第一話 並行世界からこんばんは!③
ここが分かりにくい、などがあったら指摘お願いします。
◆◇◆
「酷い目に遭ったぜ……」
思い返しても顔から火が出る思いだ。
先程は、下手に綾音を揶揄ってやろうと思ったばかりに、返り討ちにあって赤っ恥である。今すぐに一部始終を全選択して消去してしまいたいけれど、人間の脳味噌とは悪趣味なもので、嫌な記憶ほど鮮明に残って消えてくれない。
体の汚れのように、洗い流したら消えてくれればどれだけ良いだろう――と思いながら、シャワーの湯で体を洗う。
やがて汚れと一緒に泡も流れ落ちた事を確認し、俺は頭に手拭いを乗せて湯船へと身を沈めていく。
「あー……」
漫然と、広々とした石造りの浴室を眺める。
ちょっとした宿泊施設にも引けを取らない我が家の浴室は、もはや旅館の大浴場と表現しても差し支えないだろう。湯煙が室内全体を淡いものにして、ここに居るだけで出先に居る気分を味わえる。
もっとも、生まれた時からこの浴室に慣れ親しんだ身としては、出先の浴場に入ると家にいる様な気分になるのだが。
因みに、我が百鬼家は万事が万事こんな感じの、旅館風の造りになっている。集落共同体である郷村から時を経て百鬼組となり、初め書院造だったこの建物は歴代棟梁による増改築を受けた結果、数寄屋風書院造と呼ばれるものへと変貌していたのだ。
ただし、その時々の棟梁の趣味趣向も反映していたため、厳密には「数寄屋風書院造」っぽい何かである。年季が入っているのであちこちでリフォームが施され、泥棒対策の監視カメラや見た目そのままに断熱材などが使われていたりするのだ。
正直このまま旅館にでも転用して良いのではないかと思わなくもないけれど、親や組員たちはここを頑として動きたくはないらしい。
俺としてはこの組織を継ぐ気はないので関係ないけど――思ったその時、浴室の一角が不自然に歪んだ……気がした。
「は?」
疲れでも溜まっていたのかと思いつつ割と強めに目を擦って再び確認してみれば、それでも結果は同じ。
湯煙のせいでもない。その空間がまるで水面に映った景色の如く、“不自然に捻じれていた”のである。
だけど、仮にそれが目の前で起こっていたとしても到底受け入れられるものでは無くて。
「何が……どうなってるってんだ? 誰か悪ふざけでもしてんじゃねえだろうな」
いつまでも湯船に浸かっていては逆上せてしまうし、かと言ってこんな正体不明の何かを目にして一目散に逃げてしまうのも危険な気がする。
せめて少しだけ観察してから脱衣所に出よう――と思いながら腰に手拭いを巻き、右手に風呂桶を持ってゆっくりと距離を詰めた。
だけど幾ら目を凝らして近付いてみても、それは何の変哲もない「歪み」でしか無くて、ただそこに浮かび、存在していたのだった。
「どこをどうやったらこんな事が出来るってんだ……?」
呟きながら、試しに手を伸ばして触れてみようとして、寸前で思い留まる。これでもし不用意に手を突っ込んだ結果、腕が欠損する様な羽目になったら目も当てられないと思い至ったのだ。
だから、まずは様子見と俺は持っていた風呂桶を投擲する。
するとどうだろう。普通なら放物線を描いて床に落下し、騒々しい音を立てる筈のそれが――忽然と姿を消したのである。
「……え?」
一体何の冗談だろうか。忽然と、風呂桶が一つ姿を消したのだ。どこを見渡しても、投げた筈の風呂桶は無い。
勘違いかもしれないと、更にもう一つ投げてみるけれど、やはり二つ目もまた、歪んでいる空間に差し掛かった途端不自然に消滅していた。
流石にそんなものを目の当たりにしては、背中が粟立つのを止められる筈はなくて。
「じょ、冗談きついぞ!?」
念には更なる念を入れるべく、更に三個目の風呂桶を全力で投げ込んだ瞬間――。
「!?」
跳ね返った。
どういう訳か、その風呂桶はカコーンと小気味良い快音を響かせて、歪んだ空間から俺に跳ね返って来るのだった。
あっと思った時にはもう遅く、虚空から返って来た風呂桶が俺の額を直撃する。
「~~~~!?」
まさか、まさか三回目になって風呂桶が跳ね返って来るとは誰が思っただろう。しかも何も無い筈の空間から跳ね返って来たのだ。
ぐわんぐわん、と浴室の床を転がる桶の音を耳にしながら、俺は額を押さえて悶絶する。
「い、いってぇ......」
幸いにして血は出ていないようだけれど、まず間違いなく内出血を起こしている。恐らくタンコブになってしまう事だろう。
もう訳分からないが、一旦風呂から上がって患部を冷やそうと思ったその時、ここに来てその歪んだ空間に変化が訪れる。
「――――は?」
音もなくその歪んだ空間が拡大したかと思えばそこから一人、灰色の髪をした少女が何の前触れもなく吐き出されたのだ。
濡れた浴室の床の上に投げ出された、その小柄な少女は頭から血を流していて、どうやら意識も喪失しているらしい。
「こ、今度は何なんだよ!?」
訳の分からない事が起こり過ぎて、感情のままに絶叫していたが、俺は悪くない。こうも立て続けに常識の埒外にある出来事が起こる方が悪いのだ。
兎にも角にも、事情は分からないがこの少女を放置して置く事も出来ず、仕方なく俺は頬を叩いて呼び掛けてみる。
「……おーい、起きろ。何があった? てか何のドッキリだ? 名前は?」
ぺちぺちと少女の頬を叩いて矢継ぎ早に質問を投げ掛けても、呼吸はしているが反応はない。かと言って頭から血を流しているのでは、これ以上無理に起こそうとする訳にもいかなかった。
当たり前だが少女の顔に見覚えなど有ろう筈も無く、そのエキゾチックな顔立ちは見るからに海外の血が入っているのだろう。仮に意識があったとしても、日本語が通じるかは怪しい所だった。
「何なんだよこれ」
参ったなと呟きながら俺は濡れた頭を掻き、何の気に無しに先程跳ね返って来た風呂桶に目をやれば、そこには若干だが誰かの血液が付着していた。
もしやと思って再度自分の額を確認したものの、やはり出血はしておらず、この状況で考えるなら少女の血であると考えるのが普通だろうか。
「じゃあ、こいつが何も無い空間から跳ね返って来たのは、この女の子の頭に直撃したから……?」
血のついた風呂桶を拾って少女の頭部に目をやれば、見れば見るほどその推論が説得力を持っていくようだった。
だとしたら大変申し訳ない。いや、申し訳なくない。そもそもこんな所からいきなり出てくる方が悪いのだ。そうに決まっている。
ふと気付けばあれだけ大きく不自然に存在していた「歪み」は消えていて、この場にはほぼ裸の俺と、頭から血を流して気絶した少女がいるのみ。
つまり風呂場で異性が二人っきりだ。
「……ん?」
これ、視点によっては物凄く危険な状況では無いだろうか。
例え俺にその気がなかったとしても、事情を全く知らなければ俺が幼気な少女を殴って気絶させたように見えなくもない。それどころか、そうとしか思えない。
事情を知らなければ、間違い無く通報案件だ。
不味い。非常に不味い。何としてでもこの状況をどうにかしなくてはいけない。
だがもどかしい事に、焦りのせいかどうにも考えがまとまらず、血のついた桶片手に思わず頭を抱えていた、丁度そこで――。
「護―? いつまで風呂入ってるんだ? ちょくちょく煩いし……その歳にもなって風呂場で一人遊んでるの?」
「あ、母さん!? 別に何でもねーぞ! てか何の用だよ!?」
聞こえてくる声は、自分の母のもの。向こう側から隔てて聞こえてくるそれに、俺の心臓が跳ねる。
それでもどうにか動揺を押さえ込んで問い返せば、彼女はいつも通りの調子で答えてくれる。
「何って、いつまで経っても風呂から出て来ないと思ったら、風呂桶の音が煩いし。本当に何やってんの?」
「いや、それは……」
気付けば擦り硝子の向こうでは確かに一つの人影が揺らめいていて、その事実に俺は肝を潰す。母がもうすぐそこに来ているとなると、状況は思っていた以上に悪かったのだ。
絶対に、こんな場面を母に見られてはいけないと心に決めていたが、期待に反して彼女は簡単に撤退などしてくれなかった。
「ねえねえ護、そんなに長風呂してナニしてるのかなー?」
「何もしてない! ホントマジでなーーーーーーーんもしてねえよ!」
ただし、この場には頭から血を流して気絶した少女と、血のついた風呂桶を持った俺がいる。何もしていないけれど、何かが起きたのは間違い無い現場だった。
それでも俺は無実だ。少なくとも明確な害意を持ってこんな現場を作り出した訳では無い。全てはそう、あの訳分からない「歪み」のせいなのだ。
だから頼む、早く立ち去ってくれと母親に念を送るけれど、通じる筈も無く。
「ああ、そう? でもナニがとは言わないけど排水溝詰まっちゃうから、あんまりやり過ぎないでねー? もし詰まったら護に責任持って片付けて貰うから」
「だからマジで何もしてねえって言ってんだろ!? ねえ、話聞いてた!?」
何で世の母親は息子の話を全く聞いてくれないのだろう。おかしい。同じ日本語を話している筈なのに会話が成立してくれない。
こんな状況だと言うのにまた更に面倒臭い人間を相手にしなくてはならなくて、俺の苛立ちが最高潮に達しかけたが、そこで母の追撃が来たことで頭から血の気が引いた。
「何もしてないって言うなら、すぐにでも出てきて欲しいんだけど?」
「それは……!」
彼女の言う通り、何もしていないのなら今すぐにでも浴室から出て来ないのは不自然である。
だがその一方で、この状況を放置して浴室を出るのは危険すぎる。もしも間違って脱衣所の母に中を見られたら大騒ぎ間違いなしなのだから。
どうする……この場を上手いこと切り抜ける起死回生の一手を見付けなければ、その瞬間終わる。社会的に終わるかもしれない。笑えない。そんなの絶対笑えない。冗談じゃない。
だけれど、そんな俺の必死の努力を嘲笑う様に、状況は更に悪い方へ転がっていく。
「何だ、護はまだ出て来ないのか?」
「どうやらそうみたいですけど、若が浴室に立て籠もるなんて珍しいですね。何かあったんでしょうか」
「……この声は」
さーっと、またまた血の気が引いていく。
そしてその最悪の予想を裏付けるように、戸の向こうで母が言った。
「あ、真之と迅太郎じゃない。二人も護の様子を見に?」
「まあな。いつまで経っても出て来ないのは心配になるし」
「俺もそんなとこですよ。ま、若の声を聞く限りじゃ何も問題はなさそうだけど」
向こう側の声を聞きながら、俺は天井を仰ぐ。
それもそうだろう、新たに脱衣所に現れたのは百鬼 真之と三榊 迅太郎――つまり百鬼組の現棟梁と、その幹部である。
もっと言えば、棟梁の息子である俺にとって、百鬼 真之は実父にあたるのだ。両親揃い踏み、更に俺が幼い時から知る幹部の成人男性までが脱衣所に集ったと言う訳である。
……もう、どうしようもない。
そう思い、天井を仰いだ俺は即座に浴室の戸に鍵を掛ける。
「えっ、ちょっと護? それどういうつもり!?」
「なるほど、徹底抗戦っていう訳か。我が息子ながら頑固だ」
「そこまでして風呂場に籠って、若は何がしたいんだか」
「…………」
開けろー!? と母が戸を軽く叩いて来るが、開ける訳が無かった。
これで当面の危機は去ったと思うものの、むしろ状況が悪化しているような気がしなくもない。具体的に言うなら借金が雪だるま式に増えていくような、そんな感じである。
それでもこのお陰で考える時間は十二分に稼ぐことに成功したのだ。何としてでも、この最悪な状況を切り抜ける手を見付ける必要があった。
「早い所、この子に怪我の手当てとかもしてやりたいし……」
手っ取り早くここから出てしまえば、それが気絶している少女にとって一番良いのだろうが、それでは俺が被る社会的ダメージが大きすぎる。
何とかうまい具合に一挙両得出来る手段は無いものかと再度頭を捻っていると、不意に戸が軽く叩かれた。
「若、俺だ。とにかく話を聞いてくれ」
「迅太郎さん……俺は」
「分かってる。バレるのは恥ずかしいんだろ、ナニとは言わねえけど……まあ男だもんな」
「ちげーよ! アンタ全然分かってねえだろ!?」
「そう怒るなって。今度俺が持つ秘蔵の逸品を一式貸してやるからさ」
「結構だ!」
どうして俺の身の周りはこうも話を聞いてくれない奴ばかりなのだろう。いや、俺も説明不足とならざるを得ない状況に追い詰められている事も、原因の一翼を担っていると考えて良さそうだけど、それを差し引いても酷い。
一旦低下していた苛立ちが急速に復活していく中、そこへ歯止めをかけるように今度は威厳のある声が投じられる。
「護、これは真面目な話だ。この際、お前が何故こんな所に閉じ籠もって居るのかは追及しない。ただ、共有スペースを占領するのは頂けないということは理解しろ」
「父さん……」
やっと話の分かる大人が出て来た。その事実に、俺は不覚にも感動してしまう。アンタが父親で良かったよ――と、思わず口に出してしまいそうになるくらいだった、が。
続く父の言葉が、その感動を跡形もなく打ち砕く。
「分かったら、次からは自分の部屋でやるんだ。ナニかの購入資金が必要なら、領収書を切って来ればその都度渡してやる」
「俺もうこの家出てって良いかな!?」
仮に、万が一、そう言った類のものを買うだけでも羞恥心が強いのに、店員に領主書を切って貰い、それを親に渡してその分の金額を補填して貰うとは、一体どこまで高度な羞恥プレイだろうか。
高校卒業したら絶対に家を出てやると心に決めながら、父親に怒声を飛ばしていた、その時だった。
「……え?」
がちゃん、と不意に嫌な音が浴室内に響き渡る。
それが一体何を意味する音であるのか――その答えは、考えなくてもすぐに分かった。
「棟梁、解錠完了しました」
「御苦労。開けてくれ」
「へい」
「嫌ァァァァァァァァァァァァ!?」
待って、止めて、お願いだから。
そんな願いも虚しく、遂に浴室は陥落した――。
◆◇◆