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【プロト版】猿の転生 ~猿猴が月に愛をなす~  作者: 蓑谷 春泥
第1章 サウンド・オブ・サンダー
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第5話 リリカル・マジカル

 俺を包む腕は人体の、もとい猿体の仕組みでも心得ているのか、蛇のようにするりと絡みついて力を出させなかった。腕力で押さえつけているといよりは、寝技とか関節技の類だ。叫ぼうとしたが、喉輪を軽く絞められ、かすれた風が出るばかりだった。


「大丈夫、深く息を吸って」


 今、絞められてるんですが……。と、喉を掴む手が優しくなった。俺は慌てて息を吸い込む。鼻にツンとくる独特の香りだ。どこか懐かしい、覚えのある……、保健室のような匂い。消毒液か? 


 俺は少し落ち着いて俺を包む腕を見た。白衣だ。元の世界とおよそ同じだとすれば、察するにここは……、


「……病院?」


 嗄れ声で呟く。絡まる腕の力が弱まった。当たりか。さっき見た診療所……、あのあたりまで来ていたらしい。

 間が空く。白衣の主に何か話しだす気配があった。


 力強いノックの音がそれを遮った。俺は目線をノックの方に漂わせる。廊下の方、というより表口の方だろう。白衣の主は立ち上がり、ふんわりと俺の身体を床に落とした。それから俺の唇に指をあてる。


「大人しくしていられますか」


 深海の底のような、ぼやけた藍色の瞳が覗き込む。霞のように白く透き通った長髪が、俺の額に垂れ懸かった。今一つ状況は呑み込めない。しかし危険はなさそうだ。俺はこくこくと肯いた。


 建物の奥から、再び焦ったような催促が響く。彼女は足音も立てずに部屋を出ていった。


「……ゼニラタさんですか。どうなさいました」


 彼女の声が届く。俺は這いつくばったまま聞き耳を立てる。ゼニラタ……、さっきの警備隊長の名前だ。


「ドクター、ご無事で……。それが、殺人犯と思しき猿がこちらの方角に逃げていきましてな……。猿の割に鈍い奴でしたが、路地に逃げ込まれた」

「どうりで騒がしかったわけですねー。それならならそこに……」


 俺は慌てて立ち上がろうと手を付く。が、肘から崩れ落ちる。左肩の関節が外されていた。


「……裏口の辺りに、女性の猿族がいましたよ。もう捕縛されていたようですけど」

「ほう、そうでしたか……」


 ゼニラタの安堵したような声が聞こえる。俺は息をつめて事の成り行きを見守る。


「では、わしは先を急ぐとしましょう。 念のため、鍵をかけておくように。(ゴブリン)の件もありますからな」


 俺は這いずって玄関が見える位置まで移動した。彼女が扉を閉めかけるのが見える。


 と、戸の隙間に警備隊長の革靴が滑り込んだ。「失礼。一つ言い忘れていました」。

 静寂が走る。


「……何ですか?」


 彼女が油断ない気配で尋ねる。


「実は……」


 ゼニラタがゆっくりと口を開く。白衣の彼女は微かに身構えた。


「また検死をお願いしたいと……」


 警備隊長は穏やかに言った。


「今言った事件の被害者です。ご存知の通り、この街でまともな医学知識を持ってる人は、あなたくらいでして」

「お安い御用ですよ」彼女は平静な口調で答えた。

「じゃあ、夜にでも運んできてください」


 隊長は答える代わりに、帽子を持ち上げて会釈した。それから、今度こそドアが閉まった。

「一応言っとくけど、俺は犯人じゃないよ」

 白衣が翻る。こちらの部屋に戻ってきた彼女に訴えた。彼女は俺を見下ろす。陶器のような肌に繊細な顔立ち。若い。俺もまだ二十代の前半だが……、彼女も同年代、多分一つ上くらいだ。


「下から失礼……。誰かさんに肩を外されてね」俺は彼女の涼し気な目元を眺めながら言った。さっきは深い蒼を湛えていた瞳が、太陽光を反射して今は暗い黄色に見えた。「はめるの手伝ってくれるか? ドクター……」

「リリで良いですよー。リリパット=アリエスタです。アリエスタは民族名(ミドル・ネーム)で、苗字じゃありませんよ」彼女は床に這いつくばった俺をじっと見降ろして、少し困った顔をした。「ちょっと名残惜しいですね……。いい眺めなのに」


「ドクター?」

「いえー」


 彼女はぐっと俺の肩に力を込めた。俺は呻いて、右腕を軽く慣らしながら起き上がった。立ち並ぶと背丈は同じくらい。わりに高い方だ。


「ドクター・リリ。信じてもらえるか分からないけど、濡れ衣なんだ。俺は酒場の亭主なんて殺しちゃいない。この街にも来たばかりで、何が何だか分からないまま巻き込まれたんだ」

「ええ、信じますよー」


 ドクターはあっけらかんと答えた。「えっ」俺は拍子抜けして聞き返した。


「かなりまごついてましたからねー。最初に見た時からピンと来てました。群れからはぐれた迷子だって」

「迷子って歳でもないが」俺はきまり悪く頭を掻く。「うまく言えないけど、遠い世界から来たんだ。直近の記憶も曖昧で……。別の世界から生まれ変わったんじゃないかと考えてるんだが」


 ドクターは黙って聞いていたが、無言で右手を伸ばすと、俺の頭をそっと撫でた。


「な、なんだよ、急に」


 俺はどぎまぎして言う。


「頭を調べてました。悪い打ち方でもしたのかと思って」

「触診かよ……! 別に錯乱して言ってるわけじゃないから……!」


 俺は慌てて否定する。


「でも、確かにこの辺の人ではなさそうですねー。言葉は通じてますけど」

「そうなんだよ、全然この世界のことは分からなくてな。住むところも無いんだ。つい最近知り合った仲間に案内してもらってたんだが、はぐれちゃってな」


 俺はゴリアテを思い浮かべる。あいつは無事に逃げおおせたんだろうか? 警備隊とやらもなかなか手強そうだし……。青い顔をして白目をむいた追手を思い出す。まああの怪力なら大丈夫か……。


「そう言えばさっきゼニラタとかいう警備隊の男が尋ねてきてたよな。知り合いなの?」

「仕事柄警備隊とは交流があるんですよ」


 仕事……。検死とか言ってたな。あとは普通に診療か。警備隊なら怪我も多そうだし。


「そう言えばさっき、ゴブリンがどうのって言ってたけど」


 彼らの会話を思い返す。「この世界には魔物みたいなのが居るのか? 醜い小鬼のようなやつが」


「〈緑衣の鬼(グリーン・ゴブリン)〉はいわば通り名ですよー」彼女は簡潔に答える。「お伽話に出てくる架空の、悪戯好きの生き物が由来です」


 グリーン・ゴブリン? グライダーに乗って爆弾でも投げてきそうな名前だ。


「素顔はおろか、実在さえはっきりしていなんです。最近行方不明者が多くて、誰からともなく言い出したんですよ。人攫いの鬼が現れたって」

「じゃあ魔物じゃなくって人間ってわけか。もしくは猿?」

「可能性としては」


 彼女は肯く。


「とにかくこの街も近頃じゃ何かと物騒なんです。ふらふらしてたら危ないですよ?」

「忠告はありがたいが、家探しも終わってなくてね」ゴリアテも探さなくちゃ行けないし、俺は心の中で付け加えた。

「だったら、ここに泊ってくと良いですよ」


 ドクターは気楽な口調で言った。俺は驚いて彼女を見つめた。窓から後光が差している気さえする。


「何か(わけ)ありみたいですしねー。病室が空いてるから、しばらく匿ってあげます」

 リリはにこりと微笑む。天使だ……。白衣の天使だ。俺は跪いた。何て良い子なんだ!

「ベッドを確認してきますね」

「いや、ちょっと待ってくれ」


 俺は咳払いした。「大事な患者のためのベッドを、俺が使うわけにはいかないな……。どうだろう、『別のベッド』を使わせてもらうってのは。俺は『二人部屋』でも一向にかまわないんだが」


 俺はリリをちらちら見ながら目配せする。「はあ、では準備してきましょうか」リリは俺の言葉の裏に気付いたのか静々と部屋を出ていった。


 これが脈アリというやつか?



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