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第8話 アタシは、覚悟を決めて舞い戻り、彼に誓った。






 こっそりと部屋を覗くと、なんてことは無い。アイツは気持ちよさげに寝息を立てていた。

 もう辺りが夕日の朱に包まれる、そんな夕暮れ時。見慣れた間抜け面は、布団にくるまって夢の世界に旅だっていた。

 こっちは震える足を引きずって、そして、覚悟を決めてやってきたというのに、まったく拍子抜けも良いところだ。

 アタシは彼を起こさないようにゆっくりと、部屋へ入る。時計の針と寝息しか聞こえてはこない。

 床に置かれた雑誌。位置のずれたテーブル。飲みかけのジュース。どうやら、アタシが部屋を飛び出した時のままのようだ。

 あの後そのまま寝てしまったのだろうか。アタシはその後散々な目に遭ったというのに、お気楽なものだ。


 ――ダーリンによろしく。


 ほんの数十分前。そう言った妹にムカっ腹を立てながら、母の作った赤飯を片手にアイツの家の前に立った。

 母や妹にとっては、なんてこと無いお使いだろうが、アタシにとっては不退転の決意である。

 決して大げさじゃない。あの出来事からたったの数時間しか経っていないのだ。たかが赤飯、されど赤飯。これを届ける事にどれほどの覚悟が必要だったことか。

 だからといって、母や妹に行かせる訳にはいかない。あの二人は我が家の爆弾。きっと、アイツに向かってあること無いこと面白半分で嘯くに決まっている。

 だから、これは単純な消去法。取扱注意のそんな爆発物を除いたら、持って行くのはアタシしかいなかったのだ。

 正直に言うと、ほんの数歩の距離を足が震え、押しなれた呼び鈴に指が震えた。

 見上げた彼の部屋は窓が開いていて、まだきっと部屋にいるのだと、余計にアタシの心をすくませる。


 ……いったい、どんな顔して会えばいいのよ。


 少し前の光景が、またもや脳裏をよぎる。アイツはわかっていなかったけれど、あのときアタシはいろいろな覚悟をしたのだ。

 うぅ。と、呻いてしまい、顔から火が出そうになる。今思えば、早まらなくて良かった。でも、彼がイヤという意味では無くて、でも、これがどういう感情なのかわからなくて。結局アタシが耐えきれなくて飛び出しちゃったもんだから、うやむやになったままで、心の整理なんて全然ついていないのに。

 彼に会いたい感情と、同時に、会うのを躊躇うチグハグな感情。でも赤飯は渡さないといけないし、どうしたら良いのかわからない。――ごちゃ混ぜになった頭のままでは、しばらく呼び鈴は押せそうにない。


 「――あら、そんなところで何してるの? 」


 そんな、赤飯を抱きしめたまま立ちすくむアタシを助けてくれたのは、アイツのお母さんだった。

 ゆっくりと開いた扉の先。玄関のたたきには、今から買い物にでも出かけるのだろうか。可愛らしいエコバッグを片手に、おばさんは柔らかな笑みをこぼした。


 「あがんなさいな」


 地獄に仏。いや、女神とはこのことか。

 その一言で、アタシは少しだけ涙が出そうになった。

 おばさんは、いつもアタシを助けてくれるし、必ず味方になってくれる。いつだったか、売り言葉に買い言葉で、珍しくアイツと大げんかした時も、ごめんなさいが言えなくて今日みたいに玄関先で待ちぼうけ。

 今思い出しても腹が立つ。アイツ、アタシに向かって『大嫌い』なんてぬかしたのだ。『キライ』は絶対に言っちゃいけない言葉なのに、『大嫌い』だなんて言われた日には、アタシがどれだけ傷ついたことか。まぁ、確かに、アタシも負けないくらいヒドいことを言ったのだから、反省はしているのだけれど。

 そんな、もうグズグズに泣きはらしたアタシを見つけて、『ケンカなんて、出来るときにやらないともったいないわよ? 』なんて、笑いながら抱きしめてくれた。

 あれから何年も経ったというのに、相変わらずおばさんにはすべてお見通しのようで、――招かれた先、キッチンで赤飯の入ったタッパーを手渡すと、


 「いいことあったみたいね? 」


 肘でアタシの脇腹を軽くつついてきた。

 別に、な~んにも。顔を背けながら精一杯強がってみせたけど、さすがはおばさんよね。あの暴君でもあるアタシのお母さんが、まったく頭の上がらない人だもん、やはり人生の経験値が違うのよね。相手の方が一枚上手。


 「あの子はまだ部屋にいるわよ。ここらで一気に押し倒しちゃいなさいな」


 私はしばらく買い物にでも出かけるから。そうね、ついでにお茶でもしてこようかしら。

 なんて、笑いながらそんなことを言うもんだから、変な意味では無いのかもしれないけれど、アタシはもう顔から火が出そうになる。


 「そういうんじゃないもん」


 誤魔化すように言い捨てて慌てて部屋を出た。きっと、その場から逃れる為だったと思う。でも、今思えば、上手い具合に乗せられたのかもしれない。

 なんせ、用事を済ませたのだからさっさと逃げ帰れば良いものを、おばさんが変なことを言うんだもん。妙に焦ってしまい、そして、日頃の習慣も相まって、アタシは無意識に彼の部屋へと続く階段を上ってしまい、――今に至るわけだから。


 ……かなわないなぁ。


 そう静かに独りごち、アタシは床に投げられた雑誌を拾うと、苦笑い。

 今回もまんまとしてやられた。彼を起こさないよう静かに机を元の位置に戻し、汚れた天板を拭き上げる。結果的に、またこの部屋に戻ってきたわけだし、素直になれないアタシへの、おばさん流の上手くやりなさいという助け船だろう。

 もはや定位置となったベッド脇に腰を下ろし、部屋の隅に投げられた彼の洋服を畳んでいく。

 そういえば。と、アタシは彼の学生服を手に取った。確か袖口のボタンが外れかけていたはず。

 クローゼットを開けて私物の裁縫セットを取り出すと、よいしょ。なんて、おばあちゃんみたいな声を出してしまうのは内緒。定位置に座り直し、お母さんやおばさんに比べるとおままごとみたいな手際だけど、少しでもキレイに出来るようゆっくりと針を走らせる。


 「……あぁもう」


 こんなこと言っても言い訳にしか聞こえないけれど、窓から差すオレンジ色が強く、手元が狂い、苦戦してしまう。

 でも、カーテンを閉めたら暗すぎる。だからといって電気なんてつければ、彼を起こしてしまうから、きっとアタシはいつものように可愛くないことを言ってしまうだろうし、今はこのままでいい。

彼が一度眠るとなかなか起きないことは知っているのだけれど、万に一つがあっても困る。


 ……それからどれくらい経っただろう。ボタンをつけ終える頃には、夕日が今日のお勤めを終えようとしていた。


 ほんの少し肌寒い、明度のおちた部屋。アタシは制服を膝に置くと、横目で彼を盗み見た。

 そしてやっぱりにやけてしまう。何度も頬に手を当て揉みほぐしてみても、まるで其所が定位置のように口角が上がってしまう。


 ――好きだ。好きだ。愛してる。


 彼の言ったあの言葉が、未だに耳の奥に残り頭の中で鳴り止まない。

 嬉しかった。本当に嬉しかった。涙が出るほど嬉しかった。アタシは泣き虫でワガママで意地っ張りだから、こんな面倒なヤツ恋愛対象として見てくれていないのかもなんて、落ち込んでいたのだから余計にだ。

 今日という日を、アタシはきっと忘れることは出来ないだろう。

 初めて見る、彼のこれでもかというほど真剣な顔と、アタシに向けたアタシだけの為のあの言葉。心臓はもう張り裂けそうなほど高鳴って、握られた手は溶けてしまいそうだった。

 そして、あの目がトドメ。あれは卑怯だ。ただまっすぐに真摯にアタシの目を見てくるもんだからたまらない。

 思い出しても、胸が痛む。イヤな痛みではなく、内側から温かいものが張り裂けんばかりに溢れそうになるのだ。

 これを幸せというのだろうか。他人が聞けば、鼻で笑うチープな回答かもしれないのだけど、まだ十数年しか生きていないアタシでは、他に例えようがない。

 あのときの事を思い出すたびに、言い表せない感情が胸を支配する。こういうのを多幸感と言うのかもしれない。彼に会いたい、側に居たいと、心が叫んで仕方が無い。

 学生服を抱きしめると、彼の匂いに包まれる。そして、やっぱり我慢できなかった。


 ――彼が寝ているときだけの、アタシだけの秘密。


 少しだけ。と、静かにベッドの縁に突っ伏して、顔を上げる。

 何度やってもたまらない。アタシは『にひひ』とはにかんでしまう。妹からは笑い方が気持ち悪いなんて言われるけど、こればかりはどうしようもない。

 なんせ彼の顔が目と鼻の先。そして今、この特等席はアタシだけのもの。意地っ張りで可愛くないアタシが、素直になれるそんなひととき。笑みがこぼれて当然だ。

 それにあの出来事のせいか、見慣れたはずの顔が、不思議といつもより凜々しく見えてしまう。

 こうなると、もう止まらない。


 ……この、ねぼすけめ。


 よせばいいのに、アタシは彼の頬を指で軽くつつく。

 ぷすーっと彼の口から息が漏れ、アタシもつられて頬が緩む。規則的な寝息すら今のアタシは愛しいと感じてしまう。

 彼の寝顔は世界一可愛い。これは誰にも教えない小さい頃からのアタシだけの秘密。――そして、今まであったもう一つの秘密。

 それは、ずっと言いたくて、でも言えなかった大切な秘密。

 そろそろ日が暮れる、そんな薄暗い部屋で、彼の顔を前にして、アタシは少しだけ躊躇してしまう。

 でも、いつかは言わなきゃいけないことだから。

 彼も勇気を振り絞って言ってくれたのだ。しかもコイツはニブチンだから、きっとアタシからも言わないとダメだろうから。


 ――もう見えづらくなった彼の唇に、アタシはそっと、軽く指を当てる。


 そして、二日後に同じ事を言おうと心に決めて、その愛おしい寝顔に呟いた。


 震える唇で、


 「……好きです。好きです。愛しています」







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