第27話 追憶
スラム街から古代都市までの距離は馬なら数時間程度、猿の健脚でも半日程度だが、城下街を迂回して向かう必要があった。警備隊の目が光っているからだ。別にヒトの街を襲撃するわけではないが、これだけの人数が一度に動けば必ず騒動になる。古代都市までは目立たず行動したかった。鬼に気付かれない内に包囲網を築き、夜襲を仕掛ける。ちょうど今は濃霧期で、スラムより東側の王都近郊には深い霧が立ち込めている。隠密行動には適している。リリを捜すには不都合にも思えるが、朝には一時的に晴れるらしいし、幽閉されているなら恐らく屋内だ。支障はない。
「あまり先行し過ぎるなよ」
俺は馬の間を縫って、先頭まで行き着いていた。左手に並ぶ木立が滑らかに流れていく。並走しながらスペクトラが警告する。
「どのみち突入は包囲が整ってからだ。あなたを先発隊に入れなかったのもそのため……。足並みを揃える必要がある」
「……分かってるよ」
俺は奥歯を噛み締めて、その間から声を絞り出した。スペクトラは無言でこちらを一瞥した。
「先発隊はもう着いた頃かな?」
俺は森の方を見ながら尋ねる。馬を使えない分、徒歩部隊は森のルートを使っている。市街地を突っ切るよりは時間がかかるが、こちらの街道ルートよりも近道だ。
「さすがにまだだろう。心配するな、先行部隊の指揮は導師だ。ヘマはしない」
先発隊は導師率いる、一部の勤行派だった。腕に自慢のある者は残って騎馬隊に加わり、他の勢力と共にスペクトラの指揮下に入っている。先発隊は先に到着して背面の包囲を広げつつ、古代都市の概観を確認する役目だ。
「中に入ったら、ドクターと鬼の捜索のため兵を分散する。本部組の半分はあなたが仕切ってくれ。くれぐれも単騎で行動しないように頼む」
「大丈夫だ。リリも大切だけど、他の猿たちの安全も守る。世話になってるからな」
「それでこそ救世主だ」
スペクトラは薄く笑った。空にはもう星が瞬き始め、東の空には月の一端が現れていた。
月。俺はふと思い出した。あの夜もこんな風に月が浮かんでいた。ちょうどこの森だ。この世界に来てすぐ、人間に追い立てられ、崖から落ちたあの日。あの晩は三日月だったが……。
俺は断片的な記憶を繋ぎ合わせる。俺は弓なりの黄色い物体のイメージから連想して、てっきり甘蕉か何かそういう果実を盗んだと思っていた。それで露店の親父に追いかけられていたのだと。でも本当は違うんじゃないか? 俺が見た黄色い残像の正体は落下の時に見上げた三日月で、俺を追っていたのは別の誰かだったんじゃないだろうか。
思考が巡り始めるのを感じて、俺は頭を振る。いや、そんなことはどうだっていい。今は余計なことを考えている場合じゃないんだ。
「しかし、あんたがすんなり賛成してくれるとは思わなかった」
俺は頭を切り替えるように、スペクトラの横顔に言った。
「あんた、いつも受け身だろ。俺が来た時も反乱が起きた時も静観してた」
「そういう教えだった」
スペクトラは短く答える。
「霊長教会には古代・神の時代から受継がれてきた伝承がある。それは九〇の正典と九つの外伝からなる全九九章の謡として残されている」
スペクトラは馬を走らせながら説明した。
「創世の章には次のようなことが歌われている。大きな混沌があり、神が天地を分けたことで秩序が生まれた。神は雲と土を混ぜ合わせ〈霊長〉を作った。そしてその〈人間〉の抜け落ちた体毛から〈ヒト族〉が生まれた——と」
「その〈霊長〉っていうのが猿で、ヒトよりも先に人間の地位を与えられた、ってことなんだよな」
その教義はスラムに来て以来繰り返し耳に入れられていた。ヒト族が毛から生れたというのがなんとも情けないが……。しかしヒトが猿から派生したというのは、案外間違っていないのかもしれない。少なくとも俺のいた地球ではそうだった。
「そうだ。だから神の御子であり真なる人間は我々なのだ。そして我々の人間たる資格を試すために神は試練を与える」
「じゃあヒト族の言い分はどうなんだ? 彼らにも宗教があるだろ」
「天地創造の流れは大体同じだ。違うのは初めに神が一二の使徒を創り、現生人類……ヒト族はその末裔だと考えるところ。いわゆる猿族の誕生の仕方は宗派によって見解が異なるが、基本的にその他の動物と同じ成り立ちだ。中でも——」
彼は原稿でも読むみたいに淡々と述べていたが、ここで僅かに唇を震わせた。
「———原理派は、『猿』は人間の従僕だったと唱えている。人間の真似をして言葉のようなものを話すと。かつての猿人戦争でヒト族が主張した教説もこれだ。停戦後、奴隷制の根拠となった悪魔の教えだよ」
「……そうか」
俺は黙し、慰めの文句を避けた。彼の深い憂いを湛えた声音の前には、上滑りな言葉はかえって失礼な気がしたのだ。
「しかし、ずいぶん詳しいんだな、向こうの教説に」
「宗教論争も繰り返しているからな。否定したい主張はまず正しく理解しなくてはならない……。議論のテーブルに付けること自体大きな一歩だしな。祖父の時代には議論すらされなかった」
詳しくは知らないが、彼の祖父の時代と言えば戦後間もない頃だろう。ヒトと猿の戦争があったと聞く。
「俺たちは選ばれた民だと思っていた。いや、今もそう信じているが……。聖典にはこう記されている。『怒りの手が振り下ろされる時、楽園に至る道が開かれる。主と人の佇む永遠の庭、約束された大地が訪れる』。神が下す罰、『大いなる試練』に堪え抜くことで安楽を得られると。抗ってはいけないと思った」
「導師はそう思っていないみたいだけど」
「彼らは聖典を読まないし、聴かないし、語らないからな。大抵の猿族の間では、耐え忍ぶことが美徳であり、信仰の証とされていた。先代や先々代、俺の父も祖父も争いに加わってきたが、俺は自分の代でそういうのと縁を切りたかった」
彼は言葉を切り、空の星々を見上げた。
「俺も若い頃は親父に反発していた。教会の閉鎖的な連帯も嫌で、スラムを飛び出してあちこちを旅してた。山脈を越え東国に赴き、大陸までは行かなかったが……、怪物の二つ名まで付いた。武者修行みたいなものだった。旅から生きて戻ってくるやつは大概一皮むけて帰ってくる」
「それであんなに闘い慣れてるのか……」
俺は納得する。
「猿はどこに行っても石を投げられた。狙われることも多かった。その度に返り討ちにしていたが、俺は疲弊した。平安の地などどこを探しても見つからなかった。いつしか俺は聖典を受け入れ、約束の地は自らの心の平穏だと考えるようになった。そう珍しい解釈じゃない。それで俺はスラムに再び舞い戻った。存在しない楽園を探すより、全てを諦め、心の安らぎを保つことを選んだんだ」
辺りに霧が立ち込めてくる。古代都市に近づいてきたのだ。俺たちは頬を濡れた空気に浸した。
「だが組織を持つようになって、そうもいかなくなった。親父が死んで代替わりした時、俺はこの教えを徹底することにした。諍いはもう御免だったし、聖典の教えを徹底したかったからな。だから迫害も弾圧も受け入れた。去る者も追わなかった。だけど問題は解決するどころか山積みになっていった。俺が苦難を受け入れても、住民はそうもいかない……。だから日々の問題は解消せざるを得なかった。いつしか俺は、教会の代表者と生活の指導者との板挟みになっていたんだ」
スペクトラはそこで言葉を区切らせると、俺の方を向いた。
「そこに、あなたが現れた」
「俺?」
「そうだ。あなたはまだ未熟だったが、紛れもなく神の力を持った稀人だった。鬼に敗れ、やはり救世主はいないのかと一度は失望しかけたが、あなたは再び立ち上がった。そしてこの数週間でその力を結実させつつある。今、こうして貧民街の連合まで立ち上げた」
「買いかぶりすぎだな。リリの人望と、あんたの手腕あってのことだよ」
スペクトラが素直に褒めるのは珍しい。俺は頬を掻いて誤魔化した。
「とにかく、俺はあなたという神の一端に触れることでやっと理解した。怒りの手を振るうのは、神でなく我々なのだと。この一戦は始まりにすぎない。スラムの合同作戦と、鬼を始末したという実績はヒト族に我々の脅威を印象付ける良い契機になる。対等な交渉に臨むことができる……」
彼は勢いよく馬を走らせた。遠くにぼんやりと塔の影が浮かび上がる。俺は手綱を握る手に力を込めた。
墓標のような巨大な遺跡群が目の前に迫ってきた。霧に包まれ、その全体は朧気なままである。街全体は息絶えたようにひっそりと静まりかえっている。風雨にさらされ、所々欠けた遺跡たちのシルエットが、月光の下に転々と並んでいる。これを全て探すのは骨が折れそうだ。やはり人手を集めて正解だった。
スペクトラは馬を止めると全体に号令をかけた。前面の包囲の任を振り当てられていた部隊が、二手に別れて遺跡の周囲に散らばっていく。敵に悟られぬよう、火は焚いていない。星と月のあたりだけが頼りだ。
「いよいよだな」
俺はぶるりと胴を震わせる。夜露にぬれた毛皮から水滴が飛び散った。
「五班に分かれて隊列を組みなおせ。本部の者は俺と救世主の組で別れろ」
スペクトラは残りの二百騎あまりに指示を出す。
「教主! マシラ!」
後ろから蹄の音に乗って声が流れてくる。手拭いが後列から追いついてきた。
「早かったな。お前は出遅れたと聞いたが」
「こいつぁ持久力が売りでして」ぽんぽんと馬の背を叩く。どうやら愛馬を取り戻したらしい。
「道中確認してきやした。徒歩後発隊、直到着です」
「そうか。飛ばして来たな……。想定より速やかに事が運んでいる」
彼は隊列を確認する。包囲に向かった騎馬たちは既に姿なく、配置についている頃合いだった。手拭いが俺の隊の後ろに並ぶ。スペクトラは片手をすいと挙げ、五つの塊になった各部隊に向かって檄を飛ばした。
「予定より早いが、このまま突入する! 正面の遺構を手前に散開、各部隊捜索に当たれ! ドクターまたは緑衣の鬼を見つけた部隊は警笛を鳴らして知らせろ」
俺は首にかけた短笛を握りしめた。スペクトラの右手が振り下ろされる。
「突撃!」
出陣の時とは打って変わって、密やかな進軍だった。地を弾む蹄の音だけが死の街に降りそそぐ。スペクトラ隊が先行し、霧の中に姿を消す。正面の遺構が間近になってきた。俺は片手を上げ、方向転換の合図を……。
けたたましい笛の音が鳴り響いた。部隊がざわつく。まだ遺跡地帯に踏み込んだばかりだ、展開すらしていない。いくらなんでも早すぎる……!
俺は後方にサインを出すと、笛の音の方角に馬を走らせた。他の部隊も同様で、まだそう離れてはいなかった。スペクトラ隊の背中が見える。
「いたのか? どっちだ!」
俺は回り込んで、スペクトラの肩に手を掛ける。
「アクシデントだ、あれを見ろ!」
スペクトラが前方を指さす。俺は目を凝らす。霧を透かして、倒木のようなものが折り重なっているのが見える。いや、どこか様子がおかしい……。
俺はその正体に気付いて目を見張った。猿の群れだ。馬も倒れている。数十人の猿と騎馬が地面に伏し転がっていたのだ。一匹が呻き声を上げる。導師だ。その隣には例の誘拐組も揃って崩れている。
「先行隊か! 会敵したのか?」
「分からん! トラップの可能性もある。迂闊に近づくな……!」
宙を縫って警笛の音が響いてきた。北西から。さっき別れた包囲部隊だ。堰を切ったように、四方一帯から笛の叫びが飛び交う。「どうなってる! こうもあちこちから!」「敵は一人じゃなかったのか?」
部隊に動揺が走る。「うおおっ」手拭いの焦った声が聞こえてきた。激しいいななきと共に彼の愛馬が、後ろ脚で立ち上がったところだった。異様な空気に猛った彼の馬は、彼を引きずり降ろさんばかりに突進した。
「待て! 出過ぎるな!」
スペクトラの制止を置き去りに、手拭いと彼の馬は先行隊目掛けて突っ込んでいく。
霧の中を、一筋の閃光が突き抜けた!
馬が悲鳴を上げて転がる。手拭いの体は宙を舞い、煙を上げたまま地面に叩きつけられた。
「これはこれは、お尋ね者が雁首揃えてどちらまで?」
入道雲の中を、ごろごろと獅子の喉を鳴らす音が轟く。暗雲をかき分けて、見覚えのある日に焼けた西洋帽子が姿を現した。
「あいにくの空模様だな。落雷注意だ」




