第19話 誘拐魔
月明りがこぼれて、夜の気配が忍び寄ってくる。数千人の猿がささやかな夢を見る貧民街は、帳の下で呼吸を止めたように寝静まっている。夜霧が冷たく俺の体を包み、雫を結んだ。
「何か見えるか」
俺は傍らで息をひそめるアテネに尋ねた。アテネは首を横に振る。鬼の探査……以前から行われていたみたいだが、俺の力が認められたのか、ついにお鉢が回ってきた。
「マシラは何か感じる?」
俺は耳をそばだてる。遠くから高い音が漏れ聞こえる。「子供の声が聞こえないか? 五軒くらい先かな」
「聴こえますな、行ってみましょう」
俺とセオ、アテネの三人が夜の巡回を任されてから、今日でもう二週間になる。
「腕を磨くなら、実践が一番いい」
俺に話を持ち掛けた際、スペクトラはそう説明した。
「最近スラムの子供の行方不明が多くてな。まあ元々誘拐や蒸発は多いんだが、近頃は緑衣の鬼……人攫いの目撃も相次いでる。夜道を警戒してくれ」
「鬼はヒト族しか狙わないんじゃなかったのか?」
「そう噂されてきた。だから一部の猿たちからはむしろ好意や期待の目を向けられていたくらいだ。我々は当てにしていなかったが……。その辺も含めての調査だな。鬼がスラムで目撃されるのも初めてだ。何か変化があったのか、模倣犯か、とにかく捕まえて明らかにしてくれ」
俺達は建物の上を飛び伝い、声のする方へ渡った。十歳くらいの子猿が、歌いながら歩いている。俺も猿の生活にだいぶ順応したものだ。もう猿の年齢が見分けられる。
子猿はどんどん人気のない方に歩いていく。
「警戒心無いな」
「声かけてあげた方がが良いかしら」
アテネが提案する。「待って、あそこ、何か見えませんか」セオが注意を引く。子供の後ろに何かが蠢いた。
物陰から、緑のマントを来た小男が飛び出した。子供に何か呟き、羽交い絞めにする。子供が甲高い声で助けを求める。
「間違いない、あいつだ!」
俺は屋根から飛び降りると、まっすぐマントに向かって駆け寄った。「その子を離せ!」
マントがこちらを振り返る。猿だ。明るい碧眼の猿。マントの裾から伸びた手が、子供の喉元に爪を立てる。
『動くな!』
脅し文句だと思った。だがその声が脳内に来る「予兆」だと気づくと、俺はとっさに飛びのいた。振り返ると、これまた緑の半纏を着た猿がナイフをかざしている所だった。
「勘のいいやつめ」
彼は舌打ちした。鬼は一人じゃないのか? 周囲を警戒する。『何かが顔に当たる音がした』。
俺は身をかがめる。重たそうな袋が頭の上を掠めた、背後の壁に当たって鈍く反響する。音からして、石ころか何かが詰まっていたようだ。当たっていれば大怪我だったろう。
「良い反射神経してるなあ」
わらわらと緑の集団が湧いてくる。皆一点ずつ緑の衣服を身にまとっている。芝色の半纏を着込んだナイフ、萌葱色の帽子を付けた屈強な女猿、苔むした靴を履く細身の年若い猿。マントを含めて四人。すっかり囲まれている。
「お前らが緑衣の鬼か?」
「そうだ。抵抗しない方が身のためだぜ」帽子の女が答える。
「教会といいお前らと言い、猿っていうのは群れるのが好きなのか?」
俺は額の汗を気づかれないように拭った。初めての実践だ。ヒトではないから、ゼニラタのような特殊能力はないだろうが、四人相手だ。行けるだろうか?
「この街のルールを教えてやる。〈弱肉強食〉だ!」女が腰をかがめる。なんか前にも聞いたセリフだな。自分たちで勝手にルール増やしてないか?
『去ねやぁぁあ!!!』
後ろから叫び声が聴こえてくる。俺はさっと身を翻してそのまま蹴打に繋げる。背後からの攻撃で叫ぶなんて素人だ。俺は少し落ち着く。
左足は綺麗に相手の鳩尾に入った。半纏がうっと呻く。『また石の音だ』。俺はとっさに半纏の猿を盾にする。不吉な音がして彼の力が抜ける。味方の投擲が命中したらしい。今度は棒切れか何かが空を切る音。鉄杖のようなものが肩に食い込む。こいつら仲間がいようがおかまいなしだ!
だがそれは連携がとれていない証拠でもある。俺は半纏の猿を突き飛ばすと、緑帽子がそれに躓いているうちに一撃食らわせる。『左耳の潰れる音がして』、慌てて腰をかがめると、そこを拳が通り過ぎる。さっき石を投げていた緑靴の奴だ。弾切れか、近接に切り替えてきた。俺はしゃがんだ反動を利用してタックル。壁に激突させる。『背後から杖がしなる』。右に転がってそれを回避。鉄棒は壁にぶつかり、緑帽子がそれをとり落とす。チャンスだ。すかさず俺は緑帽子の猿に殴打を浴びせる。何発かいい手応え。『向こうも負けじと回し蹴りを放ってくる』。音は聴こえたが、間に合わない。一撃もらう。だが腰が入っていない。俺はその隙に踏み込んで右ストレートを叩きこむ。顎に入り、緑帽子は膝から崩れた。
『再び背後から唸り声』。脇に避けるが、追い縋ってくる。緑靴の猿だ。俺の肩に歯を突き立てる。俺は相手の毛皮をむんずと掴み、前方に転かりながら背負い投げた。敵は背中をつき、大の字になる。俺はすかさず馬乗りになり右手を振り上げた。
「そこまでだ!」
マントの猿が制止する。子供の喉に爪を突き立てたままだ。
「派手に暴れてくたが、人質がいることを忘れたか?」
俺は拳骨を宙に浮かべたまま奴を睨みつける。マントは静かに続ける。「両手を下ろして膝を付け」下の猿はまだ意識がある。こちらが体勢を緩めれば、すぐにでも反撃してくるだろう。
「どうした? 下ろせと言ってるんだ」
「ああ」俺は脳に集中する。「言うとおりにしよう」
俺は拳を握りしめ、組み敷いた男の顔面に振り下ろした。
「お前っ……」
マントは何か言いかけたが、痰の絡んだような潰れた声が続いた。
振り返ると、ゴリアテに首を掴まれてマントの猿が崩れ落ちていたところだった。後ろからセオが姿を現す。
「危ないとこだったわね」
アテネは腰に手を当てて言った。俺は立ち上がって言い返す。
「いいや、お前の助けが入ることは分かってたさ」
子供が落ち着かなそうに倒れた猿たちを見回す。「もう大丈夫だ」俺は子猿の前にしゃがんで声をかけた。「怪我は無いか?」
『目の前で、ひゅっと空気を裂く音がした』。えっ。俺は固まる。首元すれすれを鋭い爪が通り過ぎる。
「油断召されるな」
子供の首根っこを掴んで、セオが忠告する。「離せよ!」子猿がセオの手の下でもがく。アテネが子供の首に手をあてると、彼はすぐに脱力した。眠っている。
「何だ? どういう……」
「この子供はグルです。私が引きはがしていなければ、マシラ殿も傷を負っていたところでした」
俺はすやすやと眠る子猿をまじまじと眺める。
「こいつらの仲間ってことか? こんな小さい子供が」
「そういう街なのです」セオは溜息をついた。
「最初にこの子が悲鳴を上げた時、演技だと分かりました。我々ヴァルゴ人は嘘を見抜きます。ご存知でしょう」
俺はスペクトラがそう説明していたのを思い出した。
「なんだ、それならそうと早く教えてくれよ」
「あんた、セオが引き留める間もなく突っ込んでったでしょうが」
アテネが呆れたように言う。
「他の敵も出てきたので、マシラ殿が引きつけている間にこちらの二人を眠らせるつもりでした。上手くいきましたな」
セオは倒れている猿たちを手際よく縛りあげていく。俺も用意の縄をとり出した。
「しかし、三人がかりの敵を制圧するとは、お見事ですな」
セオが感心したように付け加える。
「いや、やっぱり実践は厳しいよ。もう少し動けると思ったけど、訓練とは違うな。ゼニラタの時は無我夢中でかえって上手くいったけど、今回は緊張感があった」
俺は生傷の具合を確認しながら続ける。
「特にボディーへの攻撃はきついな。未来の音を拾っても、正確な位置が分からないと躱すのが難しい。それに近接で揉み合うと、音が混乱してくる。複数相手だったのもあるけど……」
「緒戦でこれだけできれば、大したものです」
「そうよ、自信持ちなさい」
猿たちを一箇所に転がしながらアテネが励ます。俺はマントの男の頬をぱちぱちと叩いた。マントが呻く。
「起きなさい!」アテネがマントを揺さぶった。乱暴な奴だな……。
「ぬあ……」
マントが目をしばたたかせる。ぼんやりとあたりを見回していたが、縛られた仲間を見て自分の状況を理解したようだった。縄から逃れようと必死にもがく。
「無駄だぜ。お前らに二、三確認したいことがある」
俺はセオに目配せした。セオは万事心得ているという風に肯いた。俺は再びマントの方へ向き直る。
「最近このあたりで誘拐を繰り返してるのは、お前らか」
マントは縄の結び目の固さを確かめたのか諦めて力を抜くと、不貞腐れたように答えた。
「ああ」
セオを見る。「本当のようです」
「なら一先ず問題は解決だな……。この子猿はお前の仲間で良いんだな?」
「気づいてるなら仕方ねえな……。そうさ、こいつも俺達の一味だ。お前みたいなお人好しがのこのこ助けに出てきたところを、袋叩きにして連れ帰るって算段よ」
セオが肯く。やはり、事実か。俺は子猿の顔を見る。
「まだ子供だ」
「子供だって食わなきゃ死ぬさ」
「……お前の子か?」
「身寄りの無い餓鬼だ。ここじゃ珍しくないだろ。自分からついてきたのさ」
平然と言ってのける。ここではそんなことが日常的に行われているのだ……。俺はやるせない思いで頭を抱える。セオが肩に手を掛けた。
「失礼ながら、マシラ殿。子供は守られる存在ではありません。『小さな大人』です。それは貧民窟の外でも同じこと……。迷う必要はありません」
「そう、かもしれないが……。ただ、俺のいた世界と違い過ぎてな」
あるいはそれは、どこの世界でも同じなのかもしれない。俺が見ようとしなかっただけで……。俺は溜息をつく。
「で、改めて訊くが、お前らが緑衣の鬼なのか?」
マントは俺の目を睨み返して、不敵に笑った。
「ああ、そうだ。俺達こそが緑衣の鬼!」
セオを確認する。セオは首を横に振った。偽者か……。というより、愉快犯ってとこだろうか?
「なんで鬼なんかの真似するのよ?」
アテネが口を挟む。「あれ、ばれてる……?」マントは冷や汗を浮かべた。
「おかしいな、小柄な面子を揃えて緑の衣装も用意したのに……」
「バレバレ……。大体猿を攫ってる時点で怪しすぎよ。噂と違うじゃない。服も緑っていうか茶色になりかけだし……」アテネはマントの薄汚れた服を指さした。「大体あんたじゃシルエットがゴツすぎよ。鬼はもっと痩せていたわ」
ゴツいとか、どの口が言ってるんだ……。俺は呆れたが、むしろ彼女の言葉に引っかかるところがあった。まるで……、
「まるで見てきたように話しますな」
セオが訝し気に代弁する。彼は問い質すように続ける。
「アテネ殿、それは、ど」
腐った魚を潰すような音がした。
何だ……?
俺達は振り向く。紅い筋肉が見えた。セオの肩口が引き裂け、そこから筋繊維が露出している。
その隙間から、小さな刃が覗く。赤く染まった革の手袋が、その柄をしなやかに握っている。
「っあ……」
セオは血と共にしゃがれた息を吹きだし、膝から崩れ落ちた。
彼の背後に立っていた人影が、月明かりに照らしだされる。暗い、深緑のローブに身を包んだ、子供のように小柄で瘦身の怪人。フードの奥で瞳が揺れる。それは、緑の宝石のように見えた。




