夜明け 【ハンク】
ソフィアが客室にふらりと酒瓶を持って現れたのは、夜半過ぎのことだ。
「まだ灯りがついていたから、起きていると思ってね。」
懐かしい口上に一瞬言葉が出なかった。十数年前は日常的に聞いていた台詞は、郷愁に似たものを思い起こさせる。
「報告書は書けたのか?送る前に確認したい」
差し出された手に書き上げたばかりの報告書を渡すと、代わりにグラスを手渡される。芳醇な香りと美しい色合いは、さすがに酒飲みの選ぶ酒だけあって、俺は満足の吐息をついた。昔よりいい酒を飲んでいる。片手でグラスを傾けながら、報告書を読み終えたソフィアが口を開いた。
「密輸の報告はいいが、増援は今は要らないよ。逃げられたら困る。
それより、駐屯所を町の近くに増やしたい」
「駐屯所か…」
駐屯所はソフィアが作った制度だ。伝令の中継地と災害対策用の資源の貯蔵施設を兼ねている。東と南を山脈に挟まれたこの領地は、台風による被害が多く、毎回広範囲に迅速な復興を必要とした。軍の中継地と工務局の倉庫を兼ねることで、双方の部署で人的・金銭的負担を減らした上、資源と情報の迅速な共有まで可能にした。その功績でソフィアは最年少で巡回判事の地位を得た。15年前の話だ。
「そこにお前のところから人を出してくれれば、それが一番だな」
「分かった。俺からも進言しよう」
空になったグラスに、新たな一杯を注ぎつつ、ソフィアがつぶやく。
「ここが解決すれば、やっとあの事件のすべてが終わる。と思う」
「…なんだって?」
俺たちの間であの事件と言えば、13年前の判事公邸襲撃事件しか有り得ない。
当夜、公邸にいなかったソフィアは無事だったが、階段に油を撒いて火を掛けられたせいで身内に大勢の犠牲者が出た。ソフィアの夫と息子を含めて。事態を重くみた領主から送られた援軍が到着した3日後には、まだ生まれていなかった子供をも失ったソフィアは蒼白な顔のまま捜査に乗り出していた。我々も皆、憑りつかれたかのように仕事に埋没して痛みを押し殺した。
裁判当日、一番殺してやりたかったはずの隊の裏切り者にすら「法と良心にのみ則って」公正な裁きを与えたソフィアは、誰も後ろ指を指せない正しさと誰にも正視し得ない痛々しさに満ちていて。あの場にいた誰もが、心の中で彼女に報いることを誓ったのだ。
「襲撃犯の後ろに、何者かが居たのは識ってたんだよ。あの頃から」
つぶやきながら、ソフィアがゆっくりグラスを空ける。
「あの時はつかめなかった。でも今度は逃がさない」
静かに、穏やかに、微笑みさえたたえて囁くソフィアは、あの裁判の時と同じ顔をしていた。
「これが片付いたら、やっと夜が明ける気がするよ」
そういったソフィアのグラスに、俺は黙ってもう1杯酒を注いだ。