付けられ、ひっくり返る。
二人目は驚きながらも強化された腕を上げ、リウの踵をなんとか受け止めた。硬い金属の感触を靴底で感じて、リウは思わず舌打ちを鳴らす。
だが、そこまでだ。止められた踵に重心をかけ宙へと身体を舞わせたリウは、遥か頭上から脳天へ踵落とし。そのまま踏み越えるように三人目へと飛び掛かる。
三人目は、どうやらなにかの武道の心得があったらしい。いや、武道データをインストールしているのか。
リウの初撃を避けた後、体勢を低くし足払いを狙ってきた。重い鋼鉄に踵を引かれたリウは、逆に勢いを殺さず真横に転がる。直後、つい先ほどまでリウの頭があった場所を、三人目の拳が地盤ごと貫いた。
波打つ地面を横目に、リウは転がりながら立ち上がり、三人目に向き直る。
「サイバードブ野郎の癖になかなかやるじゃん。後付けパーツで強くなっただけの泥縄ネズミが」
「てめぇ、その体捌き……神保町の六か。てめぇの仕事はシマを守ることだろうが。ここは御茶ノ水、おれたち秋葉原の領土だぞ」
「あら、残念」
構えていた拳をピッと解いて、リウは三人目の背後を指す。
男たちにいいように蹴とばされ、痛めつけられていた最後の男が、いつの間にかじりじりと這い近づいてきていた。
その指先が御茶ノ水と神保町の間に敷かれた境界石を越えているのを、リウの白い指がまっすぐに示している。
「こっちにはみ出したモンは、こっちでお片付けすることになっててね。わかったら、さっさとおうちへ帰りな。今ならそいつら連れて帰っていいからよ」
「はみ出してるっつうなら、引き上げる。てめぇは無関係だ。関わってくんな」
「……ニュメロ研究所の野郎共がこの神保町に踏み込んできた時点で、無関係なんざあり得ねぇんだよ」
明るかったリウの声が、唐突に低くなる。その変化に気圧された男の懐へ、リウはあっと言う間に滑り込んだ。
交わる拳を互いの腕が振り払い、抑え込む。鋼鉄強化の拳は重いが、受け流せばリウの方が速い。
男の拳を絡め取ったところで、がら空きの生身の顔、そして腹に連撃で拳をたたき込んだ。
血と泡を吹きだして倒れた男の後頭部を踏みにじり、リウはようやく息をついた。
「はー、やれやれ。掃除屋は夜も寝られねぇなんて、ひでぇ仕事だよ。ねぇ、にーさん?」
リウは地面を転がりまわった埃を叩き落としてから、境界石の傍に倒れ伏していた男に無警戒に近づいた。
男は、かろうじて頭を上げ血と泥にまみれた髭面をリウへと向けていたが、リウが近づくうち、じわじわとその瞼は閉じていく。
「おいおいおい! ちょっと待てよ、にーさん! こんなとこで倒れられちゃ邪魔だぜ。オレはただ難癖つけてニュメロのやつらをぶん殴りたかっただけで、あんたを助けるつもりなんかこれっぽっちも――」
言いかけるうちにも、男の顔は地面に近づいていく。
「ああ、もう! わかったよ、せめてあんた誰だ。住所、所属、名前を教えろ!」
「……ディエス」
「おい、それ名前だけだろ、絶対!」
言い残して気を失った男を前に、リウはがりがりと枯草色の髪を掻きむしったのだった。
◆◇◆◇◆
今は亡き国同士が争い、そしてすべての国が同時に没した終末事変。
その全容を知る者は既になく、それを調査する余裕すら残された者にはなかった。
わかっていることは、全世界の七割近い土地が一斉に爆風にさらされ、生き残った者はごく少数となったということだけだ。
東京は徹底的にその全土が瓦礫となった。
それでも多くの人間が生き残ることができたのは、事前に対策された対爆避難所のおかげだ。既にそれらが、誰によって提唱され、どのような手順で建設されたのかすら、焼失しているが。
更には、国土が汚染され、動植物はそれ以前の生態系を喪っている。
既に誰にも正しいことはわからない。
だが、たぶん、人類も同様だ。
寿命は長くて四十年ほど。短ければ、十年も生きられない。
年老いる前に血を吐き、肌が黒ずみ目は光を失って死んでいく。
いずれにせよ、残った人間たちは生きるしかない。
なにもかも失われた東京で、人間は再び社会を作った。
残った資源は少なすぎて、以前よりもずっと小さな社会にならざるを得なかったが。
土地に根付いた組織の乱立する街――それが、リウたちの住む今の、分断された東京の姿だ。
神保町チャイナタウン、秋葉原サイバーシティ。
限られた資源を守るため、人々は武装する。
分断された町の間で、戦争が生まれる。
ならば、争いに向かう者が必要になる。
リウもまたその一人。町を荒らす者を片付け、外から入り込もうとするよそ者を追い出す、掃除屋と呼ばれる者だった。