第8話 義憤
「この国じゃ、猿は皆ああなのか」
三軒目の旅亭を目指しながら俺は尋ねた。日が傾いている。いくつかの地区を過ぎて街並みもだいぶ変わってきている。洋風の煉瓦造りの建物から、粗末な木造住宅が目立つようになってきた。街路にしゃがみこんでいる猿たちの姿もちらほら見かける。
「ちゃんと家を構えている猿族もいます。でも彼らの大半はこの近くのスラム街に流れ着くんですよ」
「彼らだって人間と変わらない人格や知識を持ってるんだろ? 野生動物って感じじゃないみたいだけどな」
俺はゴリアテを思い浮かべながら言った。
「猿族は四百年前の猿人戦争で敗北して以来、長いこと人間の奴隷だったんですよ」リリは顔を背けて答えた。
「彼らが市民としての権利を獲得したのは、ここ数十年のことなんです。未だに猿族に対する差別は根強くて、大抵の猿族は職を得ることもままならない状況です。あえて使用人を続けていた者もいるくらい。猿族の大半は皮肉なことに、奴隷から解放されたことで住む家を失いましたから。病院での治療を拒絶されたり、犯罪人がその場で警備隊に殴り殺されたりすることさえある」
「でも、君はちゃんと診てる。俺のことも庇ってくれた」
夕日が徐々に落ちていく。同じ長さの影が伸びる。俺は自分と同じ目線の彼女の顔を盗み見た。「優しいんだな」
「……そんなんじゃありませんよー」
彼女の物憂げな深い群青の瞳は、暮れなずむ夕映えの下ではくすんだ飴色に見えた。
「私、父の顔を知らないんです。いわゆる妾の子で、母は一族を抜けてまで父と一緒になる覚悟だったようですが、子供を身籠るなり突き放されたとか……。かく言う私は母に捨てられて、小さい頃は……、十代で大陸に渡るまでは、けっこうひどい環境で育ったんです。だから命には敏感というか……。苦しんでいる人がいるなら、私にとってヒト族も猿族も関係ないんですよ」
地面に落ちる彼女の影は、どこか頼りなく儚げだった。
三件目の宿屋はあまり協力的でなかったが、チップをちらつかせたら愛想よく答えてくれた。
「後でちゃんと返してくださいねー!」
リリがじっとりとした目でこちらを見る。居候してただ飯を食らい、金まで借りたらもう立派なヒモだ。事件にカタがついたら働こう……。俺は情けない決心をした。
「この宿を調べても甲斐は無いと思うぜ」
気の短そうな主人は言った。脂肪のついた顎が揺れる。
「どうして?」
「事件の犯人は猿族だって噂だ。そしてうちは猿お断り」
「客を選ぶのか?」
俺は顔が見えないように俯きながら問うた。「ずいぶん儲かってるみたいだな」
「うちは上品なお客様も多い。獣が使った部屋なんて評判悪いからな。野生動物はそのへんの樹にでもぶら下がってりゃいいのさ」
亭主は品の無い笑い方をした。ゴリアテの顔が頭によぎる。あいつはほんの半日過ごしただけの仲だけど、こんな言われようは我慢ならない。俺は拳を固めて一歩進み出た。「もう一遍言ってみろよ」
「なんだあ? 兄ちゃんもしかして教会の人間か? いるんだよなぁ、猿の権利がどうのっていうやつ。そういうのが進んだ生き方とでも思ってるみたいだね」
「別にあんたでも良いんだぜ……樹にぶら下がるのは」
俺は静かに声を震わせ、右手をかざしかけた。が、リリがその腕を掴んだ。
「リリ、何で止めるんだ?」
引きずられるようにして宿屋を出ていく。扉を勢いよく閉めて俺は尋ねた。
「ここは監獄のある区域で警備隊の出入りも多いんです! 義憤は結構ですが……、騒ぎを起こせば簡単に捕まっちゃいますよ」
俺はリリの手を荒っぽく振り払う。その拍子にフードがめくれた。
「だからって! ああいう奴にはがつんと言ってやらないと分からないだろ?」
リリは困ったような顔でこちらを見つめた。
「ちょっと意外です。マシラ君って意外と情に熱いタイプなんですね。こういうの、他人事だって見過ごすかと思ってました……。普通の人はそうしますから」
「そんなに薄情じゃないよ。俺だって心は人間だけど、猿の体に宿ってるんだ。猿の知り合いだっている」
それに、もしかしたらこうして不正に抗うことが、俺の生まれ変わった意味かも知れないじゃないか。
「変わったひとですねー、あなた」
リリは眉を下げた。
「誉め言葉と受け取っておくよ」
俺は腕を組む。別に悪いことはしていないはずだ。
「大体警備隊が何だって言うんだ。俺は一度逃げおおせてるんだぜ。隊長でも何でもかかってきやがれってんだ!」
「おう、俺に何か用か?」
ぽんと肩に手がかかる。いぶし銀な渋い声音。どこかで聞いた覚えがある……。俺は凍りついてぎこちなく振り向いた。
「詳しく聞かせてもらおうか! 続きは署の方で」
ゼニラタが夕景をバックににっこりと笑みを浮かべた。痺れるねぇ……。俺の全身を電流が駆け抜けた。




