第30話 予期せぬ再会
俺の目はスペクトラでもゼニラタでもなく、その白衣に吸い寄せられた。
リリ……!
最悪の想定をした。白衣は湿り重たくなるほどの血を含んでいた。これだけの出血……。
次によぎったのは、なぜ、どこからこんなものが? という疑問だった。俺は白衣の飛んできた風上を振り返る。ゼニラタは既にそちらを注視していた。
目線は屋上の入り口に向かう。鉄の門扉が開いている。錆びて老朽化した扉が、風でひとりでに開いたのだろうか? いずれにせよこの白衣がそこから流れてきたのは確かだった。
あっとゼニラタが声を挙げる。隙をついたスペクトラがフェンスを乗り越えていた。「詰めが甘かったな」彼はフェンスから飛び降りるとゼニラタと距離をとった。
俺は再び扉に目を戻し、入り口の奥、暗がりに目を凝らす。影の中に、何かが揺らめく。そうだ、誰かが開けたのだ。屋上に来た誰かが……。
夜の中に、二つの瞳が浮かんだ。
「マシラ君……?」
俺は聞きなれた声に飛び上がった。「リリ……か?」
白い肌が薄い霧の中に現れる。「ドクター!」ゼニラタとスペクトラが驚く。リリだ。間違いない。治した後かも分からないが、見たところ傷は負っていない。猿族にも変えられていなかった。俺は既に走りだしていた。
「リリ!」
彼女もこちらに駆け寄る。銀の髪が霧の中に揺れる。
「無事か? 何もされなかったか?」
俺は彼女を腕を掴んで聞いた。「平気です」リリが微笑む。顔色は悪くない。想像よりずっと無事なようだった。
「良かった……」俺は声を震わせて言った。安堵で膝から崩れそうだ。良かった。本当に良かった。
「待ってました。マシラ君」
リリが背伸びをして、頭を傾ける。骨が小さく響いて、俺の額と触れ合う。
「俺もだよ。俺も、会いたかった……」
俺は頭を離して、彼女を間近に見下ろす。……? なんで……。にわかに湧きかけてきた不思議な感情を、涙が覆い隠す。
「何泣いてるんですか」
「なんか、安心しちゃって……」
俺は照れ笑いして、目を拭う。生暖かい感触がする。俺は掌を開いた。真新しい血だ。
俺は慌ててリリの袖を見た。よく見ると赤く染まっている。着衣に点々と飛沫が滲んでいる。そうだ、さっきの白衣もそうだった。怪我が!
「鬼にやられたのか? 指も……」
俺は慌てて尋ねる。ゼニラタがさっき言っていた。指を送り付けられたと……。リリは両手を見せる。綺麗に生えそろっている。
「指はたしかに落としましたが……、とっくに治りました。平気なんです、私は……」
「でも、血がっ……。いや、もう治してるのか。そうだ、鬼はどこだ? 許せない、あいつ……っ!」
「マシラ君、慌てないでください。鬼はここまで来ています」
「もうこの建物まで! 灯台下暗しだな……」
俺は感傷もそぞろに下の階へ向かおうとした。「マシラ君、落ち着いて」リリが離れかけた俺の手を控える。俺は振り向く。彼女は俺の頬にそっと手を寄せた。
「目を瞑って」俺は戸惑う。でも、言われた通りにする。視界を暗くする。
「ゆっくり息を吸ってください」
俺は深く息を吸う。何か、吐息のような小さい音がする。続いて、花の香りだ。とても心地よく、リラックスする良い匂い。薔薇のような、美しく、そして……。
「?」
何だ?
固く冷たい感触が体に触れた。目を開ける。壁……? 空が直立して見える。ゼニラタやスペクトラが横になっている。……壁じゃない、床だ。俺は目をしばたたかせる。床に倒れているのだ。
「マシラ!」
スペクトラの上ずった声が駆け寄ってくる。「何だ? 何をした?」
「香水をかがせました」
リリが小瓶を振りながら穏やかに答える。影が差して表情がよく見えない。俺は彼女の眼を見ようと瞼を細める。
「調合を間違えたのか……? 効き目が強すぎるぞ、弛緩しすぎだ!」
スペクトラは俺の瞳孔を覗き込んだ。
意識はある! 意識はあるんだ……。
「調合は間違ってませんよー! じっくり見てもらうためです」
意識はあるのに、体が動かないんだ。
「何を言っている……?」リリの言葉に、スペクトラは困惑する。「鬼戦も控えているんだ、早く起こしてやってくれ」
「やだなー、まだ分からないんですか?」
風の裂ける音がする。スペクトラは片頬を押さえる。掌から何かがこぼれた。
耳だ。
リリが涼やかに微笑む。霧を縫った満月の明りが彼女を照らす。
月の光を受けて、その瞳は緑色に輝いていた。
「私が緑衣の鬼です」




