第一話 並行世界からこんばんは!⑤
突如として我が家の浴室に姿を現した謎の少女、ヴィオレット・オーバン。彼女が一体何者で、どこからどうやって、何の目的でここにやって来たのか。
その謎は、とうとうその時間に判明する事は無かった。
彼女があまり多くを語りたがらなかった事もそうだが、何より皆が俺の追及に労力を割いて、それ以外の事を差し置いてしまったから。
確実に優先順位が間違っていると思ったし、俺はそれをたびたび指摘したのだが、彼らは聞く耳を持ってくれなかった。
結果、あっという間に時間は過ぎ、夜は更けてしまったのである。
「……ああ、疲れた」
今日は余りにも色々な事が起こり過ぎて、もう何もする気が起きない。時間的には結構早いが、とっとと布団を敷いて寝てしまおう――と思いながら自室のドアを開けてみれば。
「……お前、何してんだ?」
「ん? ああ、君は確かマモルだったか? いや失礼、少しこの世界……もといこの国の文化に興味があったのだ」
「だからって人の部屋散らかさないでくれるかな? 俺、もう結構疲れてるんだけど」
普段、綺麗に整理整頓されている筈の部屋は、それはそれは酷い有様だった。本棚に順番通り並べられた教科書やノート、娯楽本も何もかもが床の上に散乱し、それは通学鞄の中も例外ではない。
全てが取り出され、まるで暴風でも通り過ぎたかのような惨憺たる有様が出来上がっていたのだ。
おまけに、この部屋は猫も居る。いや、この部屋だけで飼っている訳では無いのだが、猫どもが我が家の中でもここを安息の場所としているせいで、基本常駐しているのである。
で、その猫が散乱したそれら書籍を前にして何もしない筈はなく。
この腐れニャンコは好奇心の赴くまま、爪を立て、牙を立て、ページを捲ってあああああああああああああああああああああ。
「とんでもねえ大惨事じゃねーか!?」
ビリビリと不穏な音を立てて裂かれていくノートたち。幸いにも、ノートに比べて分厚く開きにくい教科書や参考書の損害は軽微だけれど、ノートだけでも結構痛い。
次のテストに何が出るとか、諸々のメモまで書かれていたと言うのに、それが水の泡のように消えていくのだから。
「黒兵衛! お前なんて事を!?」
もはやノートが負った甚大な被害をどうする事も出来ない。だけどこれ以上の被害拡大を防ぐため、黒猫の首根っこをむんずと掴み、持ち上げる。
重さにして五、六キロだろうか。平均的な猫より割とふくよかな我が家の愛猫は、ニャーと鳴きながら太々しい顔を俺に向けていた。
それがまた何とも小憎たらしくて、可愛くて。
「オメー覚悟しとけよ? 後でモフモフの刑に処してやるからな!」
「ニャー」
「楽しそうだな。だが静かにしてくれ、私が集中できない」
「誰のせいだと思ってんの!?」
一先ず黒猫は部屋の外に放り出し、締め出す。こうしないとまた破壊を繰り返すのは目に見えているのだから。
そうしてから俺は改めて部屋を見渡し、やがて卓袱台の上で呑気に数学の教科書を開いている少女――オーバンに目を向ける。
「なあ、お前なんでここに居るんだ?」
「何でって、言っただろう? この国の文化とかに興味があるんだ。それに、マミという女性が教えてくれた。ここに来ればいいものがあるぞと」
「母さんかよ……」
思わず天井を仰ぐ。室内を照らす灯りが目に焼き付くくらい眩しかったけれど、そんな事も気にならない。もう、このまま背中からぶっ倒れてしまいたいくらいだった。
だけどそれを気合で押し留めると、再び目の前の少女を睨み付ける。だが、当の本人は俺の視線も何のその、一切の反応を見せず本に没頭していた。
「あのさ、ホントここへ何しに来たの? ゴール共和国とかやっぱり調べても見当たらないし……何者なんだ?」
「…………」
「おい、返事しろって!」
「うん? おっと、済まない。少しこの本に見入ってしまってな。もう少しで解読できそうな気がして」
ペンも持たず、彼女が沈黙して凝視していたのは、数学のある単元のページだった。
それは丁度、今の自分が学校で習っているところでもあり。
「解読って、図形と計量の……正弦定理? 何でこんな物解いてんだ?」
「簡単だからだ。これなら類推するのも難しくない」
「簡単て……」
結構難しいと思うけど、という言葉を飲み込んで少女の横顔を眺める。やはりどう見ても彼女の顔立ちは幼くて、少なくとも俺よりは年下だろうか。
だというのに、そんな少女が教科書を見て簡単だと言う。若干己のプライドが傷付けられないでもないが、同時にふと思うのは彼女が見栄を張っている可能性だった。
いや、そう考えるのが普通ではなかろうか。だとすれば今の彼女の姿勢は何となく微笑ましいものに思えて、優しい口調で言っていた。
「その類題の解き方の仕組み、分かる? ヒントは……」
「あー、必要ない。もう解けてはいるんだ。問題はその後だな」
「その後?」
「丁度良い、教えてくれ。ここに記されている数字は、“三”を意味するものなのかな?」
そう言って彼女が指差すところに記されていたのは、確かに算用数字の3だった。というか、そんな当たり前の事を訊いて何だと言うのか。
小学生、下手をすればそれ以下でも容易に理解出来る様な内容を確認されて、俺はこの目の前に居る少女の評価を「背伸びした少女」から「残念な少女」に格下げしようとした、その時。
「なるほど、ではこれが一で、二と。何だ、少し字形が違うだけだな。やはりそんなに難しくない」
「……何のこと?」
「あ、そう言えば君には何も説明していなかったか。実はこのせか……いや、この国の文字には少々疎くてな。この簡単な問題を解いて自分なりに解読してみたのだ」
「自分なりに、解読?」
意味が分からなかった。というか、どこかで決定的に会話がかみ合っていないのだろう。
いまいち彼女の発言の趣旨が理解出来なくて、俺は眉を顰めながら問い返していた。
「その……算用数字って、漢字とかと違って大体の国で広く通用する当たり前の文字なんだけど、知らなかったの?」
「えっ? ……あ、ああ、そうかそうか、うっかりしていた! 私としたことが、下手に頭を打ったせいでおかしくなったのかもしれんな」
あはははは、と誤魔化す様に手当てされた頭のタンコブを撫で、オーバンは笑う。だけどそれがどう見ても白々しくて、ほんの少し俺は目を細める。
そして彼女から目を離さずに、俺は丁度近くに落ちていた分厚い本の一つを手に取った。
「な、何だマモル? 顔が怖いぞ」
「気にするな生まれつきだ。あと怖い言うな。……ところで一つ訊きたいんだけど、オーバンの言うゴール共和国ってのはこの地図のどこにある?」
「ち、ず……? えと……それは」
「分からないのか? 自分の母国なのに」
「ま、まあ……」
広げられた地図を見ても、彼女は顔色を悪くして、若干の汗を掻きながら視線を逸らすだけ。何も明確に答えず、何も指摘しなかった。
その時点で、既に俺の術中であるとも知らずに。
「因みに、今居る日本はこの辺だ。何となく見覚えは?」
「い、言われてみればー……そうかもしれないなあ」
「そっかそっか、良く分かった。変な事を訊いて悪かった」
そう言って俺はその本を閉じ、卓袱台から下げる。
それを見て、少女は一難去ったとでも思ったのだろう。分かりやすく安堵の雰囲気を見せていて、表情も柔らかいものとなっていたのだった。
「いや、分かってくれれば良い。私だって自分の母国の場所を把握できていない訳だし……」
「時にお前、何者だ?」
「え?」
低く、そして鋭い視線を向けて問うてみれば、彼女の表情は一瞬にして凍り付いた。まだまだ虎口を脱するには遠いのだと今更ながらに気付いたのだろうが、もう遅い。
こちらは余裕を見せつけるように卓袱台へ肘を突き、掌の上に頬を乗せる。そして尚も彼女の灰色をした目の奥を見透かすみたく視線を向け、再度問うのだ。
「お前が嘘を吐いてるのは分かってる。何やら隠し事があるのもな。そろそろ正直に語ったらどうだと言っているんだ」
「なっ、何を根拠に……!?」
「根拠ならある。これだ」
「それって、さっきの地図が載ってる……」
俺が片手で持った分厚い本、その表紙を見せてやれば、彼女はそれがさっき見せられたばかりものであると即座に気付いたのだろう。
しかし、その表紙に書かれた文字も全く理解出来ないらしい。もっとも、そこについては漢字文化圏でも無ければ無理もない点であるが――問題はそこではない。
「先程俺がお前に見せたのは、二億五千万年前の地球の地図だ」
「え」
俺が手に持つその分厚い本の名前は、地球図鑑。具体的には小学生とかに向けられて作られたもので、その内容は地球の今に至るまでの成り立ちが図説付きで記されている。
当然、そこに記されている地球は、大陸は、現代の物と大きくかけ離れている訳であり、実際に俺が彼女へ見せたページの地図は空前絶後の超大陸――パンゲアのものだった。
「その地図を見せられてもお前は何も疑問を挟まず、挙句には俺が適当に指した場所を日本だと言ったら、見覚えがある様な反応をした」
「そっ、それは話しの流れで適当に合槌を……」
あわあわと、明らかに狼狽えだした様子の彼女を見て、俺は確信を強くする。間違い無く彼女は何かを隠していると、その疑念をより一層強くしていたのだ。
「仮にそうだったとしても、そもそもの初めからお前はおかしい。風呂場でいきなり何も無い場所から姿を現し、後頭部にある機械を付けてからは俺達と簡単に意思疎通まで取る様になったな」
「……ま、待ってくれよ。私は」
「挙句、算用数字すら読めない。世界地図も知らない。その様子じゃアルファベットも読めないだろ。ほら、これが何語か当ててみろ」
追い込む。ここで一気に決める。
そう考えながら俺は英語の教科書を見せるが、案の定オーバンは顔を引き攣らせて黙り込んでいた。
「決まりだな。お前はどこから来た?」
「わ、私は……」
「私は?」
さあ吐けと、先を促す。
彼女が何を口にするのか。それは全く見当がつかないけれど、少なくとも俺はその答えに凄く興味を魅かれた。
それもそうだろう、あんな意味の分からない事態に遭遇し、今に至るまで散々な目に遭って来たのだ。毒を食らわば皿までではないが、ここで中途半端にお預けを食らいたくはなかった。
すると、ここに来てオーバンもとうとう観念したのだろう。長く、深く溜息を吐いた彼女は、俯かせていた顔を持ち上げると真っ直ぐに俺を見据える。
「……分かった、話せば良いんだろう?」
「その通りだ。ただし、嘘は許さねえけど」
「なら私は話さないぞ」
「何でだよ。さっき話すって言ったじゃねえか」
「話したところで、嘘だと言われるのがオチだからだ」
つーん、とそっぽを向く彼女に、思わず頬が引き攣る。ここに来てまだ渋るのかと苛立ちが募るものの、それを堪えて先を促していた。
「分かった、取り敢えず話せ。話はそれからにしよう」
「……本当だな?」
「良いから早くしろ。俺はそんな気の長い方じゃねえんだぞ」
窺う様な視線を向けて来る彼女にそう言ってやれば、ここで遂に彼女も決意したのか再び俺を真っ直ぐ見据えた。
そして。
「……私は、ムンドゥスと呼ばれる世界の住人だ。マモル達とは……そうだな、相互に並行世界であると言えるだろう」
「はぁ?」
この少女は、何をとち狂った事を言っているのだろう。
当然、俺はそんな風に思って彼女を見遣る。
だけどオーバンの表情は、目は、どこまでも真っ直ぐで真剣に俺を見ていた。何となくそれが空恐ろしくて、だから大袈裟に肩を竦めて笑う。
「並行世界だぁ? 何を言うかと思えば」
「私だって最初は信じられなかったさ。けど、ここは私の知る世界と違う。似てはいるが、確実に違う。マモルだって、私がこの世界に馴染めていないと思ったから問い詰めてきた筈だ」
「確かにそうだけど……じゃあ、証拠は?」
言うだけなら誰にでもできる。或いは俺に本当の正体を知られたくないから、彼女は気が狂ったふりをしているのかもしれない。
だとしても、一方でそんな演技をしてまで俺の家に潜入する意味があるのかと考えている自分も居た。
結局のところ、何を言っても分からない。判断のしようがない。嘘っぽいけれど、嘘と断定する材料もまた無い。だから一先ず、彼女の言う事があり得ないと証明したかった、が。
「……分かった、私がこことは異なる世界の住人である事が証明できれば良いんだな?」
「何かあるの? どうせハッタリとか、種も仕掛けもあるトリックしか……」
「さて。これを見てもそんな事が言えるのかな?」
挑発的な俺の態度に応じるように、どこか挑発的な口調のオーバンがそう言った途端、何も無い空間に石器のように尖った石が出現する。
そう、何も無かった筈の場所に、いつの間にか鋭い石が浮いていたのである。
「何だよ、これ!?」
「……これが証拠だ。どうだ、納得してくれたか?」
「納得って、いや待て。やっぱり何かのトリックが」
放り投げられた石を受け取ってまじまじと観察するが、やはりそれは何の変哲もない冷たい石で、少なくとも手や服の中に隠されていたとは思えない。
だとしても、自分では思いつかない様な手段で隠されていた可能性だって否定出来ない筈――と思っていると、それを見透かしたように彼女は語る。
「確かにこれにはタネも仕掛けもある。だが少なくともこれは私の世界ではあり得ることである反面、この世界ではまず起きえない事象でもあるな」
「う、嘘を吐くな! どうやって石を隠して、その上で浮遊させたかは知らないけど、何かしら仕組みが……」
室内を忙しなく、視線が走り回る。だけど何処にも特殊な仕掛けと思われるものは見当たらなくて、少なくとも俺が考える様なものは存在していないようだった。
余りにも現実離れしたそれを突き付けられ、もう言葉が続かない。思考ももう、碌に働いてはくれなかった。
すると俺の反応を見て、彼女はこの状況下での己の有利を確信したらしい。詰問されてしどろもどろになっていた時の面影は欠片もなく、堂々と語っていた。
「その様子だと、やはり君は魔力の存在を感知できないようだな?」
「……魔力? また随分と幻想的な単語が聞こえて来たな。まさかお前、自分が魔法使いだとでも?」
「魔力を操り魔法を発動させると言う意味では間違いではないな。ただ、私の場合は魔法を使う事が出来る程度のものでしかない。本職との練度は比べるまでもないさ」
オーバンが話していると、音もなく彼女の周囲に出現するのは灰色の固体。俺はただ、鉱石の様なそれをまじまじと眺めている事しか出来なかった。
「私のそれは岩石造成魔法。御覧の通り、石に分類される物質を生み出す能力だ。君の世界に、私の様な存在はいるかい?」
「ッ……。本物の、魔法? そんなの、フィクションの中でしか見た事がないのに」
「私に言わせれば、魔法が無い世界の方が考えられないがな。……この世界のフィクションは想像の幅が広そうだ」
ぽとぽと、と生成された鉱石が畳の上に落ちる。
試しにその一つを拾って確認してみれば、やはりそれは硬質な石に変わりなくて、どうやら本物らしい。
「さて、私の話を信じてくれる気になったかな?」
「マジかよ……」
並行世界、魔力、魔法。
俄かには信じられないけれど、確かに当初からそれを示唆するような事を目の当たりにして来たのも事実だ。
唐突に空間が歪み、風呂桶を二個失い、その歪みから彼女が、オーバンが出て来た。この時点で、地球のものとは異なる何かが存在している証拠の一つと判断しても良かったのだ。
それに、今も彼女が後頭部につけているカチューシャのような機器。もしもあれが、言語を翻訳するだけでなく話せるようにするものだとすれば――。
彼女の言っている事は、やはり嘘ではない?
我ながら馬鹿馬鹿しいと思いながらも、信じざるを得ない事象を突き付けられてはどうしようもなかった。
だけどこの期に及んで俺は、これは悪い夢だと思考を放棄し、とっとと布団に潜りこんでしまいたい気持ちで一杯なのであった。
◆◇◆