第一話 並行世界からこんばんは!①
平々凡々、という言葉がある。
要するにそれは、普通であるという事を強調する意味のものであるが、実際にそうである人を探してみると、意外にもその数は少ない。
普通の家庭に生まれ、普通に生活し、普通に学校を卒業し、普通に働いて、普通に恋愛して、普通に結婚し、普通に子供を育て、普通に死ぬ。
これが出来ている人が、世の中に一体どれだけ居るだろう。
このことを指して人並みの幸せとする人もいるけれど、こんなものは実際には普通ではない。ただの高い理想であると、俺は思う。
何故ならそれは、己の置かれた状況を鑑みればなおさら高い壁に思えるから。
「…………」
普通の家よりも広い洗面所に立ち、大きな欠伸をして、寝ぐせのついた頭をボリボリ掻きながら薄目を開ければ、そこにはいかにも人相の悪い顔が自分を見返していた。
顔立ちは、人並みより少しは整っている方だろうか。だがそれを加味しても目つきは鋭く、それっぽい恰好をして街を歩けば大柄な体格も相俟って、確実に誰もがこちらを避けて通る事だろう。
我ながら、結構な強面である。
「普通の顔に生まれたかったな……」
むしろ少し舐められるくらいでも良い。近寄りがたい雰囲気が少しでも解消してくれれば、街中で道を露骨に譲られるという事も減ってくれる筈だ。あれが地味に心に響くのである。
もっとも、願ったところで顔が今から独りでに変化する筈も無いし、仮に変わったところで“普通”はまだ遠い。
いつも通りに寝起きの口を漱ぎ、顔を洗って水滴を拭く。それからまだまだ寝足りない体を動かし、俺は居間へと向かうのだ。
その途中、年季の入った廊下ですれ違うのは、こちらも中々やんちゃそうな見た目をした二十、三十代の男達である。
街中で出会ったら、普通の人はまず間違いなく視線を外すだろう人たちだが、彼らは俺を見るや相好を崩していた。
「おお、若! おはようございます。まだ眠そうですね」
「……おはよう。そう言うお前らは朝から元気だな」
「元気くらいしか取り柄が無いですからね。それじゃ若も学校頑張ってくださいよ、未来の棟梁なんですから」
「へいへい、精々学ばせて貰いますよって。あと俺は継ぐ気ないからな」
それを最後に、軽く手を振って俺は再び居間への長い道のりを歩く。時折、年季の入った黒い床がギシリと軋み、古めかしい廊下に響き渡る。
ひんやり冷えた床が、素足には心地良いな――などと考えていると、遂に居間へと続く襖が目に付いた。
戸の向こうからは若干騒がしい声が聞こえるけれど、それも普段通りだ。躊躇なく襖を開ければ、畳と卓、そしてそれを囲う無数の男達の姿があった。彼らの装いはやはり堅気には見えなくて、その鋭い視線が一斉に俺へと向けられる。
よく見なくても彼らは手に箸と食器を持ち、今まさに食事を摂っていたのだろう。室内全体を嗅ぎ慣れた藺草と味噌の匂いが満たし、それにつられたように俺の腹が鳴った。
「……皆、おはよう」
「おはようございます、若。すぐに飯を盛って来ます」
「いや良いって、それくらい自分でやるよ」
ガタリと立ち上がる男をそう言って制すと、しゃもじで白米を盛り、味噌汁やおかずを盆に載せて卓につく。ちらりとニュース番組を映すテレビへ目をやれば、まだまだ学校の始業時刻には余裕がある。
ゆっくり食べるか、などと思いながら箸を持ったは良いが、どうにも周りの視線が気になって俺は顔を上げていた。
「何か? 迅太郎さん、言いたい事あるならハッキリ言ってくれ」
「いや、若の学校生活は最近どうなのかなってな。ほら、危険とか無いか? 危なくなったらすぐ警察行くんだぞ」
「俺は小学生か。ないよ、そんなこと。一体何事かと思えばそれかい」
一瞬身構えて損したと苦笑してやれば、しかしそれでも迅太郎達は会話を打ち切るつもりはないらしい。
真剣な表情でテレビを指差し、言うのだ。
「そうは言ってもな、最近この辺で物騒な怪事件が多発してるって聞くし……心配にもなるって」
「あー……最近この辺りで多発してるって言う不審火。迅太郎さん達もちゃんと見回りしてんでしょうね?」
「してるに決まってるだろ! 何だ、俺達を穀潰しみたいに言ってんじゃねえぞ!?」
テレビに映るローカルニュースには、丁度放火されたと思しきごみ収集所が表示されていて、黄色い規制線も張られている。
既にこの手の事件は数度と目にして、正直なところ見飽きた感が強いのだが、意外な事に犯人はまだ捕まっていない。これだけやっていると言うのに、どうやったら痕跡を残さずに居られるものかと感心してしまうくらいだ。
「ま、警察も分からないんじゃ俺らにだってどうしょもないか。迅太郎さんだって見回りの人数とかを増やすくらいしか打つ手もないでしょ?」
「そうやって匙を投げて……若、もしかすればこの不審火が原因で死人が出るかもしれないんだぞ? この松ヶ崎市内でそんな事を許してみろ、我ら百鬼組の名折れだ」
「百鬼組、ねえ……そのせいで俺が今までどんな目に遭って来たか」
湯呑の緑茶を流し込みながら、俺は思わず苦い顔をする。
松ヶ崎市、そこに古くから存在するのは我が百鬼組である。起源は鎌倉時代後期から室町時代にかけてこの地に成立していった“郷村”で、そこから豊臣秀吉による刀狩りや太閤検地で大きな変革を迎え、現在の百鬼組が成立した。
つまり元々が村落共同体だったのだが、後に自衛的側面が強くなり、今もその点を色濃く受け継いでいる組織だ。
しかし今となっては警察組織も発達し、近所付き合いも希薄になりつつあるので、組は以前にも増して日に当たる事が少なくなっていた。
そのせいか、そもそも名前が百鬼“組”となってしまっている上に強面も多いので、しばし暴力団と混同されがちなのである。
「この顔と、百鬼組の嫡男って立場がどれだけ俺の学校生活を脅かして来た事だろうか……」
思い返せば、枚挙に暇がない。
露骨に同級生から避けられ、その親も俺に怯えや警戒の視線を向ける。教師からもそれは同様で、親身になってくれる人なんて誰もいなかった。
中には嫌がらせをして来る奴も居たが、今思い出しても腸が煮えくり返る。
しかし、そんな俺の心を知ってか知らずか迅太郎さんは笑みを浮かべて言うのだ。
「ご愁傷様だな、若」
「迅太郎さん、アンタ今俺の苦労を馬鹿にしたろ!?」
「んな訳ない。それに、今の若は学校で孤立してるって訳でも無いんだろ?」
「まあ……それはお陰様で」
学校生活は、概ね普通に過ごせている。
それはつまり、自分という存在が少しでも普通に、平凡に近付けているという事なのではないかと、思っていた。
「……ごちそうさん。そろそろ学校行く準備するから、俺は失礼するぞ」
「あ、若! なら送ってくぞ。さっきも言ったけど最近物騒だ。護衛させてくれ」
「いや……止めてくれ頼むから」
食器を片付けようと盆を片手に立ち上がれば、迅太郎さんを始めとした男達もぞろぞろと立ち上がる。
だが、強面や筋骨隆々と言った風体の彼らに登下校を護衛されると、百鬼組の評判が益々悪い方へ傾きかねない。
伴って、折角手にした普通の学校生活も遠ざかってしまいそうで、それが何よりも恐ろしかった。
しかし、秒で断られた迅太郎さん達からすれば、それは少し寂しかったのだろう。消沈した様子で腰を下ろし、彼らは俯いていた。
……ただし、その手には拳銃や日本刀を手に持って、だ。
「出番がないとは残念なものだな。折角買って、手入れも欠かさずしているのに……」
「え、待って。アンタらそれ持ってく気だったの?」
頼むから、せめて模造品であってくれと思わずにはいられなかったけれど、怖いから敢えて確認はしない。
これが、俺の“普通”。
そんな事実が、堪らなく嫌だった。
◆◇◆
百鬼 護。
それが今や高校一年生となった俺の名前だ。
しかし、“護”などという優しそうなそれとは裏腹に、顔立ちは他者を威圧するような強面となってしまったのは何たる皮肉か。
「護、どうした? 今日のお前、いつにも増して顔怖いぞ」
「……ああ、まぁ色々あってな。朝から疲れた」
「流石は百鬼組だな。それで、何があった?」
「教えねー」
夏休みを終えて九月を迎えた、松ヶ崎高校一年C組の教室。まだまだ日差しと夏の主張は激しく、少しも減ったとは思えない蝉が窓一枚隔てた先の世界で鳴いていた。
室内も、幾ら冷房と扇風機が稼働しているとは言え、まだ若干暑い。
そして、今もごねるように質問を重ねて来る目の前の男子生徒も、暑苦しい事この上なかった。
「ねーねー、何で教えてくれねんだよー? 良いだろそれくらい」
「……じゃあ、警察には絶対通報しないって誓える?」
「え、何それ怖いんだけど」
その途端、男子生徒――土喰 真成は、俺から距離を取り自身の肩を抱いていた。おまけに小刻みに震えて見せる辺り、芸が細かい。
俺は、いい加減見慣れたその反応に思わず苦笑するのだった。
「お前分かってて聞いて来たんじゃねえのかよ」
「いやそうだけどよー、やっぱお前ん家すげーって。普通じゃねえって言うか、何か面白そう」
「勘違いだ。俺からすれば代わって欲しいくらいだね」
冗談抜き、本気である。
だけど、土喰はそれに気付いていないのか、あっさり笑って受け流すと、新しい話題を提示する。
「ところでよ、今朝のニュース見た? うちの学校近くで発生した不審火! あそこ俺の通学路でさー」
「あ、待て待てそれ俺も見たぞ。おい百鬼、お前何とかしてくれよ」
「警察も手を焼いてんのに、素人の自警組織がどうにか出来る訳ねえだろ……」
また一人、男子生徒が会話に加わる。名前は、江出 亮一郎。関西出身らしいのだが、意外にも関西弁を話すところを見た事がない。
高校の入学式で知り合ってから今に至るまで、一度も関西弁を喋っていないのだ。もっとも、親しみやすさは関西仕込みのようで、交友関係はかなり広いらしい。
「けど、百鬼組だって見回り強化してんだろ? なのに何で目撃証言の一つも出ねえの?」
「さあね、俺が実際に見回りへ参加してる訳でもないし、理由は知らん」
「じゃあ何で参加しないん?」
「宿題とか諸々やる事があるからだよ。確かに部活やってるお前らよりは時間あるけどさ」
俺としては普通に部活というものをやって見たかったが、ここでも百鬼組の嫡男であることが障害となった。明らかに歓迎している雰囲気は無いし、無理に入ったところで浮くのが目に見えていたのである。
よって、中学も高校も帰宅部なのが俺だ。泣きたい。
「ま、別に今から部活入っても遅くはないと思うけど」
「いや、流石にこの時期人間関係も完成してるだろうし、遠慮しとく。それに、部活入ってなくても楽しみはあるしな」
「……なら良いけどさ」
中学から付き合いのある土喰はそういうと、また新しい話題へと転換していく――。
放課後、班ごとに割り当てられた掃除を終え。
俺は一人帰途についていた。クラスで良く喋る土喰や江出達は部活だし、結果として一人寂しく帰る事を余儀なくされていたのだ。
だが、悪い事ばかりではない。
部活をやっていないので、その分自由に使える時間が他よりも多いのである。今日は何をして時間を潰そうかなと思っていると、不意に視界の隅で何かを捉えた。
「……?」
もういい加減見慣れた通学路上にある、抜鉾神社。創建から優に千年を超える、歴史と伝統ある格式高い神社で、細かい説明は省くが本殿は小高い山の上に建っている。
境内の斜面には、多くの木々が立っていて、道路沿いには桜が並び、春には綺麗な桜並木となるのだ。
この辺では一際信仰を集めていて、初詣の際には多くの人が詰めかけるそんな神社の境内に、フードを被った誰かが一人で立っていたのである。
「…………」
それも、何かぶつぶつと独り言を間断なく呟いていて、不気味なことこの上ない。辺りには他に人影もなく、それが益々近寄りがたさを増強していた。
だけど、如何にも不審者なその太った人物から目が離せない。まだまだ熱さの厳しいこの季節にフードを目深にかぶり、一体何をしているのか――自分が丁度暇だったこともあり、好奇心に負けたのだ。
細心の注意を払って自転車を降り、さりとてすぐに逃げられる位置と体勢から男の様子を窺っていると、不意にある変化が起こる。
何の前触れもなく、男のすぐ横に立っていた木に火が付いたのだ。
「……ぇ!?」
始め、ほんの小さな炎だったそれは段々とその規模を増し、やがてそれが木一本を丸々焼き尽くす事だろう。
いや、それどころか境内に生えた木々に延焼するかもしれない。放火の現場に期せずして遭遇したことで暫し呆気に取られていた俺は、そこで漸くポケットから携帯機器を取り出した。
無論、連絡先は警察と消防。どちらか一方に連絡すればどっちも来てくれるだろうと思いながら、今一度男の方へ目を向ければ――。
「…………」
「…………」
目が、合った。
気付かれたのだ。木が林立しているせいで薄暗く、彼の顔立ちは判然としないものの、それでも分かる。向こうは明確に、こちらを視認していると。
それこそ、身動ぎ一つ出来ない。通報しようとキーパッドを押す手も、止まってしまっていた。
体が急速に緊張して、嫌な汗が体中から噴き出た。
「お前……見たな?」
「――ッ!」
不味い。このままでは危険だ。
本能が警鐘を鳴らすままに、俺は自転車に跨ってその場から離脱する。
背後からは男の駆け寄って来る足音が迫り、ぞくりとした感覚につき動かれるまま、とにかくペダルをこぎ続けた。
後ろを振り返る余裕など、無い。とにかく逃げなくては、遠くに行かなくてはと、それだけが心を占めていたのだった。
それと同時に、自転車を漕ぎながら叫ぶ。
「放火だ! 抜鉾神社で放火が……!」
もはや通報している暇はないのだ。そうなればここは近所迷惑も考えず、とにかく知らせる事が重要だろう。
少なくとも、この場で男を取り押さえようという気にはなれなかった。格闘技とか、その経験の有無は関係無い。危険だし、怖いものは怖いのだから。
何より、放火犯でなくとも独り言を早口でぶつくさと言い続けている人と、関わり合いになりたいとは思えない。
明らかにヤバそうだから。
何はともあれ、流石に自転車と人間の足では自転車に軍配が上がったのだろう。当初はすぐそこに迫っていた足音も遠くなり、この調子ならもうじき撒ける――そう思ったのだ、が。
「待てと言ってるんだッ!」
「……え?」
その瞬間、背後からやって来た熱風が右頬を撫でた。
そしてその熱風――いや火球は、そのまま直線上にあった植え込みに直撃し、炎上したのだった。
この瞬間、頭から血の気が引いた。
何が起きたのか。火炎放射器か火炎瓶でも使ったのか。
いいや、あれは完全な火球だった。だとすれば、どういう事なのか。……全く、理解が追い付かない。
「うぁぁぁぁぁぁぁあ!?」
ただ、今の俺に出来たのは一刻も早くこの場から逃走する事だけだった。