第二話 炎の恐怖①
帰宅してみれば、案の定我が家は上へ下への大騒ぎになっていた。何故なら、ヴィオレット・オーバンが家から忽然と姿を消していたからだ。
彼女は一体何処へ行ったのかと、誰もが血眼になって家の周囲をうろついていて、その光景は事情の知らない近隣住民からしたらさぞかし威圧的に映った事だろう。
もっとも、そんな捜索劇も俺が彼女を連れ帰った事で無事に収束し。
小言を言われて若干だけ反省した様子のオーバンを伴って、俺は自室に籠るのだった。
「……それで、帰り道でも言ったけど、知ってる事を洗い浚い喋れよ」
「分かっているさ。しかし、君だけで良いのか? 他の皆にも私の話を聞いて貰った方が……」
「そんな事をしたら余計に騒ぎが大きくなるだけだ。お前がいきなり風呂場から出て来たってだけでも偉いことなんだからな」
昨日起こったばかりの事だけに、今思い出しても気が重くなる。あの時、自分がどれだけ大変な思いをしたか……恐らく彼女は幾ら言われた所で理解出来ないのだろう。実際、そんな顔をしている。
蹴り飛ばしてやろうかとも思ったけれど、そんな事をしていては話が進まないだけに、俺は胡坐を掻いた足にキジトラ猫――虎兵衛を乗せてから話を促していた。
「時間は有限だ。ほら、話せ」
「そこまで言うなら良いだろう。……なら、マモルは多元宇宙論と言うものを知っているか?」
「マルチバース? 何それ」
英単語っぽいものが聞こえたけれど、仮にそれが英語だったとしても理解は出来ない。
思わず怪訝な顔をして問い返してみれば、彼女はそれだけで色々悟ったのか瞬時に噛み砕いた説明をしてくれた。
「要するにこれが並行世界だと思ってくれれば良い。幾つかの説があるから厳密には解釈が違ったりもするが……この世界にはそう言った事の知識もないのか?」
「パラレルワールド、は流石に聞いた事あるぞ。なめんな。俺達の世界とは別に、並行して存在してるとか。主に漫画とかの知識だけど」
「その知識があるのなら話は早い。私が居た世界――君達から見れば異なる世界は、つまりその並行世界という訳だ。そしてこの並行世界は膨大な数が存在する、とされている」
何分、研究途中であるが故に断定は出来ないと、彼女は語る。
「これについては考えられるパターンは幾つもあるからな。現状分析して確証が得られないのだから、存在を肯定も出来なければ否定も出来ない。実際に観測するまで分からない、確定しない。並行世界とは、ある意味で量子的な存在だと思ってくれ」
「はぁ……」
分からない。取り敢えず彼女が言う限りではパラレルワールドがたくさん存在する点だけは理解が追い付くけれど、量子とは何だ。
しかし、そんな疑問を置き去りにして彼女の話は続く。
「で、あらゆる可能性を考えた時、さっきも言ったように並行世界と言うものが膨大な数存在するかもしれない、と考え付く訳だ。例えば、君や私が生まれなかった世界とか……魔法が存在しない世界とか」
「まあ、そんな風に考えて行けば地球の砂より多いパターンが出て来るのは当たり前だな。規模大きすぎて脳味噌がこんがらがりそうだけど」
「多元宇宙論についての解釈は色々あるから、私の話が正しいとは限らない点は注意してくれ。だが現状、概ねその理論の通りである事は私を見れば分かるだろう?」
「確かに、魔法を使う人間が目の前に居る訳だし」
異世界に住む生命体が人間である保証など何処にもない。だけど事実、俺は今目の前に人間の少女を視認し、会話している。
彼女が地球とはちょっと違う、魔法の存在する世界からやって来た事は間違いないのだろう。
「互いに言語を解し、人の形をしている……奇妙な一致はそれだけではない。君が話す言語、確かニホン語とか言ったな。私達の世界では、その言語の事を大八洲語と呼ぶ。驚く事に文法から単語に至るまでが酷似しているのだ。そうでなければ、この言語翻訳が上手く作動してはくれまい」
「言語翻訳……やっぱりそういう仕組みなのか」
頷きながら俺が目を向けるのは、オーバンの後頭部にあるカチューシャのような機械である。それは今も起動している事を示す様に時折微かな青い光を点滅させていた。
「ああ。この機器について詳しい説明は……したところで分からないだろうな。まぁそういう事だ。加えて街並も異国情緒があるとはいえ、私達の世界とそう大差がない。これこそ多元宇宙論の言う“ちょっとずつ違う世界”って奴だな」
その“ちょっと”がたった一つの違いであったり複合的な違いであったりもするのだから、前述の通り並行世界は無量大数と言って良いくらいの数が存在する訳だ。
「さて、そんな世界から私は飛ばされて来た訳だが、ここで漸く本題だ。何故、魔力が存在しない筈のこの|世界で魔力が感知されたのか(・・・・・・・・・・・・・)」
「…………」
自然、表情が引き締まる。だが、膝の上に乗せた猫を撫でる手は止めない。今もぐるぐると気持ちよさそうな音を立てて、見事に丸まって「ニャンモナイト」を作っていた。
思わず緩みそうになる表情筋を強引に押さえつけて平静を装えば、オーバンもそれには気付けなかったらしい。真面目な顔で話を続けていた。
「夕方にもチラッと言ったが、恐らく私をこの場所へ転送したような“歪”が他でも多数発生したと見て良いだろう」
「“歪”……それが発生するとどうなる?」
「こことは違う世界との繋がりが生じてしまう。とはいえ、私とてこんな経験は初めてだから全てを予測する事は不可能だが、私のようにこの世界へ転送された“向こう”の人間が居ても一向におかしくはないし、或いはこの“歪”を通って魔力だけがこの世界へ流れ込んだのかもしれない」
その事は、確かに彼女が夕方に言っていた。しかし、それでも納得のいかない事がある。
「けど、だからってどうして俺達の世界の人間が魔法を使えるようになる? おかしいだろ、元々この世界にはそんなもの存在して無いんだから……」
「全く以ってその通りだ、私にも分からん。言っただろう、こんな経験は初めてだと。そもそも並行世界へ飛ばされるなど、私の世界でも経験者はいない筈だ。少なくとも記録には無い」
未知の事だらけでどうにもお手上げなのだと、彼女は肩を竦めて小さく笑う。
「この世界と私の世界では恐らく物理法則すら大なり小なり異なる。仮に私が向こうから機械を持ち込んだとして、解析が上手く行くとも思えんし……そんな機械をここで拵える訳にもいかない。仮にそれが出来る技術があったとして、一体どれだけの費用が掛かるか」
「それもそうだな。まだまだ理解できない事ばかりだけど、一先ず納得はしといてやる」
「そうか、なら説明した甲斐も少しはあったのだろう。他に何か質問は?」
「ああ……じゃあ、一つ。お前はホントに元の世界へ帰りたくねえの?」
口にしつつ、俺は迷っていた。
果たしてこれは訊ねて良いものだったのかと。
何故なら既に彼女は言っていたのだ。この世界で様々な機械を揃える事はまず不可能だと。
だとすれば帰還用の準備をするのだって一苦労……いや不可能であるかもしれなかった。そんな事実は、素人である俺よりも科学者らしい彼女の方がより知っている筈である。
それを俺の口からも突き付ける事になるのは、この歳下の少女にとって些か残酷かと思ったのだ、が。
「戻れればそれに越した事は無いだろうが……まあどちらでも良いさ。戻ったら戻ったでやる事も山積みだろうしな」
「本当に? 凄いなお前……」
強がり、ではないのだろう。本心からそう思っている様子の彼女を見て、心の底から感心する。もしかしたら心の奥底では心細さを抱えているかもしれないけれど、それをおくびにも出さない辺り、精神的な強さが窺える。
たった十三歳かそこらだろうに……と思いながら称賛の視線を向けていると、彼女は不満そうに頬を膨らませた。
「今、私の事を子供扱いしなかったか?」
「子供扱いって……いや、でも実際凄いからさ。俺にはそう言うの出来る気がしないし」
「な、舐めるな! 全く触れて来ないから油断していたが……私はこれでもれっきとした十六歳だ! リュテス大学院のプルースト研究室所属、ヴィオレット・オーバンなんだぞ!?」
「……え、年上?」
ばん、と卓袱台を叩いて身を乗り出してくる彼女の迫力に押されてか、俺の膝上で寝ていた猫の虎兵衛はそこから離脱していた。
残された温もりに一抹の寂しさを覚えている間にも、オーバンの追及は続く。
「良くも私を子供扱いしてくれたな! 君の方こそ幾つだ!? 見た感じ……十八歳くらい?」
「十五だよ。悪かったな老け顔で。つかお前に年上かってさっき訊いたじゃねえか」
強面である事の悲しい性だ。長身でがっしりとした体格のせいもあって、年相応に見て貰えることが少ない。
これで得する事もあれば損する事も間々あって、自分が平々凡々とは程遠い存在である事を痛感させられるのだ。
「……そうか、年下か。それは失礼した。それにしても東界系の顔立ちは幼く見えると聞いていたが……まさか逆だとはな」
「俺が特殊なだけだよ。コイツなんかはお前と同い年だ」
「この写真の……何だって!? 年下かと思った!」
「綾音がお前を見てもそう言うだろうな」
愛嬌のある笑みを浮かべてウィンクをする幼馴染の少女が映った写真を眺めながら、俺は苦笑する。
もしも彼女がこの場に居た場合を考えると、驚きの余り騒ぎまくって話が先へ進んでくれないだろう。オーバンの件について全く知らせないのは正解だったと思いながら、何の気なしに暗くなった窓の外を眺めた時だった。
「……お?」
「何だ、この音は?」
「防災無線だな。どうも火事っぽい」
ウー、と市内に幾つも建てられたスピーカーが喧しい音を立て、続くアナウンスが火事の発生とその所在を告げる。
最寄りの消防団の出動も促され、少ししたらあちこちから消防車のものと思しきサイレンが鳴り響いていた。
「距離はあるけど、結構規模が大きそうだぞ。朝になったらニュースになるかも」
「なるほど。昨日も火事があったらしいが、ここは忙しい街だな」
「もしかするとこれも、昨日俺が見たあの男の仕業かもしれないんだよな。嫌になるよ」
これもまた、昨日の事。
出し抜けに神社の境内に生えた木を燃やし、おまけに火球と思しきものまで飛ばして来た人物の事を思い出し、顔を顰める。
とは言え、今から現場に向かったとしても近寄れないだろうし、何より遠い。分かる事など無いのは目に見えて居る以上、ここでの思考は放棄せざるを得なかった。
「……オーバン、何はともあれ暫くウチに居ろ。行く宛てなんて無いんだろ? 帰るにしろ、帰れない帰らないにしろ、拠点は必要な筈だ」
「そうさせて貰う。だが良いのか? 私は荒唐無稽な事を言う不審者で、縦しんば私の話が事実だとしても明らかに不気味な存在だと思うが」
「百鬼組はそう言う奴らの受け皿なんでな。異世界人は初めてだけど……無理に追い出したりはしねえさ」
「感謝する。本当に助かった。もしもこれで何かの拍子に追い出されたら、行き倒れ確定だったし」
「嫌なこと言うなよ……」
ホッと胸をなで下ろして見せる彼女の言葉に、思わず苦い表情を作る。しかし彼女の口にした可能性は、まだゼロではないのだ。
今のところ、父さんも母さんも他の構成員も、彼女の正体を知らない。だというのにこの家に一泊させている時点で尋常ではないけれど、もしも彼女の正体を知ったらどうだろう。
恐れて、遠ざけようとしないとも限らなかった。
やはり他の誰にもこの事を聞かせなくて正解だったと思いながら、俺は座布団から立ち上がる。
「さて、そろそろ飯の時間だ。お前も食うだろ?」
「勿論だ。結構な距離を歩き回ってもう腹もペコペコだよ。それにここの食事は美味い。何が出てくるのか楽しみだ」
ドアノブを開け、自室を出る。伴ってそれを待っていたらしい猫の虎兵衛も部屋を飛び出し、廊下を駆けて家のどこかへ消えて行った。
もうちょっと撫でたかったなーと思いつつも、それを我慢して俺は彼女と共に居間であり食堂でもある大部屋へ向かう、が。
「若、部屋でその娘と二人きりになって何やってんですかい?」
「俺らが女の子を必死になって探してるところで本人を連れて帰って来たかと思えば、そのまま部屋に籠った限でしたし……もしや」
「いや何もしてねーよ。ちょっと色々話しただけだ」
居間の襖を開けるなり、構成員たちの耳目が集まり、そして質問の集中砲火を浴びる。
余りのしつこさに辟易としながらも、放置する訳にはいかなくて一つ一つへ答えてやれば、それが面白くないのだろう。不満気に「ちぇー」と誰かが言ったかと思えば、その矛先がオーバンへと転換していた。
「嬢ちゃん、若と何してたんだ?」
「随分長いこと籠ってたけど……本当に何も無かったんか?」
「まぁ、色々とな。私の方から話さねばならない事もあったし」
彼女とて、自分の素性を迂闊に明かすのが危険であるのは重々承知しているのだろう。その受け答えは迂闊な事を言ってしまわない様にと配慮がされていた。
俺が僅かに視線を向けてみれば、分かっていると言わんばかりに灰色の目を一瞬だけこちらに向け返している。
だが、安心するにはまだ早かった。そう、早かったのである。それを示す様に、彼女は話を続けていた。
「私もハジメテの事で色々と戸惑ってな。余りマモルの頼りになってやることは出来なかった」
「……え、嬢ちゃんそれってまさか」
「オーバぁぁぁぁぁぁぁン!?」
足りない。言葉が圧倒的に足りない。確かに肝心の部分をぼかしてくれているから、彼女の素性についてこの会話で気付かれる事は無いだろう。
だが、これではまた違う解釈――つまり誤解を招いてしまうのは当然で。
「……若、ゴムしました?」
「してねーよ! そもそもそんな事は何一つとしてやってねえからな!?」
温かい目を向けられて、それが耐え切れなくて両腕を振り回して否定する。
だけど、俺が否定する事に躍起となって居た結果、危険物は尚も火種を発射し続けるのだ。
「マモルも初めての事だろうに、そのくせそんなに動じなくてな。私の方はびっくりしたくらいだ。それに、暫くこの家に居てくれても良いと言ってくれた」
「それはつまり、付き合ってすぐに同棲するって事……? 若って童貞のくせして意外とその辺の手が早いんだな。尊敬するぜ。いや、もう童貞じゃねえし責任感が強いロリコンって言えば良いのか」
「俺は童貞だし彼女いないし同棲もしないしロリコンじゃねえよ!」
ツッコミどころが多過ぎてツッコミするのが大変である。だがその中で何よりも真っ先に排除すべきは彼らの誤解であり、そして誤解の源を量産するオーバンだった。
しかし彼女は、自分が元凶である事に全く気付いていないのか、こちらを見て不思議巣に首を傾げていた。
「何だ、何が問題なのだ? 別にこの程度、隠す事でもあるまい?」
「お前もうわざとやってるだろ! なあ!?」
駄目だこれは。誤解を解くよりも先に全ての元凶の口を塞がなくてはどうする事も出来ない。苛立ち紛れに彼女の柔らかい両頬を片手で挟み、それで強引に黙らせる。
アヒルの嘴のようになってしまえば、流石に幾ら喋ったところで言語になり得ないのだろう。うーうー言っているけれど、何を言っているのかは分からない。
その間に周囲に居る野郎どもの誤解を解いてやろうと思っていたのだが。
「何、何の騒ぎ?」
「おお、これは女将さん! 実は若がですね……」
「止めろ母さんに言うんじゃねえ!?」
女将と呼ばれる女性の名は、百鬼 舞美――つまり俺の母親である。丁度今日の料理当番で台所に居たのだろう。襖を開けてひょっこり顔を出した彼女に、組員の一人が手早く説明をしていた。
当然、制止が間に合う筈も無くて。
「護、責任取ろうって気持ちは良いけど……ちゃんと避妊した? 今日部屋を掃除した限りだと、どこにもそう言う類は見当たらなかったよ?」
「アンタ息子の部屋で勝手に何してんのかな!?」
「そりゃ、昨日だってオーバンちゃんと夜遅くまで話してたんでしょ? 何かあったかもって思うのは普通じゃん」
「だ・か・ら! 何もねえって言ってるじゃねえか!」
何でだ。どうしてだ。何故、ここに住んでいる人たちは俺の話を聞いてくれないのだろう。糠に釘を打っている気分になりながら、それでも諦めずに俺は誤解を解こうとする、が。
「何じゃ、何か面白そうな気配がするな」
「引っ込んでろ糞爺!」
ニマニマと笑みを浮かべた新たな闖入者、祖父の百鬼 源治に蹴りを見舞う。だけど彼も只者ではないのか、歳の割に俊敏な動きで顔を引っ込め、蹴りを躱していた。
そしてこの結果、俺は押さえていたオーバンの頬から一時的とは言え手を放してしまう事となり。
「……マモル、急に何をする! 痛いじゃないか。部屋ではあんなに優しかったのに……」
「へえ、護って布団の上だと優しくなるんだ? それは女の子的にもポイント高いぞ」
「もぉぉぉぉぉ嫌だぁぁぁぁぁぁぁ!」
こんな家、今すぐにでも出て行ってやろうか。いや、それは大学入学まで待つべきか。一人暮らしにつきものである自炊諸々の家事なんてしたく無いし、出来る限り楽はしたいのだ。
だけど、高校卒業までどれだけ頑張ってもあと二年と半分。この家でその時間を過ごす間に、俺の精神はどうにかなってしまいそうだった。