第22話 奇襲と相談
まだ日の高い午後、薄く霧の跡で湿った屋根を快走していると、下から名前を呼ぶ声が聞こえてきた。この世界にもいくつかの季節があるのだが、現在は霧季に入りつつあった。それでも日中はだいぶ視界が良い。
路地を覗き込むと、見慣れた顔が手を振ってる。
「何してるんですかー?」
リリが口元に手を添えて訊いた。
「あー、ちょっと野暮用でね」
「お客さんがお見えですよー」
「客?」
俺はリリの後ろに視線を走らせた。一匹の猿がその背中に隠れるようにしている。リリの肩くらいの身長———ということは、俺の肩くらいの身長でもあるのだが———で、しきりに目を泳がせている。
「まあ私も客人なんですけど……。本部の近くでうろうろしてたから、声をかけたんです」
「この辺って聞いてたんですけど……。入口が分からなくて」
小猿はぼそぼそと呟いた。どこかで見た顔だ。俺は塀を伝ってひらりと飛び降りた。屋根の上を小石が飛んでいく。
「まずスペクトラに目通りしたらどうだ?」
「スペクトラさん、この時間なら多分外出中ですよー。運営絡みなら、最近じゃマシラ君の方が発言権あるみたいですし」
「そういうものかな」
俺は額をかいた。たしかに俺は、一連の反乱騒動の鎮圧に際して、内情にだいぶ口を挟むようになったし、今ではけっこうな裁量を持たされるまでになっていた。まあ、これも人徳のなせるわざと言うやつだ。
「じゃあ一先ず俺が話を聞いておくよ。歩きながらでいいかな?」
俺は二人の背中を押した。
「……三人か」
俺の不穏な呟きに、小猿は怪訝そうな表情をする。「いや、続けて」俺は促す。
彼はおずおずと口を開いた。
「風の噂で聞いたんですが、教会では猿に変えられたヒトを保護してるそうですね」
「ああ……。二人ほど匿ってる。一人はお尋ね者だしな」俺はセオとアテネを思い浮かべた。二人のことは、注意喚起も含めて隠さずに流してある。噂は、スラムの外にまで広がっているらしい。
俺の快い返事に、彼はここに来て初めて表情をやわらげた。
「良かった……! 実は俺も保護してもらいたくて」
「ほう」俺は答えながら、低く身をかがめる。包丁が飛んできて壁に突き刺さる。
「失礼、靴紐がね。立ち止まらないで」
俺は手ごろな石を拾って身を起こした。
「その、俺は酒場を営んでるんですが……、俺はナダ=アクエレアと言いまして、あ、苗字はないです、身分が低いので。それで、鬼に攫われて、いきなりのことで……」
「おいおい、落ち着けよ。一つずつ話してくれ。ナダと言ったか」
俺はスナップを聞かせて斜後ろに石をぶん投げた。屋根の上から小さな悲鳴が聞こえる。
「はい」男は肯く。
「まず、君は酒場の主人なんだな。どの辺り?」
男が振り向きかける。「ああ、前を向いてて。前方注意。スラムは危険がいっぱいだから」彼は言われた通り前を向いた。俺の頭上に花瓶が降ってくる。
「城下町の一角です。結構繁盛してたんですが」
俺は頭の上で花瓶を掴んだまま言った。
「そうか。じゃあどこかですれ違っていたかもな……」俺は男の方に視線を向ける。やっぱりどこか見覚えがある。『火の燃える音が飛んでくる』。
「君、西の旅亭の近くにいなかった?」
男は驚いた顔をする。俺は後方から迫る松明に花瓶の水をぶっかけながら、リリに確認する。
「前に聞き込みに行ったとき、彼を見かけたよな? ほら、西の宿屋のあたり、緑の耳飾りの貴婦人と話した時」
リリは男の顔を覗き込む。「んー、言われてみれば……?」
「そうです。実は俺、一時はあの辺に棲みついてまして」
ナダは前を見たまま勢い込んだ。俺は横合いから飛んできた矢の柄を素早く掴む。
「でも、さっきはアクエレア人? とか名乗ったよな。あれって人間の民族名だろ」
俺は尋ねる。彼はアクエレア、リリがアリエスタ人、ゼニラタはライブラ人、あとレオンとかなんとか……、ややこしくなってきた。「そこなんです」ナダは緊張した面持ちで言った。
「俺は元々人間です。緑衣の鬼に誘拐されて、こんな姿に変えられてしまったんです。前後の記憶が曖昧で、鬼に繋がる情報は持っていないのですが」
ナダは口惜しそうに言う。「信じてもらえるか……」
「ああ、信じるよ」俺は脇道から突進してきた男を花瓶で殴り倒しながら、真面目な口調で答えた。「くそっ、もう俺一人か……!」屋根から舌打ちが聞こえてくる。
「今、何か……」
ナダが眉をひそめる。「いや、君も独りで大変だったろう、とね!」俺は咳払いする。
「実はそれ以外にも、マシラさんとは一度お会いしていまして」
「そうだっけ? どこで?」
「先月の鬼騒動の五人組……。鬼を騙る誘拐グループとマシラさんたちが、本物の鬼に襲撃されたあの事件です。あの誘拐集団の一人が僕でした。本物が出た時には気絶してましたけどね。本当はやりたくなかったんです。猿の姿にされて、行き場もなく、街を浮浪してるうちにスラムに流れ着いて、仕方なく犯罪の片棒を担がされて……」
『くたばれやぁぁぁああ!!!』頭上から猿が飛び掛かってくる。「それは大変だったねえ!!!」俺は声を張り上げて奇声を掻き消し、落ちてきた猿の顎を砕いた。
「でも、本部では僕のような元人間を匿ってくれてるって聞いて」
ナダは震え声で付け加えた。「あの、その猿は?」俺の後ろで伸びている猿を指さした。
「大地を感じてるんだ。猿ってのは時々自然に還りたくなるのさ」
「そういうものですか……」
ナダは呟く。「あっ、すみません、振り向くなって言われてたのに」
「ああ、もう大丈夫だよ。本部もすぐそこだし、安全さ」
彼はほっと安心したような顔をした。
「そういえば、野暮用って言ってましたけど、良いんですか?」
「ん、もう済んだよ」
俺は地面に伏した猿を一瞥して答えた。
ささやかな木漏れ日が、床に溜まりを作っている。本部の中で唯一窓のある部屋に、背中を丸めた一匹の猿が横たわっている。豊かな毛並みの中に、いくつか白髪が混じり、模様を作っていた。両目は宙の一点をぼんやりと彷徨っていて、そこには何の感情もうかがえない。
蒲団の傍らに、アテネが正座している。誰かが持って来たのであろう湯呑が隣においてあるが、口を付けられた形跡はなく、細かな埃さえ浮かんでいる。
「加減は良さそうか?」
俺は後ろから声をかける。アテネは数秒間をおいて、ゆっくりと振り向いた。目の下に濃い陰が出来て、頬の肉が落ちている。
「元気そうよ。今はぼんやりしてるけど、話しかけると時々反応するわ」
「そうか……」
「むしろあんたがぴんぴんしてるのが不思議なくらいよ。あれから一日も休んでないでしょ」
彼女は落ちくぼんだ目で素っ気なく言った。
「休んでる暇なんてないさ。救世主にふさわしい力を付けなくちゃいけない。俺にはここを守る責任がある。もう二度と負けられないんだ」
「立派な心掛けね。責任……、よく分かるわ。でも、今のあんたは瘦せ我慢してるようにしか見えない」
俺はそれには返事をせず、ナダを招き入れた。アテネがこちらを振り向く。
「彼らはお前やセオと同じで、鬼の被害者だ。元人間で、身寄りがないようだから匿うことにした」
「どうも……」
彼は部屋の物々しい雰囲気に気おされたように頭を下げた。アテネはいつもの明るさもなく小さく黙礼する。
アテネは直接攻撃されたわけではないが、精神的ショックが強くて、二週間寝込んでいた。無理もない、華やかな家系で育てられたのなら、ああいう血生臭い場面に遭遇するのは初めてだったろう。加えて、鬼の暴力は陰湿で、残忍だった。ゼニラタは無力化狙いで殺意を感じなかったし、スペクトラや誘拐集団とは喧嘩や格闘といった類のいざこざだった。だが緑衣の鬼の拳には、倒錯的な悦びが感じられた。アテネが瘴気にあてられて落ち込むのも不思議ではない。
「彼は、ご病気か何かですか……?」
ナダがセオを見て言う。
「原因は分からないわ。鬼にやられてからよ」
セオはこの三ヶ月ずっとこの調子だった。鬼の手で肉体を猿に変えられ、命に別状はなく、身体は健康だったが、出血のせいか猿に変化したためか、呆けてしまった。
「その人、多分ご高齢ですよね」
ナダが躊躇いがちに言った。
「きっと肉体の変化についていけなかったんだと思います。私も猿になってしばらくの記憶が曖昧です。その人は年齢もあって、錯乱状態が続いてるんじゃないでしょうか」
俺はリリに視線を送る。「ありえない話じゃありませんね」リリは腕を組んだ。
「ナダの話を聞く限り、鬼の被害者はまだいるのかもしれないな」
「王都にもここの情報を流して、積極的に受け入れていった方が良いわね……。頼る人がいなくて、困ってるはずよ」
アテネは顔をしかめて言った。猿になった頃のことを思い出しているのだろう。
「ところで、あんたあれは済んだの?」
「あれ?」
「反対勢力の残党が近くをうろついてるから、待ち伏せして追い払うって……。ずいぶん早い帰りだったけど」
「あー……」
「誰にも会いませんでしたよ」
ナダが訳知り顔で答える。
「この辺りは物騒だって聞いてたけど、大したことありませんでしたね」
彼は明るく言った。リリがじっとりした目で俺を見ている。
「誰かが治安を守ってるんだねえ」
俺は目をそらした。




