プロローグ
初めましての方も、久し振りの方も、このページへ飛んで頂いてありがとうございます。
まだまだ拙さが滲む文章の紡ぎ方かもしれませんが、本作を目にして少しでもワクワクして貰えたら幸いです。
どうか最後までお付き合い下さいませ。
ついでに感想、フィードバックなどを頂けると私としても励みになります。どうぞ宜しく(≧▽≦)
とある世界、とある国の、とある大学に、彼女は居た。
かつかつと硬質な足音を廊下一杯に響かせながら厳しい表情で駆けていくその姿に、見る者は誰もが怪訝そうな視線を向けていたのだった。
しかし、少女と言っても差し支え無さそうな背丈の彼女はそんな視線など意に介さず、灰色の長髪を靡かせながらただ駆ける。
ある場所を、目指して。
「……っ」
まさか、まさか、まさか。
そんな焦燥感を募らせながら、勝手知ったる大学の研究棟内、その階段を駆け上がってただ一つの部屋を目指すのだ。
「――!?」
「――うわっ!」
出会い頭、多くの荷物を抱えた男子学生と衝突しかけ、それを寸前で躱したものの、彼は驚いてその場に様々な紙の資料をぶちまけてしまう。
ばさばさと騒がしい音を立てて宙を舞うそれらはまるで紙吹雪のようで、だが急いでいた彼女が足を止める事も無く。
「済まない!」
「あっ、この待ちやがれ!?」
背中に投じられる怒声にも足を止めず、少女は走る。
あっという間に置き去りとなった男子学生は大きな声で呻いていて、恐らく投げ遣りな動作で飛び散った紙たちを拾い集めていた。
少女も流石に後味が悪かったのか、後で機会があれば改めて謝罪しようと思いつつ、もうそこにまで見えていた目的地に目を向ける。
「…………」
自然、走る速度は更に増し、ただでさえ早鐘を打っていた心臓もその勢いを強くする。嫌な汗と予感が背中をなぞり、気付けば手の内はじっとりと湿っていた。
だけどそんなものを気にする余裕など彼女には一切無くて、その手でドアノブを握り、そして加減もへったくれも無い勢いで開ける。
すると、勢いの余り壁に打ち付けられたドアノブが喧しい音を奏で、室内に居た学生達の耳目が一斉に彼女へ向けられていた。そこには多分に抗議の意が込められていたものの、彼女は全く目に入っていないらしい。
それどころか彼女も怒りや焦りともつかない表情を浮かべながら、つかつかと輪の中心にいた五十代の男性との距離を詰めるのだった。
「教授! プルースト教授、これは一体どういう事ですか!?」
「……何だね、誰かと思えばオーバン君か。幾らこの研究室の学生とは言えノックも無しに入って来るとは、些か配慮に欠けると思うが? これでもし、緻密な実験をしている最中だったらどうしてくれる」
「そんな御託は今どうでもいい! それよりも教授、これは一体何をしているのですか!? まさかとは思いますが……」
荒い呼吸を整える事もせず、少女――オーバンは研究室内を見渡す。見慣れたそこはいつものように机が並び、研究機材が並び、整頓された書類が各所で山を作っていた。
だがその中にあって、彼女が見慣れないものが一つ。
研究室内においてその大部分を占める特殊な硝子で区切られた区画内に、それは存在していたのだ。
その巨大な存在が一体何であるかを即座に察したオーバンは、それを指差しながら中年の男を問い詰める。
「教授……いや、ジャック=ガブリエル・プルースト! 貴方は、自身が一体何をやろうとしているのか分かってるのか!?」
「ああ、分かっているとも。私はこれから、この世界の科学史に名を刻むのだ。永遠に、そして絶対的な栄誉を掴む!」
白髪の目立つ頭部を整髪料で整えた男――プルーストには、これから先に待っているかもしれない輝かしい未来が視えているのだろう。彼は待ちきれないと言わんばかりに両手を広げ、笑っていた。
しかしそれとは対照的に、オーバンは彼女自身の灰色の長い髪を整える事もせず、それどころか振り乱さん勢いで怒鳴る。
「何を言い出すかと思えば……貴方ともあろう人が血迷ったか!? そんなものはまやかしだ! 今すぐその実験を中止させてください! 間違い無く死人が出ますよ!?」
「またそんな事を……私の研究の邪魔をしないで貰いたいものだな、オーバン君?」
「……ッ!」
その瞬間、彼から視線を向けられたオーバンはその握り拳を近くのテーブルへ叩き付ける。
途端に鈍い音が室内に響き渡り、歯ぎしりをする彼女の感情がどれだけ昂っているのかを端的に表している様だった。
「研究室の……教え子の理論を盗用して言う言葉がそれか!? 貴方には失望したぞ、プルースト!」
「盗用とは人聞きが悪い……私は活用したに過ぎないのだよ。君は自身の研究をそこで投げ出した、そしてそれを惜しんだ私が再開させた。分かるかね、これは指導だ」
今にも掴み掛らんばかりの勢いで迫るオーバンに対し、プルーストはあくまでも余裕を持ち、少なくとも表面上は冷静だった。
その態度に、彼女の勢いに気圧されていた周囲の学生たちも動揺を鎮めつつあるらしい。主体性の無い彼らの姿に一瞥をくれてやったオーバンは、しかしすぐに視線を目の前の中年教授へ戻していた。
「物は言い様ですね。ですが、貴方が私のパソコンへ不正アクセスし、その情報を盗み出したのは揺ぎ無い事実だ。あのセキュリティを突破する手立てをどうやって発見したかは知りませんが、証拠は挙がっています」
「証拠? こじつけも大概にしてくれ。もしくは、君は偽の情報を掴まされているのではないか?」
「……ここにこんなものがある時点で、もうその点について議論する理由は無いんですよ。そもそも、この研究の全容を知っているのは私の他に貴方くらいしかいない」
そう言いながら、オーバンは分厚い硝子一枚隔てた区画に鎮座する、三角錐に似た機器を指差す。
その明らかに特異な機械は、中心部に光粒のようなものが浮いていて、一目で認識できる程度には外部へ露出していた。
時折発生する静電気の様な細やかな電流の発露が、見るからにその機器の禍々しさを強調していて、何かが不安定である事もまた一目瞭然だった。
それを横目にしながら、オーバンは尚もプルーストを問い詰める。
「よくもまあこれを実際に作ろうと思いましたね。資金や材料の出所は一体どこですか? 幾ら研究費があるとは言え、一研究室の手に負える額ではない筈だ」
「……歳の割に優秀だとは思っていたが、その評価すらも越えてくるのか。凄まじいな、オーバン君の才能は。本当、嫌になるよ」
「お褒めに預かり光栄ですとでも言えば良いですか? ……四の五の言ってないで早くその機器を止めろと、私は言っているんだ」
さもなければ実力行使も辞さないという姿勢を小柄な彼女が見せれば、途端にプルーストの周囲に居た学生達は色めき立つ。
「落ち着きたまえ、君たち」
だがそれをプルーストが穏やかな口調で窘めれば、波が退くように動揺も収まり、今度は彼らから無数の敵意にも似た感情――いや、敵意がオーバンに向けられる。
流石にそんな反応が返って来るのは予想外だったのか、彼女は剣呑な雰囲気を少し緩め、灰色の目を僅かばかり見開いて問うていた。
「……本気なのか、貴方達は?」
「ああ、本気だとも。私も彼らもね。こんな素晴らしい研究と実験を前にして、科学者として心が躍らぬ訳が無かろう? だから、邪魔をしないで欲しい。君の判断で、このような宝の山を放置など出来るものか!」
「断る、それは私の研究だ! おまけに、この研究と理論は……」
「不完全だと、以前の君は言ったな。技術レベルが要求されるものに追い付いていないと」
オーバンの言葉を引き継ぐように、プルーストは声を張って語る。そこには得意気で自信満々な調子がありありと見て取れていたのだった。
「だが、私は見つけたのだ! 君の言うその欠点を解決する手段をね! だからこうして実行に移した、移すだけの資金を融資して貰えたのだよ!」
「融資……誰からです? こんな穴だらけの理論に金をつぎ込んだ馬鹿は」
自身が構築した理論が不完全である事は、オーバン自身が一番よく理解している。だから、幾らプルーストが自信満々に何を言ったところで、俄かには信じられない。
だからこそそんな言葉が飛び出したのだが、その瞬間プルーストの纏う雰囲気が一変した。先程までの泰然とした様子は霞と消え、その顔から表情が抜け落ちたのだ。
「馬鹿? ……馬鹿だと? ヴィオレット・オーバン、今さっき君は馬鹿と言ったな?」
「馬鹿は馬鹿です。こんなもの、今は金をつぎ込む価値もない。これは我々では無く、後の世代に託すべき宿題で……」
「――私を愚弄するな、小娘がッ!」
「!?」
オーバンが全てを言い終えるよりも早く、その神経質にも思えるやや高い声がその場を塗り潰す。
それに一瞬圧倒されつつ、彼女は眉を顰めて訊ねていた。
「……教授?」
「君のように神童や天才と言われて来た者には分かるまい。苦労に苦労を重ねた末に新たな発見をして、心を満たす得も言わぬ快感が。誰も成し得なかった事を達成した時の高揚が。分かるまい、息をするように新たな発見を繰り返す君の様な人種には!」
「何を、何を言っているのです?」
彼女に向けられたのは、強烈な負の感情。だけどそれが何であるかを瞬時に察せなかったオーバンは、理解出来ない心情をそのまま吐露してしまっていた。
そしてそれが、火に油を注ぐ結果を招くことになるとも知らないで。
「ああ、分かるまい! こうもあっさり頭を飛び越えられる屈辱が! ……天才と呼ばれる君の存在そのものが、私の、私達凡人の存在と努力を否定し続けているという自覚もないのだろう!?」
「違う! 私にそんなつもりなど毛頭……」
「君が私達凡人を否定するのなら、私達は天才を否定する! 天才なんてものは幻想で、ただ小娘の運が良かったという事を今ここで証明して見せるのだ!」
プルーストを始めとして複数から浴びせられるその視線は、堪らなく気分が悪くて、オーバンは思わず一歩二歩と後退る。
「何で……どうして? 貴方は、貴方達は決してそんな人間では無かった筈だ! 何があって、何が貴方達を変えてしまった!?」
「私とて、最初は君を歓迎したさ。飛び級に飛び級を繰り返して、その歳で今や大学院生になるほどの優秀さだ。だけどね、君が輝けば輝く程、すぐ近くにいる日陰者の闇は濃くなっていくんだよ!」
「っ!!」
嫉妬。
この時になって、漸くオーバンが己に向けられた感情の正体を悟る。
またこれか、と人知れず歯噛みをしても後の祭り。振り終わった賽子はただその結果をいつまでも提示し続け、今更なかったことになど出来る筈も無かった。
今の彼女に出来るのは、無駄と知りつつ言葉を尽くす事だけだったのだ。
「……だから、私の研究を盗んだのですか? そしてそれを、研究室の皆も黙認して、ここにいると」
「…………」
誰からも、返事はない。否定も肯定も無いが、もはや念を押すように再度問う必要も無かった。
代わって、更にオーバンは問う。
「でも私を否定したいなら、他にもやりようはあった筈です。この研究でなくとも……」
「いいや、この研究でなければ意味がない。君が投げ出した代物だ、それを凡人である私達が達成したとなれば、君を否定するに足る十分な材料となるだろう?」
「だからこれに拘ったのですか!? ですが、何度も言う様にこの実験は危険すぎます! 教授や皆の安全の為にも、今すぐに中止して……」
「する訳が無いだろう!? 言った筈だ、私は君の指摘する穴を埋める事に成功したのだと。もはや完全となったそれに失敗はあり得ない!」
血走った眼が、オーバンを捉えて放さない。その目に浮かぶ感情は、数多の感情が綯交ぜになっていて、彼女にはその全てを察する術など有ろう筈も無かった。
「そんなっ、どうしてだ?」
深く、暗く沈んでいく感情を表す様に、オーバンの腹の底でも何かが沈殿していく。思わず大声で子供みたいな悪態をつきたくなるのを堪えながら、彼女は真っ直ぐにプルーストを見返すのだった。
「ならその理論、実験をする前に私にも見せてくれませんか? そこまで言うのなら、仮に見せたところで何の問題もない筈です」
「いや、君に見て貰うまでもない。結果で証明して見せる。その後で幾らでも、穴が開くくらい見せてあげるさ」
「……冗談じゃありません。このこと、今すぐに学長へ報告にさせて貰います。解雇や退学処分は免れないと思っていて下さい」
間違い無くこの実験は失敗してしまうと、オーバンは睨んでいた。だから、彼女はそう言って即座に踵を返す。
どれだけ負の感情を向けられようと、それまでは一緒の研究室で過ごした仲間や恩師だから。例えどんな処分が下されようと、彼らに死んで欲しくなかったから。
だから――。
「それは困る」
「っ……!?」
聞き覚えの無い、若い男の声。
それが彼女の鼓膜を揺らした瞬間、視界が目まぐるしく回転した。
一体何が起きているかなど全く分からず、気付けばオーバンは一人の男によって俯せに組み伏せられていたのである。
「何者、だ……?」
「初めまして、リュテス大学が誇る才媛、ヴィオレット・オーバン。噂はかねがね聞いているぞ」
どうにか脱出しようと藻掻くが、かなり綺麗に組み伏せられてしまったらしく、純粋な膂力の差もあって男はビクともしない。
おまけに彼女からの問い掛けへ碌に答える気もないのか、男はただ一方的に話すだけだった。
「貴女が提唱した“間隙経由転送技術”……実に見事なものだ。実用化の暁には、軍事的にも革新を齎すだろうな」
「なるほど……出資者のご登場って訳か。教授、貴方は一体どこの国の組織に、これを売り込んだんですか?」
考えられるだけで、この世界には片手では足りない程の特殊組織がある。認知されていない暗部を考えれば、それは爆発的に増えるだろう。
今回の場合、実験に掛かる費用の莫大さや軍事的観点に着目している様子から、恐らくどこかの大国――とオーバンが予想を立てていると、やおらプルーストは口を開く。
「……いいや、話を持ち掛けたのは彼らの方だ。今後の身の安全と、富や業績の保証……これだけ提示されれば、食い付くのも当然だろう?」
「本当にそれが保証されているかも分からないのに……正気ですか?」
「研究成果と共に君の身柄も引き渡すと言えば、手柄的にも問題無いさ」
「……っ」
嵌められた。
プルーストは、オーバンが単身でここに乗り込んで来るのも織り込み済みだったのだろう。
彼女は今更ながらに己の軽率さを呪うが、もうどうする事も出来ない状況下では、精々舌打ちすることくらいが限界だった。
「……さて、では実験を始めよう。オーバン君、君はそこから見ていると言い。私達凡人が、君のような天才を否定する、その歴史的瞬間をね」
「止めておいた方が良いですよ。皆仲良く吹き飛ぶ未来しか見えません」
「そんなに否定されるのが怖くなったかね? だが今更だ。私達はこれまで、散々否定される屈辱を味わって来たのだよ。ここまで来て引き下がる訳なかろう?」
そう言いながら、プルーストは実験開始の合図を出す。
彼のその指示に従って学生達も各々動き出し、そして機器を本格的に作動させる。
「さあ、間隙経由転送実験を開始しよう――」
だが、プルーストが落ち着き払った声でそう告げた直後、異変が起こる。
何の前触れもなく、機器中央に展開していた光粒が肥大化を始めたのだ。
「な、何が起きている!?」
「分かりません……想定し得ない何かが起きたとしか……」
「何とかしろ、このままでは爆発の危険があるぞ!?」
「畜生、何が……何が駄目だったんだ!?」
途端、蜂の巣をつついたように騒ぎ始める彼らを見て、オーバンは一度大きく溜息を吐き、そしてぽつりと呟く。
「……だから言ったのに」
「失敗か」
「ええ。貴方、早く逃げたほうが良いんじゃないですか? 運が良ければ生き残れますよ。ま、仮に生き残っても巻き込まれた行き先次第じゃ即死ですけどね」
間隙経由転送実験。
扱う機器は非常に高価で繊細、そして扱う熱量も膨大。何より、間隙――“時空の狭間”は、まだまだ未知の領域。
何が起きても、不思議では無かった。
だからオーバンは自身を組み伏せている男にそう忠告していたが、彼は一向に拘束を解いてくれる気配はない。
このまま一緒に心中か――。
急速に膨れ上がっていく魔力を感知しながら、ヴィオレット・オーバンは漫然と光粒を眺めて居た。