第35話 愛は霧のかなたに
顎が砕け、鬼の体は床の上を転がった。打たれた箇所は回復するだろうが、脳の揺れはすぐには収まらない。俺は肩で息をしながら、リリの傍にしゃがみ込んだ。袖を探ると、赤く錆びついた鎖が出てきた。これなら拘束できるだろう。
「この隙に首を刎ねないなんて、とんだお人好しですね……」
リリが呻く。
「それは違うな。俺は君のことも失いたくない。君のためじゃないさ。これは俺の、ただの我儘だよ」
「世間が許しませんよ」
「彼らは関係ない。重要なのは俺自身がどうしたいかだ」
俺は窓の外に目をやる。電灯が明滅する。再び電力が供給され出したのだ。
「愚にもつかないですね……。でも、それが本当のあなたってことですか」
眼下の土煙が次第に収まっていく。猿の大群が闘いをやめて次々と眠りに落ちている。アテネは装置を上手く作動させたようだ。
「だけど残念です……。時間切れみたい」
リリが呟く。俺は彼女に視線を戻す。『ミシリ』、と不穏な音がした。
激しい倒壊音が反響し、足元の地面が音を立てて崩れ始める。老朽化と鬼の打撃に堪えきれず、展望台の床が限界を迎えたのだ!
俺はとっさに鎖を飛ばして鉄骨に引っ掛け、ぶら下がった。リリの体がコマ送りのように宙に浮かぶ。その影が、小さくなっていく。
「リリ!」俺は反射的に鎖から手を放していた。
自由落下だ。俺は思う。何もしなくていいけど、何もできない。めまいがするほど自由だ。でも、最後まであがきたい。
俺は両腕を体に密着させ、空気抵抗を緩和する。落下速度が増して、リリとの距離がぐんぐん縮まっていく。
「リリ!」俺は手を伸ばした。
「ずいぶん慣れてますねー!」
リリが叫ぶ。「一度落ちてるからな!」俺は叫び返す。
「あの時あの森で、マシラ君が崖から落ちた時!」リリは風の中で声を張る。「追いかけてたのは私です! この世界に堕ちたあなたは迷子で、孤独で、右も左も分からない、そんな風に見えたから!」
「前も言っただろ! それは君の願望だ!」
地面が近づいてくる。リリはもうすぐ目の前にいた。
「君は本当はとても回りくどい人だ。追いかけるのは追いかけられたいから。捕まえるのは、掴まえられたいからだ、そうだろ?」
「それはあなたの願望かも!」
俺は笑う。彼女が手を伸ばす。二つの手が触れる。俺たちはたった一人で生きている。繋がって初めて分かる。誰かと同じになることはできないし、誰も自分になることはできない。でも、どうしようもなく一人きりってことだけは、皆一緒だ。
俺は彼女の手を引き寄せる。だから恐れることはない。共に落ちていけばいい。
「やっと掴まえた」
俺は彼女を抱きしめる。俺たちの体はまっすぐに地面へと吸い込まれていった。
それはまさに吸い込まれるという感じだった。俺は着地の瞬間死を覚悟した。だがいつまでも無慈悲な終わりの音が訪れてくることはなく、代わりに柔らかな感触が全身を包んだ。
いや、正確に言えばそれでも衝撃はそれなりのもので、俺は正直意識が飛ぶかと思ったくらいだった。でもあの高度から落下して豆腐みたいに潰れなかったのだから、やはり柔らかな地面だったというべきだろう。異常なほど衝撃を吸収する地面。誰かが辺り一帯の土を泥みたいに溶かしたのだ。
ナダか。俺は地面に浮かび上がりながら考えた。そうか、追いついたんだな。
「生きてる……」
リリが呟く。全身の打ち身に体をこわばらせながら、俺は答える。「ああ。生きてる」
「これも計算のうちですか」
リリが俺の腕の中で尋ねる。「まさか」俺は頭を振りたかったが、一ミリも動かせなかった。
「俺の仲間がやってくれたことだよ、多分。運が良かっただけ。人生最後は運ってことだな」
「じゃあ、何も考えず飛び降りたんですか。英雄的な死を望んで?」
「名誉のために死ねるかよ」
俺は口を尖らす。「君が落下するのを見て、本能的に追いかけちまったんだよ」
「馬鹿ですねー。マシラ君は。馬鹿で、愚かで、惨めで、おめでたくて、どうしようもなく可哀想」
リリがくすくす笑う。「でも、そこが好き」
「変わった趣味だな、君も」
俺は言い返す。
「私を庇うなんて……、救世主の名が廃りますよ?」
「良いんだよ。誰も神にはなれない」俺は穏やかに言う。「選ばれた人間なんていないんだ」
「私たちは、ただの人間にすぎないってことですか」リリは俺の背中に腕を回す。
「そう、特別でもなんでもない、一匹の猿」折れたあばらを、背面からなぞられる。「痛いな」俺は叫ぶ。リリは微笑む。
「私、人の痛がってるところを見るの、好きです」
リリは俺の目をまっすぐに見据えた。彼女の瞳は夜と朝の境界線上に綺麗なグラデーションを宿していた。
「誰かが、叫んだり、苦しんだり……、痛みを感じているのを見ると、ああ、この人は生きてるんだなーって実感できます。生きて私の傍にいる、って。私の隣で眠る死体は、いつも無反応だったから」
「身に染みてる」俺は涙目で答えた。彼女に触れる内側から、温かな体温が流れてくる。互いの傷が癒えていくのを感じた。
山間から昇る朝の太陽が、薄く残る霧を透かして、俺たちを包み込んだ。「じゃあ、気の済むまで感じてくれよ。生きてるって実感を」俺はリリをかき抱く。その華奢な体を、強く、強く抱きしめた。
「ふふっ」リリは小さく笑う。
「いたいです」




