第32話 幽鬼の塔
「マシラ!」
だらりと垂れ下がった腕を、誰かが揺すった。「マシラ! 起きなさいよ!」
ショッキングピンクの瞳が俺を覗き込んだ。
「目を開いたまま眠ってる……」
「というより、金縛りに近い。麻酔の類でしょう」しわがれた声が耳に入る。「アテネさんの催眠器官なら、解けるかもしれない」
頸元に手が伸びてきた。「任せて。セオの時で掴んでるわ……」
首元からじわりと温かい気体を流されたようだった。熱気はゆっくりと脳に到達し頭の靄が緩やかに晴れていくような感覚があった。
俺はふらふらと身を起こす。指を開いたり閉じたりして、感触を確かめる。
「ひとまず成功……、ね」
俺の横でアテネがはにかむ。
「笑っている場合ではないようです」セオがスペクトラを助け起こしながら言った。ぐったりとして小刻みに痙攣している。アテネがその首元に手を当ててやると、次第に安らかな寝顔になった。「痛みとショックは消したわ。何があったの?」
「アテネさんとナダさんは壁伝いに来ましたから、下の階の様子は見ていないでしょう」
セオが重たい口調で言う。
「ええ、セオが入ってくるなって言ったから」
「外からでも分かりましたからな。すすり泣きと、むせ返るような傷の香り……。戦場の臭いです。実際あの惨状は、先の戦争以来だ……」
俺は眉をひそめる。「たしかに凄まじい悲鳴だったが……。そんなに酷かったのか」
「久方ぶりです、善意から殺してやりたいと思ったのは……。まさに生き地獄。察しは付きます。鬼が現れた。階下から誰かれかまわず蹴散らしながら、屋上まで上ってきたのでしょう」
「もっと酷いですよ……」
ナダが重く足を引きずりながら、弱々しく声をかける。やっと体の麻痺が解けたらしい。
「鬼の正体はあの女だったんです」
「あの女?」
「ドクター・リリパット。俺たちが必死に助けようとしてた人。まんまと踊らされたわけですよ、ヒトも、猿も」
ナダは焦点の定まらない目で呟く。「ナダ、よく聞くんだ」俺は精一杯言葉を探す。
「奥さんのことは君のせいじゃない。錯乱状態のことだ……。君は何も悪くない。君が責任を感じる必要はないよ」
ナダはぼんやりと宙を眺めている。事件以来苛まれてきた無意識の罪の感触、思えば彼は常に何かに怯えていた。それがここに来て唐突に表に引きだされたのだ。精神的負担は計り知れない。
「セオはナダと……、スペクトラ様子を見ていてくれ。痛みも和らげたし、まだ猶予はあるはずだが……」
「マシラ殿はどちらに?」
「リリを……、鬼を追う。ゼニラタを使って何か企んでる」
「なら私も行くわ」
アテネが名乗りを上げる。「鬼とやりあう気は無いけど、ゼニラタを連れて逃げるくらいならできる」
「良いのか? 助かるけど……。ゼニラタには恨みもあるだろ」
「貴族の責任ってやつよ。世話焼きはあんたも大概でしょ」アテネは鼻を鳴らす。「それにあんたも分かってるでしょ。ゼニラタは悪い奴じゃないわ」
「それで、あては有るんですか。鬼の逃げた場所に」
ナダが力なく尋ねる。俺は首肯した。「彼女があの鬼だとすれば……、何となく検討はつく」
俺は空に向かって指を立てた。
「下の警備隊に何かが起こると言っていた。警備隊は戦闘の真っ最中で数も多すぎるし、まだ何の変化も無い。多分直接接触してどうこうってわけじゃなく、何か大がかりな仕掛けを用意しているはずだ。嗜虐趣味の鬼なら高みの見物をする。一番見晴らしの良い場所で」
俺の指さす先には、雲をつく巨大な鉄塔が聳え立っていた。
足元に立ってみると、つくづくその存在感に圧倒される。夜の暗がりと霧とで全貌や色味は分からないが、蜘蛛の巣のように張り巡らされた鉄骨の網は、空に向かって先細りに伸びている。三百メートルはあるだろうか。こんな中世じみた世界にこんな建造物、場違いな感じだ。しかも古代人が建てたというのだから猶のこと……。これも魔法の力なのか?
塔の中ほどには展望台のようなガラス張りの広大なスペースが広がっている。リリが居るとしたらあそこだ。
「階段があったわ!」
外観を確認していたアテネが駆け寄ってくる。「外階段が上の広間まで続いてる。あそこから入れそうよ」
「俺たちは猿だぜ、階段なんていらない」
俺はひらりと鉄骨に飛び乗った。「登って行けばいい。数秒だ」
俺は上からさらに別の入り口を見つけ、アテネと二手に別れた。「お前は下のフロアからゼニラタを捜してくれ。俺は直接見晴台に行ってみる。鬼を見かけたらすぐに隠れろよ」
「言われなくても」
鉄塔を駆け上がる。修行の成果だ。すっかり猿らしい動きが身についている。あっという間に展望台まで辿り着いた。
俺は地上を見下ろす。かなりの高さだ。落ちたらひとたまりもないだろう。
連絡扉を開け、塔内に侵入する。辺りは夜の闇にすっぽりと包まれている。斜めに差した月明かりがぼんやりとした溜まりを作っていて、そこだけが明るかった。緑のローブを身にまとったリリが。地上を見下ろし佇んでいる。
「似合わないよ、そのローブ」
「期待にそえなくて残念……。ここに居るのは緑衣の鬼。白衣の天使は廃業です」
リリは和やかに言い切って、窓にそっと手を当てた。
「人が蟻のように見えますね」
硝子越しに都市を見下ろして言う。
「霧が晴れてきました。朝が近づいてる証拠ですねー」
「ここから兵を一望するつもりかと思ったが、読みが外れたな」
俺は街を覗いて言う。
「この場所は高すぎる。ヒトの目ではかえって様子が分からない」
「便利な道具もありますよー」
リリは床から生えている妙な装置を叩いた。双眼鏡のように見えるが、その下に大がかりな機械のようなものが繋がっている。明らかにオーバーテクノロジーだ。
「君が造ったのか?」
「私は手を加えただけです」
リリは双眼鏡の表面をなぞる。
「目的は何だ? ただヒトや猿を傷つけるだけならいつでも出来ただろ。なぜわざわざこんな辺鄙な場所へ人を集める」
「集落をつくるためです」
「集落?」
「前にも話したでしょ。人猿が移住できる場所を整備しているって。それがこの都市です」
それにしては、だだっ広い所だ。それに、
「答えになってない。警備隊も猿族も必要ないはずだ」
「すぐに分かります」
「分かった時には手遅れんなんだろ」
リリがこちらに向き直る。緑の眼差しが突き刺さる。俺は獣のように両手を床につき、毛を逆立てた。
「君とは戦いたくない」
「捕食者を恐れるのが本能ですから」
「違う。君を傷つけたくないんだ」
リリはひらひらと手を振る。「傷つきませんよー、治りますから」
「治せても癒せない」
俺は息を吐きだす。「そこが君の限界だよ。傷口は塞げても擦り減った心は戻らないんだ」
「面白いことを言いますね」
窓の外を指さす。
「彼らを見ても同じことが言えますか? 神と麻酔で蓋をするだけの彼らを。現実を救わなければ、癒せたとしても治らない。夢に逃げ、見て見ぬふりを続ければ、傷は膿み、爛れ、気づいた頃には手遅れに。誤魔化した心すら……」
俺は答えない。リリは満足げに続ける。
「どうします? 猿族の皆さんみたいに無抵抗で吊るされますか」
「そうもいかない。でも俺は、君を救いたい」
「あは、笑えますね」
リリはくすくすと笑う。「空っぽの使命感はよく響きますね。私は容赦しないですよ」
「話しても分からないなら、無理やり連れ帰るだけだ。俺には皆を守る義務がある。きっとそのために生まれ変わったんだ」
俺は牙を剥きだして唸る。リリは目を細める。
「力づくじゃそのジレンマは消えませんよ? もっと素直に生きればいいの。つまらない価値観に縛られて、皆に振り向いてほしくて、あなた、いつも右往左往してる。身の丈に合わない願望に振り回されて、浅はかで、惨めで、愚にもつかない。まあ、そこがいじらしい所でもあるんですけど……」
リリは己の片頬を撫でる。
「飼い殺しにしてあげますね」
リリの腕が敏捷に動く。広がった袖口から鎖が飛び出す。
『金属音は聴こえていた』。俺は鎖の上を跳躍し間合いを詰める。至近距離なら長物は扱いづらい。メスの投擲も防げる。
着地を狙って、右の裏拳が胴を襲う。俺の右脚がそれを跳ね上げる。そのまま逆脚の回し蹴りに繋げる。爪牙は使えない。スペクトラの例がある。
リリは鎖を広げて蹴りを受け止める。そのまま鉄縄で足を縛ろうと動く……が、俺もそれは読んでいる。素早く足を引き抜き、体勢を立て直す。
「腕、上げましたねー」
リリは鎖を袖に仕舞いながら言う。「音を立てる武器は予測されますね。素手でやってあげます」
即座に拳が飛んでくる。鳩尾を狙った精妙な一撃。いなす。すかさず鬼の連撃。『頸部、右腕、眼球、膝頭』、全て分かる! 風を切る音だけで、どの部位への攻撃か正確に推測できる。俺の予知は修行を経て、かつてないほど研ぎ澄まされていた。
初動を潰し、攻撃の経路を反らす。隙の出来た彼女の額を狙う。『空を撫でる音』、つまりは躱される予感……。俺は咄嗟に胴への攻撃へと切り替える。
リリは素早く左腕でガード。硬い! 鉄の繊維みたいな肉体だ。
「いたずらに筋骨を増やしても限界があります」
リリは蹴打を打ち抜きながら言った。
「レオン人は無暗と筋肉を付けたがる傾向にありますが……。彼らは力の出し方を履き違えてます。増強した筋組織は、凝縮し、超高密度の筋繊維に依り集めるのが一番良い。一撃の『重み』が段違いです」
俺は大きく身をひねる。リリの拳が壁を砕いた。
「打擲の衝撃を高めるためには、腕の筋肉だけでは不十分です。身体の動きは連動している。どの部位を強化するべきか正しく把握すれば、しなやかで力強い動きが可能になります。膂力も飛躍的に向上する」
右ストレート、肘撃ち、逆蹴り。俺が躱した彼女の攻撃は全て壁や床のコンクリを打ち抜いた。彼女の骨も砕けているはずだが、瞬時に再生している。攻撃に遠慮が無い!
だがそのぶん大振りだ。俺はジャブのフェイントを入れる。ここで予知を使う。当たるなら打ち抜く、外れるなら足蹴に切り替える……!
ぱっと辺りが明るくなった。なんだ? 朝日か? 不意を突かれ、俺の攻撃がわずかに緩む。鬼はそれを見逃さない。腿に一撃もらう。
ぐらつく姿勢でカウンターを放つ。よろめきが功を奏し、鬼の死角に入る。……だが、リリの髪に触れた途端、俺の攻撃には迷いと隙が生じた。
顎を砕く強烈な一打! 俺は窓枠の鉄骨に叩きつけられた。
「甘いですよ、私を殴る覚悟も出来てないなんて」
脳が揺れ、身動きが取れない。リリは俺を見下ろす。
……追撃は無い。決着がついたのだ。
「運にも見放されましたねー。この灯り……。そろそろ稼働する頃合いだと思ってました」
俺は不規則に息をつきながら、目を上げる。眩しい。陽光ではなかった。この鉄塔の内部灯に光が灯されたのだ。
「兵器が作動したんですよー」
「兵器……?」
俺はぼんやりと焦点を合わせながら聞き返す。
「はい、この建物、古代遺跡って言われてますけど……」
リリはにっこりと微笑む。「実は古代兵器なんです」




