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【プロト版】猿の転生 ~猿猴が月に愛をなす~  作者: 蓑谷 春泥
第3章 キャッチミー・イフユーキャン/鬼さんこちら
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第34話 猿猴捉月

 玻璃の砕ける音がした。俺の伸ばした手の先で、麻酔液の小瓶が粉々に煌く。

 リリは瓶を握りつぶした右手をぞんざいに振るって溶液を振り落とすと、ハンカチで手を拭った。掌の傷が塞がっていく。

 鬼は俺の鳩尾をきつく蹴り上げる。俺はむせ返り、うずくまった。

「まだ分からないんですか! あなた一人っ、頑張ってみても! 無駄っ、なんですよ!」

 俺は地面に頭を垂れる。幾度も踏みつけられ、痛覚は擦りきれ、いつしか抵抗する気力すら失われていた。

 もう立ち上がれないと思った。何かを成し遂げられると信じていた。何者かに成れると漠然と期待していた。自分にはやり遂げるべき使命や、目的を与えられていると、そしてそれを全うするだけの力が眠っていると、勝手にそう思い込んで。周りから持ち上げられ、思いあがっていたのだ。でも、そんな幻想は今度こそ完膚なきまでに打ち砕かれた。

 夜空の残滓の中に月が霞む。ぼんやりとした頭にふと浮かんでくる、どこかで聞いた言葉。「猿猴が月に愛を成す」……、よく言ったものだ。水面に映る月を追いかけて溺れた猿の寓話。身の程知らずな愚か者への戒め。今の俺がまさにそうじゃないか。

 この世界に落とされて、貧民窟で必死に生き抜いて、失望されて。努力して力を付けて、危険な目に遭いながら猿族をまとめあげて、警備隊ともうまくやっていこうとした。誰もできないことを成し遂げて、他人を救済して、特別になれると思った。でも、全部無駄だったのだ。意味の無いことだった。救おうとした人に裏切られ、導こうとした猿たちは捕えられ、無関係の警備隊まで巻き込んだ挙句、結果は「やらない方が良かった」。最後の足掻きすら歯牙にもかけられなかったのだ。

 何が使命だ! 何が生れ変わった意味だ! そんなものどこにも無かったのだ。俺はただ心細くて、生きる目的が欲しくて、そんな仰々しい言葉を嘯いていたに過ぎない。

 もう諦めよう。俺は思った、このままずっと耳を塞いでいよう。何も聴きたくない。未来なんて知りたくない……。

「いつまで寝てんのよ! マシラ!」

 見慣れた声が耳を刺した。なんだろう。俺は思う。ひどくうるさい声だ。デリカシーってものが無い。耳をふさいでも通り越してくる。

 足蹴が止んだ。俺は目の焦点を合わせる。

「良いようにやられてんじゃないわよ! 立ちなさい!」

 そこには、見覚えのある赤毛が仁王立ちしていた。

「失敗作がのこのこと……。油を差してあげますよ、アテネさん」

 鬼がアテネに向かってゆらりと近づく。無理だよアテネ。もう立てないんだ。立ち上がったってなにも良い事なんて無いんだ。俺はお前みたいに強くない。諦めて受け入れれば良いんだよ。スペクトラも言ってたじゃないか……。

 俺はアテネを見る。ぐったりしたゼニラタを抱えている。助け出したのか。でも一歩遅かった。今さらそいつを助けたってしょうがないんだ。ほら、お前の腕だって震えてる。そんな重荷放り投げて逃げだせばいいんだ。

「人体実験でいくつも出来損ないの人猿を造りました。細胞の肥大化や意識障害を調整するのが難しくて。アテネさんは割に上手くいった方ですが……、一部の細胞増加を抑制しきれなかった。身体が大きくなりすぎたし、髪の毛もやたらと伸びるでしょ?」

「見当違いの苦労話に付き合う気は無いわ。あんたは最初から薄気味悪かった。持てる者のくせに死体みたいな目をしてるから。弱者を助けるための医者が、何人殺したの?」

 俺は無気力にアテネを眺めた。アテネと目が合う。勝気そうなショッキング・ピンクの瞳に涙をいっぱいに溜めている。そうまでしてなぜ抗う? 高貴な者の責任……、そんなもの投げ出したって誰もお前を見捨てやしない。そんな無意味な枷に自分を縛らなくったって……。

 ああ、そうか。

 俺は唐突に理解した。

 そうか……。俺もこいつと同じだったのか。

「誤解ですよー、私は殺生はしません。生かさず殺さずが好みなので」

 リリが一歩踏み出す。「スペクトラさんの処置も虚勢(ブラフ)ですしね。マシラ君を苦しめるために……」俺は背後から(ゴブリン)に武者ぶりついた。

「操作盤を捜せ! アテネ!」

 俺はみっともなくリリにしがみつきながら叫ぶ。

「あそこにある(はこ)みたいなやつだ! 別のフロアにも置いてある。お前の催眠を拡散できる……、それで外の乱戦を終わらせるんだ!」

「見苦しいですよ! マシラ君!」

 リリが俺を振りほどこうともがく。俺は足をかけ、彼女を掴んだまま床に転がった。

 無様でかまわない! 手を伸ばして何にも届かないなら、せめてこれ以上奪われないために抗うまでだ!

「ゼニラタ! 力を貸してくれ! もう一度塔に電力を送る必要がある!」

「馬鹿な……、もう一度あれを繰り返せと?」

 ゼニラタが蚊の鳴くような声で答える。もう余力は無さそうだ。「それに、わしが猿公に従うと思うか?」

「俺は知ってるぞ」俺はいつかリリの部屋で見た警備隊の資料を思い起こす。「あんたが警備隊長に就任してから、猿族の検挙率は数倍だ。でもそれは猿の捕獲数が増えたからじゃない。お前がトップに立つまで、警備隊は猿を収監せずその場で嬲り殺してからだ。あんたはそれを許さなかった。あんたは誰よりも公正な男だ! そうだろ? だから頼んでるんだ」

 ゼニラタは黙っている。「ゼニラタ! お前が従うのは俺じゃない、法だ」

 俺はリリの肩を外し、骨をへし折る。彼女が小さく呻く。だがすぐにも抜け出してくるだろう。

「市民を守るのが俺の務めだ」

 ゼニラタは叫ぶ。「市民には猿族も含まれる。お前もだ」

「なら今は行け! アテネも……、それが俺の救いになる!」

 俺はアテネを見る。彼女は、俺の決意が分かったようだ。ゼニラタを抱えて階段を駆け下りていく。そうだ、行け……。これは守るための闘いなんだ。俺はリリの関節を満身の力で極める。初めて会った時、リリが俺にかけた技だ。

「関節技とは考えましたね! 再生されようが動きを止められる……。でも良いんですか? この至近距離では予知の恩恵に(あずか)れませんよ!」

 リリは折れた腕でメスを突き刺した。分かっていても回避が間に合わない。そのまま俺の指の健を切る。技が緩み、体勢が逆転する。寝技の動きはやはり向こうが上手(うわて)か!

「この期に及んでまだ人助けですか? 見上げた救済根性ですね!」

 リリはものの数秒で関節をはめ直し、『俺の顔面を潰す勢いで拳を叩きつけた』。

「救世主は休業だ! ああでも言わないとあいつらは退かないからな」

 俺は無理矢理首を捩じって打撃を回避する。殴打は床を打ち抜いて皹を広げた。俺は情けなくもがき、暴れ、鬼を振り落とそうとする。

「アテネはこの世界で初めてできた味方だ。ゼニラタも……、仲間に成れると思ってる。俺はあいつらを失いたくない! これは俺の個人的な闘いだ。どこかに行くためじゃなくて、ここに居続けるための抵抗なんだ」

「外の人たちは『ついで』ってわけですか。やっとあなたの本音が聞けた気がします……!」

 鬼は俺の腕を外しにかかるが、俺は遮二無二振り払う。掻き立てた爪が鬼の肌を裂くが、それはあっという間に塞がってしまう。リリは息を弾ませ、俺の喉輪に両手を掛けた。

「良いですよマシラ君! 今までなんかよりずっと本気! まさに死に物狂い……。奪われたくないという本能ですね? 凄く良い!」

 リリは俺の首を全力で締め上げる。急速に酸素が欠乏していく。俺は全開の握力でリリの腕を折る。が、砕いた傍から回復していく。

「生きようという抵抗を感じます……! ああ駄目、殺しちゃうかも! 我慢できないです、私っ、初めて殺そうとしてます……!」

「殺ってみろ……。君はまた一人きりだ……!」

 俺は空気を絞り出す。緑の瞳が微かに揺れる。リリは不器用に口角を上げる。

「独りじゃないですよ? 計画は成功したんです! あなたも見たでしょう? 警備隊がヒト猿に変えられる姿を。これで私と同じっ、行き場を持たない、境界の……!」

「いくら他人を造り変えようと、人を囚えて自分の町を築こうと、君の渇きが満たされることはない……! 誰も君にはなれない。這いつくばってやっと分かった……。罪だ罰だと大言壮語を並べてるが……、なんてことはない、君も個人的な願いのために闘っているだけ……! でも君は引き裂かれてる。同胞を欲しながら、創造主であろうとするから。どちらも叶わない……。だから君は孤独のままなんだ!」

 鬼が怒りの拳を振り上げる。気道が開き、肺に空気が送られる。俺は力任せに鬼を殴り飛ばした。リリはもんどりうって転がる。

 俺は四つん這いになって、咳き込みながらも思い切り酸素を吸い込む。ぎりぎりだった! リリは両手を床について、ゆらりと立ち上がる。

「何がいけないって言うんですか……?」

 いつもよりも小さくて頼りない影が、ひび割れたタイルの上に揺らめく。

「あなたに分かるんですか……。どちらの血にも属せず、帰る場所も迎えにくる人もいない人間の気持ちが……。私はただ、冷たい骸の傍で目覚めたくなかっただけ……! 自分と同じ体温を感じたかっただけなの……。それの何がいけないんですか?」

「良いも悪いもないさ……。やっと本音が言えたじゃないか」

 俺は膝を叩き、よろめきながら身を起こし、構える。

「どうやら俺も君も遠回りし過ぎたみたいだ。せめて、これで最後にしよう……!」

 俺と鬼は向かい合い、同時に走り出す。『胸に致命的な一打が迫っている』。俺には分かる。だが敢えて踏み込む! 相打ち覚悟・最短の一撃……! 先に届いたのは……、俺の拳だった。


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