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同じ頃。
城のベッドで横になっていた聖女エルミナは、ある直感で目を覚ました。
ちょうど良く、侍女のレイサがドアをノックして入ってくる。
「失礼します。エルミナ様、おはようございます。体調はいかがですか?」
病に臥せっているエルミナに、レイサは穏やかに尋ねる。
「カーテンをお開けしてもよろしいでしょうか?今日も良い天気ですよー」
「……ついに現れたわ……」
「え?」
エルミナの呟きが聞き取れず、レイサはカーテンに手をかけたまま振り返る。
「エルミナ様、どうされましたか?」
「……陛下は、もう起きていらっしゃるかしら?」
「えぇ……ただいま、庭園を散策しておられます」
国王であり夫のアルカドル・フェアリンドは、朝食前に庭園を散策するのが日課だ。
エルミナも、病気になる前は一緒に歩き、花を愛でていた。
エルミナが出歩けなくなってからは、その日綺麗に咲いた花を摘み、朝食の席で花瓶に生けてくれていた。
「車椅子を、用意してくれるかしら?大事な話があるの」
レイサはベッドの横に車椅子をつけ、エルミナをゆっくりベッドから起き上がらせる。
車椅子に移動したエルミナは、レイサに押されながらアルカドルの元へ向かった。
エルミナが庭園に着くと、バラの花をゆったりと眺めるアルカドルの背中があった。
エルミナに気がついた執事が「エルミナ様」と声をかける。
その声にアルカドルも振り返り、エルミナを見た。
「エルミナ、おはよう。体調は大丈夫なのか?」
「お気遣いいただき、ありがとうございます。今日は調子が良いですわ」
「そうか、それは良かった。──それで、何かあったのか?」
「こんな朝早くに、申し訳ございません。大事な話がございますので」
「『大事な話』?」
「次の『聖女』が、現れました」
アルカドルの表情が固まる。
一緒にいた執事、メイドも顔を互いに顔を見合わせた。
「本当か?」
「はい。しかし、どこにいるかまではさすがに……」
「良い。いずれは来てもらわなければならない。……酷ではあるが、探し出すさ」
アルカドルの申し訳なさそうな表情に、エルミナは目を見開いた。
『聖女の証が出れば、きっと自ら名乗り出るだろう!』
『お城で暮らせるなんて、憧れるわよねー』
50年前、畑仕事の休憩中に領民が言っていた台詞だ。
当時16歳のエルミナは、地方貴族の娘だった。
しかし、裕福というわけではなく、領民と野菜を作ったり、子供達と遊んだり、質素ながらも楽しく暮らしていた。
『聖女』になれば、城で暮らせる。
毎日きらびやかなドレスに身を包み、一流のシェフが作る料理を食べられる。
王族や貴族に見初められ、結婚した者もいる。
毎日、城の中心にある教会で祈りを捧げなければならないが、やることはそれだけだ。
(私は嫌だけど)
エルミナは他人事のように考えながら、領民の淹れてくれたお茶を口にする。
聖女の証である痣が出たのは、その数日後だ。
「エルミナ様。左胸の所、赤くなってませんか?」
「え?」
トマトを収穫していた時、一緒にいた少年にそう言われた。
「あ……あんた!一体どこ見てるの!」
「エルミナ様がお綺麗なのはわかるけどな……」
少年がエルミナの胸を指摘した事に、母親は焦り、父親はやんわりとたしなめた。
少年は『わけが分からない』という表情だ。
「申し訳ございません!エルミナ様!」
「いいのよ。どこかに、ぶつけた覚えはないんだけど……ちょっと、鏡で見てくるわね」
「どうぞどうぞ!」
母親は『首の皮一枚繋がった』と言わんばかりに、慇懃になっている。
少年達の家に向かって歩きだすと、後ろで少年が小言を言われているのが聞こえてきた。
エルミナは首にかけたタオルを取り、手洗い場で自分の左胸を確認する。
「……なに……これ……」
天使の片翼のような、真紅の痣が浮き出ていた。
震える手で痣に触れる。
「『聖女』……?私が……?」
エルミナは一気に青ざめる。
さっきは首にタオルをかけていたから、痣が隠れて『左胸が赤くなっている』としか認識されなかった。
しかし、一度認識してしまったのだから、皆多少なりともこの痣を気にし、もしかしたら『聖女の証』だと気付く者もいるだろう。
『聖女になった』と知られてしまえば、瞬く間に噂が広がり、領民全員から『見送り』という形で王都に追放される未来が想像できた。
(そんなの嫌!私は、ここで暮らしたいの!)
仕事を中途半端にする事は申し訳なく思うが、誰かに気付かれる前に、今日は引き上げる事にした。
エルミナは再びタオルを首にかけ、畑に戻る。
キュウリを収穫していた母親は、畑の手前まで来たエルミナに気付き、心配そうに声をかけた。
「──エルミナ様!左胸、大丈夫でしたか?」
「大丈夫だと思うけど……念のため、今日はもう帰るわね。中途半端にしちゃってごめんなさい」
エルミナは、左襟を押されながら頭を下げる。
「いいんですよ!お大事になさってください!」
「ありがとう、また来るわね」
何も聞かれなくてよかった、とエルミナ内心安堵し、玄関脇の棚に置いていた鞄を手にして屋敷に帰った。
玄関のドアを押すと、メイドのローナが階段の手すりを拭いていた。
「お嬢様、おかえりなさいませ。今日は早いですね」
「ちょっとね……シャワーを借りるわ」
さすがに、汗だくのまま領主である父ブライト・リーゼに会うのは気が引けた。
「お待ちください。今すぐ、湯浴みの用意を──」
「大丈夫よ。汗を流すだけたがら」
この痣を、不用意に誰かに見られたくはないのだ。
例え、身内同然のメイドであっても。
「着替えだけ、置いといてもらえれば助かるわ」
「……かしこまりました」
ローナは、いささか不満そうだが丁寧にお辞儀をした。
「……お父様は、執務室にいらっしゃるかしら?」
「えぇ、いらっしゃいますよ」
「……わかったわ。話があるの」
エルミナはシャワーを済ませ、質素なドレスを着てブライトの元へ向かった。
ドレスの左胸を、ぎゅっと握りしめる。
(たった一人の娘なんだもの。『城に行きたくない』って駄々をこねれば、渋い顔されるだろうけど了承してくれるかもしれない)
駄々をこねるのは、これっきりだ。
そんな甘い考えで、執務室のドアをノックした。
「失礼します」
「エルミナ、どうした?今日は早いな」
書類から顔を上げたブライトが、にこやかに笑いかける。
「はい……あの……」
エルミナは、おずおずと左襟をずらしてブライトに痣を見せた。
ブライトは勢いよく立ち上がる。
「それはっ……!」
「……はい。『聖女の証』かと……」
エルミナは、嫌な予感がした。
ブライトの爛々《らんらん》と輝く目を見たくなくて、顔を背けた。
ブライトは、自分を落ち着かせるように息を吐くと、静かに椅子に座り直した。
「……カイルにも、伝えなくてはな」
エルミナは、『まだ望みはある』と自分に言い聞かせながらも、色濃くなっていく絶望感に泣きそうになっていた。
夕食の席で、母カイルは目の色を変えた。
「すぐに王都に行きなさい!」
ブライトの目も、カイルに同調していた。
エルミナは、唇をわななかせる。
「……私、ここを離れたくはありません」
「何を言っているの!『聖女として国を守る』という役割は、あなたにしか出来ない事なのよ!」
聖女が祈りを捧げる事で、この国を災厄から包みこむように守護する。
それは、選ばれた者にしか出来ない事なのだと、エルミナもわかってはいた。
「エルミナ。私達も寂しいけれど、自分の職務を全うしておいで」
慈悲ではなく欲にまみれた顔で押し出され、城に入った。
あれから、50年経つ。
(どんな子かしらね……新しい聖女は)
にこやかに来てくれると良いのだけれど。
エルミナは、清々しく晴れ渡る秋空を見上げた。