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【プロト版】猿の転生 ~猿猴が月に愛をなす~  作者: 蓑谷 春泥
第3章 キャッチミー・イフユーキャン/鬼さんこちら
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第35話 愛は霧のかなたに

 顎が砕け、鬼の体は床の上を転がった。打たれた箇所は回復するだろうが、脳の揺れはすぐには収まらない。俺は肩で息をしながら、リリの傍にしゃがみ込んだ。袖を探ると、赤く錆びついた鎖が出てきた。これなら拘束できるだろう。

「この隙に首を刎ねないなんて、とんだお人好しですね……」

 リリが呻く。

「それは違うな。俺は君のことも失いたくない。君のためじゃないさ。これは俺の、ただの我儘だよ」

「世間が許しませんよ」

「彼らは関係ない。重要なのは俺自身がどうしたいかだ」

 俺は窓の外に目をやる。電灯が明滅する。再び電力が供給され出したのだ。

「愚にもつかないですね……。でも、それが本当のあなたってことですか」

 眼下の土煙が次第に収まっていく。猿の大群が闘いをやめて次々と眠りに落ちている。アテネは装置を上手く作動させたようだ。

「だけど残念です……。時間切れみたい」

 リリが呟く。俺は彼女に視線を戻す。『ミシリ』、と不穏な音がした。

 激しい倒壊音が反響し、足元の地面が音を立てて崩れ始める。老朽化と鬼の打撃に堪えきれず、展望台の床が限界を迎えたのだ!

 俺はとっさに鎖を飛ばして鉄骨に引っ掛け、ぶら下がった。リリの体がコマ送りのように宙に浮かぶ。その影が、小さくなっていく。

「リリ!」俺は反射的に鎖から手を放していた。

 自由落下だ。俺は思う。何もしなくていいけど、何もできない。めまいがするほど自由だ。でも、最後まであがきたい。

 俺は両腕を体に密着させ、空気抵抗を緩和する。落下速度が増して、リリとの距離がぐんぐん縮まっていく。

「リリ!」俺は手を伸ばした。

「ずいぶん慣れてますねー!」

 リリが叫ぶ。「一度落ちてるからな!」俺は叫び返す。

「あの時あの森で、マシラ君が崖から落ちた時!」リリは風の中で声を張る。「追いかけてたのは私です! この世界に堕ちたあなたは迷子で、孤独で、右も左も分からない、そんな風に見えたから!」

「前も言っただろ! それは君の願望だ!」

 地面が近づいてくる。リリはもうすぐ目の前にいた。

「君は本当はとても回りくどい人だ。追いかけるのは追いかけられたいから。捕まえるのは、掴まえられたいからだ、そうだろ?」

「それはあなたの願望かも!」

 俺は笑う。彼女が手を伸ばす。二つの手が触れる。俺たちはたった一人で生きている。繋がって初めて分かる。誰かと同じになることはできないし、誰も自分になることはできない。でも、どうしようもなく一人きりってことだけは、皆一緒だ。

 俺は彼女の手を引き寄せる。だから恐れることはない。共に落ちていけばいい。

「やっと掴まえた」

 俺は彼女を抱きしめる。俺たちの体はまっすぐに地面へと吸い込まれていった。


 それはまさに吸い込まれるという感じだった。俺は着地の瞬間死を覚悟した。だがいつまでも無慈悲な終わりの音が訪れてくることはなく、代わりに柔らかな感触が全身を包んだ。

 いや、正確に言えばそれでも衝撃はそれなりのもので、俺は正直意識が飛ぶかと思ったくらいだった。でもあの高度から落下して豆腐みたいに潰れなかったのだから、やはり柔らかな地面だったというべきだろう。異常なほど衝撃を吸収する地面。誰かが辺り一帯の土を泥みたいに溶かしたのだ。

 ナダか。俺は地面に浮かび上がりながら考えた。そうか、追いついたんだな。

「生きてる……」

 リリが呟く。全身の打ち身に体をこわばらせながら、俺は答える。「ああ。生きてる」

「これも計算のうちですか」

 リリが俺の腕の中で尋ねる。「まさか」俺は(かぶり)を振りたかったが、一ミリも動かせなかった。

「俺の仲間がやってくれたことだよ、多分。運が良かっただけ。人生最後は運ってことだな」

「じゃあ、何も考えず飛び降りたんですか。英雄的な死を望んで?」

「名誉のために死ねるかよ」

 俺は口を尖らす。「君が落下するのを見て、本能的に追いかけちまったんだよ」

「馬鹿ですねー。マシラ君は。馬鹿で、愚かで、惨めで、おめでたくて、どうしようもなく可哀想」

 リリがくすくす笑う。「でも、そこが好き」

「変わった趣味だな、君も」

 俺は言い返す。

「私を庇うなんて……、救世主(メシア)の名が(すた)りますよ?」

「良いんだよ。誰も神にはなれない」俺は穏やかに言う。「選ばれた人間なんていないんだ」

「私たちは、ただの人間にすぎないってことですか」リリは俺の背中に腕を回す。

「そう、特別でもなんでもない、一匹の猿」折れたあばらを、背面からなぞられる。「痛いな」俺は叫ぶ。リリは微笑む。

「私、人の痛がってるところを見るの、好きです」

 リリは俺の目をまっすぐに見据えた。彼女の瞳は夜と朝の境界線上に綺麗なグラデーションを宿していた。

「誰かが、叫んだり、苦しんだり……、痛みを感じているのを見ると、ああ、この人は生きてるんだなーって実感できます。生きて私の傍にいる、って。私の隣で眠る死体は、いつも無反応だったから」

「身に染みてる」俺は涙目で答えた。彼女に触れる内側から、温かな体温が流れてくる。互いの傷が癒えていくのを感じた。

 山間から昇る朝の太陽が、薄く残る霧を透かして、俺たちを包み込んだ。「じゃあ、気の済むまで感じてくれよ。生きてるって実感を」俺はリリをかき抱く。その華奢な体を、強く、強く抱きしめた。

「ふふっ」リリは小さく笑う。

「いたいです」


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