第31話 騒ぐ血
その瞬間、二番目に行動を起こしたのはゼニラタだった。だが最も迅速に動き出していたのはリリだった。
稲妻が空を掻いた時には、既にリリの半身はそこになく、上体を素早く倒しつつ右手を振り抜いた所だった。遅れて、ゼニラタの声にならない叫びが続く。
ゼニラタは激しく震える手で左目を押さえている。指の間から細長いメスの柄が覗く。
「さすがに判断早いですねー」
次の投擲は既に終わっていた。リリの指から繰り出されたメスはゼニラタの最後の光を奪っていた。ゼニラタの喉から搾り上げたような音が吐き出される。
「見えなきゃ当たらないでしょう」
スペクトラはその数瞬を見逃さなかった。リリがゼニラタに注意を向けた瞬きの間に、彼は臨戦の構えを取り戻し、急所目掛けて爪撃を打ち出していた。肉を裂く音がして、鮮血が跳ねる。
スペクトラの顔が驚きに歪む。
「頭を的にしたのは賢明でしたねー」
リリはゼニラタから視線を外して言う。スペクトラの拳を横顔の前で掴んだまま、彼に振り向いた。
「再生持ちは即死狙い。対応が柔軟ですねー。経験の厚みを感じます」
「お前のような化け物の相手は初めてだがな」
スペクトラは握り込まれた拳を震わせて答える。彼の爪はリリの掌を貫通し朱く染まっていたが、その頭部数センチ手前で停止していた。
「気のせいか? いつもより萎縮して見えるぞ」
「縮んでますからね。身体っ」
リリは彼の軸足を即座に踏みつけると、同時に掴んでいた手を手前に引き下ろした。流れるように膝蹴りが飛び出す! スペクトラの体が跳ね、フェンスまで吹き飛ばされた。
「大した反射」
リリが手を叩く。スペクトラは窪んだフェンスからむくりと起き上がった。足蹴を受け止めた右腕が捩れている。「膂力はあのレオン人の族長並……。だが瞬発力はこちらがやや優る。次の攻撃は左手じゃ済まさん」
「あは、これですか」
リリは左手をぶらりと振った。既に傷口は塞がっている。「わざと当たってみました」
「負け惜しみも、今……」スペクトラの影が揺らぐ。
「っ……?」
スペクトラは突然仰向けに倒れると、牙を剝きだして喘いだ。顔面が引き攣り、激しく胸を掻きむしる。「あらあら」リリが散歩でもするように歩み寄る。
「さっき手を握った時です。あなたの免疫抵抗を無理矢理引き上げました。爪から入り込んだ私の血液に身体が過剰反応してるんです」
リリはスペクトラの前に屈み、その悶絶を嬉々として眺める。
「苦しいでしょー? 拒絶反応で直死にます。それまで頑張って耐えてくださいねー」
「……何故ッ、こんぁ、ごど……っ!」
スペクトラは地面にがぶりと血の泡を吐いた。
「わ、まだ喋れるんですねー。さすがは苦難の種族!」
彼女は緑の目を光らせて、あっけらかんと笑った。
「いつも言ってますもんねー、選ばれし民だって。分かってますよ……、要はあなたたち、裁かれたいんでしょう? だからお望み通り……、私が罰を与えました!」
彼は答えない。虫の息を吐きながら、呪い殺さんとばかりにただじっと鬼の首を睨めつけている。「痛すぎて声が届いてない?」リリが小首を傾げる。
「いい加減にしろ!」
屋上の隅から声が上がる。リリはくるりと振り返る。ナダだ。電撃で不自由な体を引きずりながら、吠える。
「あんた何がしたいんだ! ヒトも猿も弄んで……、こんなっ。全部あんたの仕業なのか?」
「そうですよー」リリは朗らかに両手を広げる。
「誘拐も闇討ちも、警備隊と皆さんを鉢合わせさせたのも、みーんな、私です。猿族が同盟まで組んできたのは予想外でしたけど、概ね台本通りですねー」
「俺をこんな姿にして……! 妻を殺したのも……!」
ナダが唸る。リリは人差し指を顎に当て、怪訝そうな表情をする。
「人猿は何人か造ってきましたけどー、最後の殺しは知りませんね。あなたどのヒトでしたっけ?」
「俺はモルグ亭の主人だ! それで分かるだろ!」ナダの怒号が飛ぶ。モルグ亭。そうだ。初めてゼニラタと会った日に、婦人の遺体が発見された酒場。俺が犯人だと疑われた事件だ。
「あー、思い出しました!」リリは日光浴でもしているみたいに明朗な表情になる。
「何笑ってんだよ……! あんたのせいで、妻は……っ!」
「殺したのはあなたでしょー?」
リリはぱかりと口を開けて言い放つ。可笑しくて仕方ないという顔だ。
ナダの表情が凍りつく。
「は……?」
「あれは傑作でしたー」
リリはナダの前を素通りしながら、うっとりと目を細めた。「あなたを被検体に選んだのはただの気まぐれでしたけど、期待以上でしたー。人猿の変態直後は意識が混濁するので、私はその隙に窓から逃げて、遠くから観察してたんですけどね。あなたが奥さんに発見されてからは凄かったですよー」
ナダの顔がみるみる色褪せていく。「やめろ」
「なんですか?」
ぶるぶると唇がわななく。彼は頭を掻きむしった。「やめろ……! それ以上やめてくれ!」
「一撃でしたよー! 頸の骨を一握り。部屋に見知らぬ猿を見つけた奥さんが怒鳴る、その瞳に映った自分を見て、今度はあなたが半狂乱になって……、まるで異国語のような譫言を叫ぶ。気づいたら首を絞めてるんですもんね! あれは身震いしましたー」
ナダの顔面が蒼白になる。体を折り曲げると、床に向かって激しくえずいた。
「ロマンチックですよねー! きつく握りしめた掌の中で、愛する人の鼓動を感じる……。まあ激しすぎて数秒でへし折ってましたけど。どんな気持ちでしたか? よく思い出して……」
「もう良いだろ! リリ……!」
俺の喉はやっと声を吐くことに成功した。彼女は興を削がれたというように唇を尖らせる。
「邪魔しないでくださいー。マシラ君はそこでお仲間がこと切れていくのを、指を咥えて眺めるのがお仕事です。無力なあなたにぴったり」
スペクトラは目玉が飛び出るほど眼を見開き、床に爪を立てている。俺は身をよじろうとするが、身体が言うことを聞かない。
「こんなの本当の君じゃない! 君は平然とこんなこと出来る人間じゃないだろ!」
「さっきも言ったじゃないですか、私は、平気です」リリは冷たい流し目を送る。「あなたが私の何を知ってるんですか。妙な力に目覚めて救世主だなんだと崇められて、神様にでもなったつもりでした?」
「違う、俺はただ……」
俺は口をつぐむ。本当にそうでないのだろうか?
俺は思いあがっていたのだろうか、知らず知らずのうちに。死線を潜り抜け、猿たちの対立を収め、それが全部自分のお陰だと、心のどこかで驕っていたんじゃないか。自分は選ばれた何者かで、為すべき使命をとそれを果たすだけの力を持っていると……。
リリは何かを期待するように俺の言葉を待つ。が、俺は二の句が継げない。
彼女は溜息をついて踵を返した。
「じゃ、私次の段取りがあるので行きますねー。ゼニラタさんはまだ役目があるので連れていきます」
手探りで出口まで這っていたゼニラタの顔に先ほどの麻酔液を吹きかけると、リリは脱力した彼を軽々と担ぎ上げた。
「発電器官も体の一部ですからねー。これかがせると放電できなくなるんですよ。逆に原液を飲ませて、強めの幻覚で暴発させるって使い方もできるんですけど……。うちの庭の花を調合したものですが、教会内でも大人気だったから……見たことあるかもしれませんね」
勤行派の薬物……。闇ルートを仲介に彼女が流していたのか。俺はせめて目で訴える。
「待ってくれ、リリ、話を……!」
「マシラ君はそこに這いつくばっていればいいんです。寝返りがうてるようになったら……、下の警備隊が見物ですよ」鬼は振り向き、口角を上げた。「楽しいサーカスです」




