第20話 緑衣の鬼
怖気が走り、全身の毛が逆立つ。こいつは危険だと、俺の本能が告げている。緑のローブは刃物を仕舞うと、こちらに向かって、首元から止めどなく命を流すセオを跨ぎ越した。
考えるより先に動き出していた。
俺はローブの顎めがけて拳を繰り出した。立てた襟と目深なフードが影になり、顔は見えない。ただ、鮮やかな緑色の眼がこちらを見据えている。
俺の一撃は、軽々と掌で受け止められた。岩を殴っているみたいだ、びくともしない。やつの左手が俺の右手を掴む。凄まじい握力だ。
左のつま先を踏まれ、握った手を勢いよく引っ張られる。流れるような動き、一瞬の出来事だ。重心を失って宙をかいた俺の左腕をくぐって、やつの拳が突き刺さる。
重い!!!!
穴が空いたと思った。背中にも衝撃。反対側の壁まで殴り飛ばされたのだ。だが背の痛みなどわけなかった。俺は体を九の字に折り曲げ、血をぶちまける。胃が痙攣を繰り返し、その度に折れたあばらが突き刺さった。
腹を裂かれたと錯覚するほどの一撃! 俺は意識が飛ばないように必死で神経を尖らせた。気を抜けば持っていかれる。ここで落ちれば二度と日の目を拝むことはないと確信していた。
……だがローブは俺に目もくれず歩き続けた。緑……、奴らの仲間が、まだ残っていたのか? セオが視界に入る。胸が弱々しく波打っている。首が開いているが、まだ息はあるようだ。アテネは膝を震わせ、尻をついて後退った。「悪い魔法使い……」
ローブは一直線にマントの所へ進む。マントの猿はブルーの瞳をふるわせて歯を鳴らす。
「あんた、まさかっ、本物か……?」
ローブは答えない。
「緑衣の鬼だ! そうだろ? 見ろ、見、俺はあんたに憧れて、こんな、格好してるんだ、嘘じゃない!」
ローブは無言でマントのもとにしゃがみ込むと、縄の結び目の辺りを探った。マントが口角を引きつらせる。
「そうだ! やっぱりそうだ! へへへ……、信じてた……!あんたっ、あんたは俺達の英雄だ! ヒトの敵は猿の味方、そうだろ?」
小さな音がした。
縄の切れた音かと思ったが、そうでないことは一瞬で分かった。マントの咆哮が轟いたからだ。鬼の掌の上で何かが躍る。指だ。二本の毛深い指が弾んでいた。
「めろ、やめ、止めッ!!!!」
鬼の無慈悲な追求は、マントの右目に狙いを定めた。「ッあああぁぁぁあぁぁぁあぁあ!!!!!!!!!」
マントの体が激しく痙攣する。右の眼窩に黒々とした穴が覗いている……。
「やめろ! それ以上!」俺は声を振り絞る。
鬼はこちらに一瞥をくれると、その足でセオのもとに歩み寄った。マントの断続的な叫びが夜気を震わせる。鬼はセオの体に屈みこんで、傷口に何かしているようだった。鬼の体が陰になって、こちらからは窺えない。何をしている……?
老体が飛び跳ねた。
俺は目を見張る。セオの肉体は何かに憑かれたかのようにぶるぶると身震いしたかと思うと、突然ぼこぼこと膨らみ始めた。骨ばった痩躯がうねり、肉が盛り上がって、首の裂け目がみるみる塞がっていく。指は鋭く尖り、赤い筋の残る口元に犬歯が伸びていく。白い肌が毛のようなもので覆われていく……。何か禍々しいことが起っている、それは外目にも明らかだった。
俺は膝を震わせながら、根限り立ち上がる。
「そいつから離れろ……」
鬼は腕を組んでセオの肉体の変化を眺めている。俺は雄叫びを上げながら鬼に向かって飛び込んでいった。
鬼はセオの体を爪先で転がすと、こちらに向き直った。奴の次の攻撃……、右に一発、上から追撃、読める! だがもつれた俺の足では反応できない。
俺の身体は強く地面に叩きつけられた。体の自由が利かない。鬼は俺にまたがり、睨むことしかできない俺の顔面を殴打した。俺は声を上げ、鬼の緑の双眸を強くねめつける。鬼はそれを嘲笑うかのように、繰り返し、繰り返し、繰り返し……、気の遠くなるほど幾度も俺を打ち据えた。
悦んでいる……。皹割れた頭蓋の底で、俺は理解した。鬼の恍惚とした瞳は俺の存在を強く捉えていた。奴は、光ない愉楽の海中に俺を引きずり込むつもりなのだ……。
「うぁあぁぁあ!!!」
鬼の後方から、震える声が聴こえた。鬼が俺の体から転がり、その後を追うように刃が閃く。アテネだ。半纏猿のとり落としたナイフを両手で握りしめ、荒い息をしている。切っ先が激しく揺れている。
だが背後からの一撃、鬼は意にも介していない風だ。
鬼が立ち上がる。アテネの呼吸が激しく、短くなる。鬼は再び一歩、踏み出しかけた……。
突然、鬼の歩みが止まった。何かもぞもぞと手を動かしている。フードだ。フードを押さえているのだ。俺は深紅に染まった視界で精一杯目を凝らす。鬼のフードに、切れ込みが入っている。アテネの一振りは鬼の肉に触れなかったが、その衣服を切り裂いていたようだった。
「……おい、こっちだ!」
さらに加勢するように、遠くから、声が聴こえた。
「誰か叫んでやがる。ものすごい悲鳴だ……」
にわかに辺りが騒がしくなる。マントの喉はもはや潰れかけていたが、その一息は眠る町を劈いていたのだ。
周囲を覆う声は大きくなっていく。緑衣の鬼は躊躇うような素振を見せたが、やがてフードを片手で押さえると、踵を返し、足音も無く、夜の闇に紛れた。
アテネは緊張の糸が途切れたように、崩れた。その後方、さっきまでセオがいた血溜まりには、一匹の青い眼の猿が横たわっていた。




