最後の一歩が踏み出せなくて
王家はヴァンゾルク家の婚姻に全面協力を約束している。
それなのにクリスティナの婚約者がなかなか決まらなかったのは、彼女の可憐な容姿と、彼女の父であるヴァンゾルク辺境伯、ラスムスの逸話に起因する。
とても有名な逸話だ。クリスティナの母デシレアは、外面だけいい両親から搾取子として虐げられて育ち、ヴァンゾルク家の財をかすめ取るように言いつけられてラスムスに嫁いだ。ふたりは出会うなり互いに惹かれ合って、愛情を抱く。デシレアはなんとか時間を稼ぎ、両親から届く催促の声に抗った。しかし自分は彼に相応しくないと深く苦悩し、離縁を申し出たことから、はかりごとがラスムスの知るところとなる。
ラスムスは激高した。
悪鬼羅刹の如き形相でラスムスが単騎、憤怒の勢いで辺境の地を飛び出したのだ。
「――それで、お父様が暴の力でお母様の実家を叩き潰してしまって」
「暴力だ!! 間に『の』を入れたからって婉曲表現になると思うなよ!?」
ルーカスはたまらず叫んだ。クリスティナは「遠回しな物言いが不得手で」と笑っている。
その騒動で、死人や怪我人はひとりも出なかった。ただ、貴族のタウンハウスが一軒廃墟と化した。言葉通り叩き潰したのだ。『デシレアが家に苛まれているのなら、せめて形だけでも壊してやろうと思った』というのがラスムスの弁だ。
その後色々あってデシレアの実家は取り潰されたのだが、その影響もあって、クリスティナの婿探しは難航した。
親世代は皆、当時の騒動を鮮明に覚えているのだ。『もし何かあったらあの舅が駆けつけて家を……』と震え、婿を探す王家からそっと目をそらす。第二王子が候補から外れたことも、また恐怖を煽った。
「わたくしの見た目が頼りないのもよくなかったのです。お父様のようにたくましければ、安心していただけたでしょうに」
「あんしん……」
実際に会ったことはないが、辺境伯は巌のような大男と聞く。腕は丸太より太いのだとか。ルーカスはぶるりと身体を震わせた。
安心するのだろうか。いやまあ確かに、『婿となったら戦場に立たされるに違いない』と噂されることはなかったかもしれない。だが安心するのだろうか。吹き荒れる暴力が倍化したと恐れられるだけではないだろうか。……どのみち、クリスティナは見た目を裏切る剛の者なのだが。ルーカスは眉間に手をあてて苦悩する。
「いっそ自分で探しておいで、と送り出してもらったのです。お前が選ぶ者ならそれでいいと全権を任されております」
「ああ……そう繋がるのか」
ルーカスはクリスティナに、「僕を婿だと言って連れて行って、辺境伯は反対なさらないのか」と質問していた。なぜ辺境伯の暴……武勇伝を聞かされるのかと首をかしげていたが、やっと話が見えた。
「もしもお母様のような問題を抱えていたら、初手で叩いてくるのが一番早いとも」
「やめてくれ!! 言っておくが僕の家は家族仲がいいぞ! 大切にしてもらっているからな!!」
ルーカスはつい立ち上がって悲鳴じみた叫びを上げる。クリスティナは瞳を輝かせて、深く頷いた。
「ええ、わかっております。お義父様が婿殿を案じ流される涙をみて、わたくしは胸が熱くなったのです。なんてお優しい、家族思いのお義父様なのだろうと」
「そ……そうか」
クリスティナに父を褒められたことを面映ゆく思いながら、ルーカスは勢いをなくしてそっと席につく。クリスティナは「お義父様にも認めていただけるようがんばります」と胸の前で拳を握っている。
父の呼び方に多少の違和感を覚えながら、ルーカスは視線をうろつかせ、下を向き、小さく呟いた。
「…………その、君は嫌じゃないのか」
「なにがでしょう?」
「僕は、すぐに思ったまま口に出してしまう。怒鳴ることも多い」
自認している欠点だ。いつもなら、もうとっくに気分を害しているだろう。クリスティナと話していると特に、普段よりもずっと余計な言葉が口をついて出る。ルーカスにはその自覚があった。
うつむくルーカスに、クリスティナは小首をかしげてふんわりと微笑む。
「わたくしは簡潔な言葉に親しんでおります。遠回しな物言いも不得手で、よく理解できないことが多いのです」
お恥ずかしい限りですが、とクリスティナは赤く染まった頬に手をあてる。
「婿殿の言葉はわかりやすくて、わたくしはとてもうれしく思っています」
ルーカスは口をもごつかせて「そうか」と返事をする。ルーカスの頬も、真っ赤に染まっていた。
§
それから、何度も歓談を重ねた。
クリスティナはルーカスに安心してもらえるように、自領のよいところをたくさん話して聞かせた。興味深く面白い話もあれば、戦慄する話もあって、ルーカスはたくさん叫び声を上げた。
ルーカスにももう分かっている。自分の物言いを好意的に受け止めてくれて、笑ってくれる。これを逃せば二度とない良縁なのだ、と。
それでも、ルーカスはまだ決心ができずにいる。あと一歩、あと一歩の踏ん切りがつかない。――もうすぐ社交シーズンが終わるのに。
帰り道、騎士に先導されながらルーカスは手の中の焼き菓子を眺めた。クリスティナが瞳を輝かせながら、「わたくしが焼いたのです」と言ってくれたクッキーだ。
可愛らしい包み紙に包まれた、大きな一枚のクッキー。「本当は兵糧丸を作ろうと思ったのですが、止められて……」と頬を染めて笑うクリスティナに、ルーカスは止めてもらえて本当によかったとしみじみ考えた。兵糧丸て。
――考え事をしながら歩いていたからだろう。ルーカスを先導する騎士はいつの間にか道をそれ、ルーカスは気付かぬうちに人気のない庭の一角に連れ出されていた。
「なあ、お前、婿入りなんてやめておけよ」
騎士が立ち止まり、ルーカスを振り返って重々しく呟く。
「これだけ時間をかけてまとまらないんだ。自分でも無理だと思ってるんだろう? これ以上無駄な時間を使わせるな。相手は、ヴァンゾルク家なんだぞ」
図星を突かれ、ルーカスは言葉を失って騎士を見上げる。
「大体、どうしてお前みたいな弱々しいやつなんだ。いくらなんでも他にいるだろう? お相手が……お相手がアラン殿下なら納得できたのにッ!」
「かわいそうなこと言うなよ!!」
ルーカスは反射的に叫んだ。騎士は、ルーカスに叫ばれたことにも、尊敬する第二王子をよりにもよって『かわいそう』などと侮辱されたことにも腹を立て、カッと頭に血を上らせる。
「お前みたいななよっちいやつが辺境伯領に行こうとするのが間違ってるんだよ! 俺は気に食わないんだ! お前が次期辺境伯の隣に立つのも、ヴァンゾルクの次期辺境伯が、クッキーなんか焼くことも……ッ!!」
騎士は勢いよく手を振り、ルーカスの手を払い叩く。ルーカスの手からクッキーの包みが弾かれて、地に落ちる。形が崩れ、クッキーが割れてしまったのだとひと目でわかった。
「あ……」
ルーカスはクッキーを眺めて呆然と呟く。騎士も、『しまった』と言いたげな顔をして口を開きかける。
「何をしているのです!」
そこに凛とした少女の声が響いた。使用人から様子がおかしいと報告を受けて、クリスティナが駆けつけたのだ。ルーカスはのろりとクッキーを拾い、途方に暮れてクリスティナを見つめる。
「ごめん、その、落としてしまって」
「そんなことより、婿殿に痛いところはありませんか? 辛い言葉を投げかけられはしませんでしたか?」
クリスティナはルーカスに駆け寄り、身を案じる。ルーカスは唇を噛んで頭を振った。
「違うんだ。僕が悪いんだ。本当にごめん、せっかく焼いてくれたクッキーなのに」
決断もせずずるずると日を重ねて、その上また余計な口を叩いて人を怒らせたとルーカスはうつむく。もっと冷静に話し合えたはずだと思った。そうすればクッキーが割れることもなかった。ルーカスに好意的に接してくれる女性から、初めてもらったクッキーだったのに。ルーカスは「ごめん」と繰り返す。台無しにしたのは、自分だと思った。
クッキーを落として割ったとしきりに謝るルーカスに、クリスティナは優しく微笑みかけた。
「割れたクッキーは元には戻らず、とても残念なことですが、婿殿が気になさる必要はないのです」
クリスティナはきょろきょろと辺りを見回して、小ぶりな石を拾い握りしめる。
「ええと……このように」
クリスティナの拳から、バグン、とくぐもった爆発音が鳴る。爆発音だ。クリスティナの指の間から砂がこぼれた。石は。なんで。ルーカスは気落ちしていたことを忘れ目を剥いた。
「壊したら、壊すことができるのです」
さらさらと手から砂を流しながら、おごそかにそう告げるクリスティナを前に、ラスムスの逸話と、『初手で叩くのが一番早い』という発言を思い出す。ルーカスは恐る恐る隣の様子をうかがった。騎士は真っ青になって、腰を抜かし地に膝をついた。
いや、でも待ってほしい、とルーカスは誰にともなく願う。確かにクリスティナはヴァンゾルクだが、彼女はルーカスの物言いに怒らない、とても気の優しい女性だ。婉曲的に騎士を脅すようなことをするだろうか。ヴァンゾルクはヴァンゾルクなのだが。ルーカスは彼女の真意をくみ取るため、懸命に思考を巡らせる。
「……まさか、形あるものはいつか壊れると言いたかったのか」
「ああ! そう、たぶんそれです!」
「何もかもが違うわ!!!!!!」
ルーカスは全力で叫んだ。
「この状況の何もかもが違う!! だってこいつ『お前もこうして握りつぶしてやろうか』って言われた気になって腰抜かしてる!!」
「まあそんな! 違うのです、違うのですよ!」
クリスティナは慌てて弁明を始める。腰を抜かした騎士は、「ヒ、ヒィ……」とか細い悲鳴をもらした。
「王宮の騎士ともあろう者が、どうしてこんな短慮を起こしたのですか?」
騎士の様子が落ち着いて、クリスティナによる聞き取りが始まる。ルーカスは慌てて口を挟んだ。
「こいつ、多分いいやつなんだよ。きっと、僕がまた余計なことを言ったんだ」
「俺は、俺は……」
庇い立てするルーカスに、騎士は目を赤くして胸の内を打ち明ける。
「こんなやつすぐに死んじまうと思って、いくらなんでも弱々しすぎると思って。辺境伯領にはあの方々がいると、国を守ってくださると安心して、誇りたくて……」
「あんしん……」
申し訳ありません、と涙を落とす騎士を眺めて、ルーカスは想像してみた。己がクリスティナの隣に立ち、領主夫妻だ、と辺境軍の先頭に立つ未来を。
(頼りないにもほどがある…………ッ!)
ルーカスはぐっと目をつぶって空を仰ぐ。魔物の猛攻を防いでくれると思えない。いや、片方は見た目に反して猛者猛者の猛者なのだが。
「……わたくしに威厳が足らぬばかりに、心配をかけましたね」
「いいえ、俺が間違っていたのです……」
騎士ははらはらと涙をこぼしながらうなだれる。外見にとらわれる自分が愚かだったと深く理解したのだろう。
「大丈夫ですよ。わたくしは、実はとっても強いのです! それに婿殿も大丈夫です」
クリスティナは胸を張って、高らかに宣言する。
「婿殿の前に魔物など一匹たりとも通しません! このわたくしが、守るのですから!」
空に響き渡る可憐な声に、その猛々しさに、ルーカスの胸がきゅんとした。
――きゅんと、してしまった。