第二話 炎の恐怖②
今日の分はやや短めかもしれないです。
ぴちょん、と湯船に波紋が広がる。
それを少しの間だけ眺めた俺は、それから全身の力を抜いて天井を見上げていたのだった。
「疲れた……マジで」
昨日に引き続き、である。
何でまたも自分がその騒ぎの渦中に居なくてはならないのかと、うんざりした気持ちそのままに、思わず重い重い溜息が漏れ出していた。
このままのペースで毎日毎日何かしらが起こっていては、精神が持たない。自分の生活が平々凡々ではない事を以前は嘆いていたけれど、今となってはその生活すら恋しく思える。
今に至るまでたった二日間の出来事だけど、余りの非日常ぶりにこれまでの“日常”が戻って欲しくて仕方ないのであった。
思えば、平々凡々ではないだけで、自分の生活は基本的に平和で平坦で、安定していたな――と。
それに引き換え、今や。
「もー何も考えたくねー……」
思い出すだけで疲れてしまう、と考えたところで不意に脱衣所に誰か入って来た音がする。
ここが百鬼組の浴場である事を考えれば、それは別段珍しいものではなくて、恐らくは組員の誰かだろう。
今の時間、男湯扱いであるこの場所は、広い事もあって一度に十人単位で入浴する事が可能だ。だから時折、俺も組員の誰かとこうして入浴時間が被る事があるのだ――が。
「……?」
何かが、おかしい気がした。
とは言え、この疲れた体では一々湯船から上がって脱衣所に顔を出すにも面倒臭くて、どうせその内分かるからと湯に浸かり続ける。
そして、それが良くなかったのだろう。出し抜けに浴室のドアを開けて入って来た人物を目にし、俺は目を剥いた。
「……オーバン!?」
「ああ、マモル。何だ、お前入っていたのか?」
「入っていたも何も、今は男湯の時間ですが!? お前今すぐ服着て出てげ!」
脱衣所の扉にだって、今が男用の入浴時間である事を示す印が張られている筈なのだが……そう言えば異世界人である彼女にとって、文字の読み書きが出来る筈も無かった。
だから今回の件については彼女に非があるとは言い切れないものの、何はともあれ今の恰好は非常に宜しくない。
オーバンとて風呂へ入りに来たのだから、当然衣服など身に着けていないし、そもそも手拭いすら持っていない。
結果、湯煙があるとは言えあられもない姿が目に飛び込んできている訳であり、俺は思い出したように彼女から体ごと目を逸らした。
「早く服着て出て行けって言ってるだろ!? 聞こえねえのかよ!」
「……残念だが、それは出来ない」
「何で!?」
「濡れ鼠なのだ。こうやって泊めて貰っている以上、何かしらの形で恩を返そうと食器洗いを手伝っていたのだが……」
どうやら色々とミスをして全身ズブ濡れになってしまったらしい。皿も割れなかったし誰も怪我人はいなかったとの事なので、大事ではないのだろうが、確かに服が濡れてしまってそのままでいる訳にもいかない。
「マミが、このままでは風邪をひきかねないから風呂へ入れって」
「母さんか……どうせ要らん気でも回したんだろうな。マジで碌でもねえ」
とは言え、いつまでも濡れた少女の体をそのままにしておくことは出来ない。幾ら今が九月とは言え、冷える時は冷えるし、特に夜ともなれば尚更だ。
仕方なしに腰へ手拭いを巻いた俺は、彼女から目を背けたまま湯船より出る。
「丁度俺も上がろうと思ってたところだ。後はゆっくりしとけ」
「ああ、配慮痛み入る。悪いな」
そんな遣り取りをしながら、俺は彼女と擦れ違う。勿論絶対にそちらは見ない様にと意識はしていたが、何とも平然とした彼女の調子に少しばかり拍子抜けさせられた。
だからなのか、緊張もほんの少し和らいで、自然な口調で彼女に応じる。
「別に謝られるような事じゃない。むしろ、俺の母親が済まなかった。けど、お前も言動には今後十分気を付けろ」
「言動……? 良く分からんが、忠告感謝する」
「分かってくれなくちゃ困るんだけどな」
オーバンの不用意な言動のせいで今日もまたあらぬ誤解を生み、まだそれが解消できたかも非常に微妙な所なのだ。
これ以上傷口を広げない意味でも言い含めておくけれど、どうやら余り意味が無さそうで深い溜息が漏れていた。
「明日が来るのが怖い……」
こんな経験、今まであっただろうか。いや、無い。
折角風呂へ入ったと言うのに全くリフレッシュ出来ない気分を引っ提げて、寝間着に着替えた俺は自分の部屋へと向かうのだった。
◆◇◆
朝。
障子越しでも分かるくらいに明るい朝日が部屋の中を程良く照らし、空気を温めていく。
チュンチュンと窓の向こうから鳥の鳴く声が聞こえ、それはまるで朝の訪れを祝福しているみたいだった。
それを耳にしながら布団から上体を起こした俺は、大きな欠伸を一つ。同時に潤んで来た目を拭うと、枕元に置いてあるデジタル時計に目を向けた。
そして、自分の顔が青ざめていくのを知覚したのだった。
「……あれ、もしかして遅刻!?」
まだ間に合いはするものの、既に危険領域へ突入したのを認識して、布団から飛び出す。部屋着を脱ぎ捨て、代わりに制服を着て鞄を掴み、部屋から一目散に食堂へ向かうのだ。
「あ、若。今日は随分と遅いお目覚めだね?」
「昨日、一昨日の疲れがまだ取れてなかったもんでね!」
「へえ……って言うか若、その髪は――」
「悪い、俺もう急いでるから!」
若い女性の組員に声を掛けられて、俺は返事もそこそこに受け取った盆の料理を掻き込む。よく噛んで――なんてことをする筈も無く、とにかく早く食う。
今日の料理も美味いなとは思いつつ、惜しいがそれに舌鼓を打つ暇もない。だって時間がないのだから。
そうして朝食を残さずに全て平らげると、「御馳走様、美味しかった」と言って食器を下げる。
それを受け取った母は、盆と交換するように弁当を受け渡そうとして、ふと怪訝そうな顔をすると動きを止めた。
時間がないのにそんな反応をされては苛立ちも募る訳で、だけど怒鳴る訳に行かず急かしていた。
「何? 母さん、俺急いでるから早く弁当を……!」
「あ、そうね。……けど護、その髪は一体何があって――」
「ごめん、もう限界! 帰って来たら聞くから!」
何かを言いたそうにしている母からひったくるように弁当を受け取り、今度は洗面所へ。
即座に顔を洗い、歯を磨き、そこでもういよいよ限界時刻に突入したのを確認する。
鏡を見てじっくり寝ぐせとかを気にして最低限直したり、もしくはトイレへ行っている暇すらも無さそうだった。
「……行ってきます!」
玄関の向こうから「気を付けてー」とか「がんばれー」とかの言葉を耳にしながら、通用門を出てから自転車に跨り、そして漕ぐ。
そうまで頑張る理由は簡単で、無遅刻無欠席の皆勤賞、それを何としてでも失いたくなかったのである。
間に合えー! と心の中で叫びながら、俺は電車にも負けない速度で、人っ子一人居ない車道の端を爆走していたのだった。
始業を告げる鐘が鳴り始める。
だけど俺は、まだ走る。既に自転車は駐輪場に停め、誰一人として居ない学校の廊下を全力で駆けていたのだ。
――間に合え。まだ、いける。
他の学校でどうかは知らないけれど、少なくとも我が学校の我がクラスでは、鐘が鳴り終わるまでに着席して居れば遅刻扱いにはならない。
もうすぐそこにまで迫った一年C組のドアを前に、手を伸ばし、開ける。
果たして、どうにか間に合いそうだ。
そこから更に教室を駆け、鐘が鳴り終わろうとしたまさにその瞬間、自分の椅子に腰を下ろした。
「――っ!」
セーフ。
遅刻を免れたという事実に安堵しつつ、荒い呼吸を落ち着かせようと深呼吸を繰り返すのだが、そこでふと周囲から向けられた視線に気付く。
『…………』
「……な、何?」
返事はない。
誰もが、教師すらも、驚いた顔をして俺を見ていて、ただ遅刻を回避しただけにしては集まりすぎている注目に、些か面食らっていた。
もしかして、何か知らぬ間に変な事をやらかしたりしていたのか――と思いながら記憶を探っても、別に思い当たる節は無い。
なら自分の顔や体に何か変なものでもついているのかと思って確認してみても、変なところなど何も無かった。
再度、周囲に何事かと訊ねてみようと思い掛けたその時、硬直した空気を戻すように担任教師――武者 孝之は言ったのだ。
「一先ず今日の欠席は無し。俺の方からの連絡事項もない。じゃあ今日も一日気を付けてな」
それに続く「へーい」という生徒たちの返事は、いつもとは異なりどこか動揺が滲んでいて、おまけにまだ俺に注目が集まっていたので否応にも不安を掻き立てる。
それに耐え兼ねて、偶々目が合った隣の席に座っている土喰 真成に問いかけていたのだった。
「なあ、何かあった?」
「いやいや、それは俺らの台詞だからな? だってお前、髪が……」
「は?」
一体何を言っているのだろう。そう思いながらも言われるがまま、己の髪に手をやってみる。だけど、触ってみた限りでは何も変化はなくて、益々謎は深まるばかりだった。
「俺の髪がどうしたって?」
「何だ護、しらばっくれんじゃねーよ。幾ら何でも白々しいぞ」
「いや、だから何の事だか……」
幾らそれを言われた所で、自分の髪の全容を把握できる筈も無い。少なくとも触った限りでは何の変哲もないのだから、そうなれば後は周りに聞くほかなかったのだ。
しかし、その質問がいい加減煩わしく思ったのか、土喰は苦笑しながら言っていた。
「お前本気で言ってんの? だったら一回鏡を見るか病院行ってきたほうが良いぞ?」
「……酷い言われ様だな。勿体ぶらずに教えてくれよ。俺の髪に何か変な所でも?」
「大ありだよ。良いから一回、トイレにでも行って鏡見て来い。本当に気付いてないんだとしたら、ヤベーぞ」
そこまで言われては、もう自分で確かめる他ないだろう。幸いにも一時間目が始まるまでに、トイレへ行って戻ってくる程度の時間はある。
尚も自分にだけ集まる視線に居心地の悪さを覚えつつ、俺はトイレへと向かい――驚愕した。
「……え?」
鏡に映るのは、見慣れた自分の顔。その表情には驚きがありありと見て取れて、事実思考も停止していたくらいだった。
だけどそれもそこそこに、俺は再度現実を確認するように鏡に映った己の顔を、正確にはその髪を凝視した。
何故ならば、自分の髪の色が変わっていたから。
見慣れていた筈の我が黒髪はどこへやら、それは赤黒く紫味を帯びた……赤葡萄酒色とでもいうべきものへと変色していたのである。
暗ければ目立たないだろうけれど、少なくともこの昼間の学校においてその色はこの上ないくらいに存在感を発揮していて、教室内での注目をかっさらったのも納得の色合いだった。
「うー……ん、とぉ」
どうしよう。こんな髪色で学校に登校してしまっては、もう取り返しがつかない。確実に担任から職員室へと話は行っているだろうし、何よりも面倒臭いのは――生徒指導。
何故なら校則で髪染めは禁止されているのである。他にも髪形などに幾つか規定はあるけれど、概ねそこまで厳しいものではない。
だけど、流石に染髪は不味い。いや、髪を染めた記憶など欠片もないのだが、昨日まで黒髪だったのが赤葡萄酒色になって居ては、弁明しようにも難し過ぎた。
昔、どこかの学校で髪染めを巡って裁判が起きたとか言う話も聞いた事があるけれど、今回に関しては状況が違い過ぎる。
元々の髪が茶髪などだったのではなく、今朝からいきなり髪の色が変わってしまっていたのだ。当然、そんな話をしたところで誰も信じてくれるとは思えなかった。
「早退しようかな……」
いや駄目だ。無遅刻無欠席無早退の夢が果たせなくなる。断じて早退をする訳にはいかなかった。
そうなると残された手段は一つ。
つまり、大人しく怒られるしかなかった。