if ~明日が本番なんだから~
本編ではない、ifの話。少し未来の、もしものお話。
ふと、自分が居眠りしていることに気がついた。
外気に揺らされるカタカタといった窓枠の音に、ハタリと現実世界へ引き戻される。
――いけない、鍋が吹き零れる。
はっと机から身体を起こし、目の前の洗濯物はいったん放置。……失敗したわ。アタシとしたことが、料理の途中で居眠りだなんて。
手元の時計は信じられないほど先に進んでいて、どうしよう。鍋の中はもはや絶望的。
『まったく、火の元には注意しろよ? 』
ついこの間、彼に注意されたばかりなのに。どうやらまた、アタシは鍋を火にかけたまま、ウトウトとしてしまったみたい。
どうしよう、もう彼が帰ってきてもおかしくない時間だし。どうしよう、メインに据えるはずだった料理もない。それに、買いに行く予定だったから、どうしよう、主役のケーキも不在のまま。
今日は特別な日だからって、せっかく朝から手をかけていたのに。
前々から計画して、驚かせようと頑張ったのに。
美味しいって、食べて欲しかったのに。
……思い出になるくらい喜んで欲しかったのに。
不覚にも半べそをかきながら、青ざめながら、アタシは台所へ向かう。
もうこうなったら有り合わせでどうにかするしかない。
今更、手の込んだ料理なんて作る時間はないし、とうぜん部屋を飾り付けるヒマも無い。ひどく納得がいかないけど、こればっかりはどうしようもないもの。
もとはと言えばアタシの馬鹿みたいなミスが原因だし、なにより、一生懸命働いてくれている旦那様にひもじい思いはさせられないわ……
……なんてね。今更だけど、ホント、アタシはおっちょこちょいだと思う。
「お、起きたか」
絶句した。もう、確実に心臓まで止まった気がした。
でもね。そりゃ、驚くわよ。
だって、その場にいないはずのアイツが、悠然とフライパンを振り回してるんだもん。
カッターシャツの袖を捲くり上げ、女物のエプロンをつけて……それこそ不器用な手つきで、彼はフライパンを振るう。
「あんまり気持ちよさそうだったんでな。はは、起こせなかった」
辺りには懐かしいソースの香り。
「ちょっと待っててくれよ? もうすぐ出来るからさ……」
昔かいだことのある、どこかくすぐったい香り。
ようやくそこで、アタシは自分の肩にかけられたあるものの存在に気がついた。
……男物のコート。アタシには少し大きな黒いコートが、まるで包み込むようにアタシの肩に乗せられていた。
もう一度言うわ。ほんと、アタシっておっちょこちょい。普通、気づくわよね?
彼が帰ってくれば。
フライパンの音が聞こえれば。
この匂いを嗅げば。
それに、コートを優しくかけてもらえば……
もう、情けないやら、恥ずかしいやら、嬉しいやらで、思わず後ろから抱き着いた。
アイツの驚いたような、ソレでいて気恥ずかしげな声が聞こえたけど、無視よ。無視。しばらくは、この背中から離れられそうにないんだから。
――その日の夕食は、彼特製のヘタクソ焼きそばがド~ンと大皿で登場。
昔、何度か食べたことのある、彼が作れる数少ないレパートリーの中からの一皿。
「たまにはこういうのも悪くないだろ? 」
お風呂上りのアイツが笑う。ホカホカと、体中から湯気を上げて。
「たまには、ね」
そんな彼を直視できないのは、未だに自分の失敗を許せないから。
……アタシは妻失格ね。
こんな日に、旦那に料理までさせて、なにも用意できなくて、自分はグースカ高いびきだなんて。はぁ、情けない。
洗い桶に浸かった真っ黒な鍋を思い出し、そして今、焼きそばを見つめながら、ますます落ち込んでしまう。
「うわっ、濃いな。ソースが多かったか。……はは、やっぱりお前に任せたほうがよかったみたいだ」
ダメね。目の前の、あの笑顔を見ているとより一層へこむ。
「……ごめん」
しょんぼりとしたまま、アタシは謝る。
本当に、ごめんなさい。
突然の謝罪に、オロオロとする彼の顔を見ながら――アタシは決意した。
「……明日、その、何食べたい? 」
それにはまず、手始めにアイツの好きなものを。
「そうだなぁ……」
お腹いっぱい美味しいものを。
そして、こう誓うの。
いい妻になります。と、いつか誓ったその言葉をもう一度。
いい妻になります。と、目の前の、優しいあの人の顔を見つめながら……
「……ビールのむ? 」
「お。ありがたい」
お酒は土曜日の夜だけ。これはふたりで決めた大切なルール。
でも、今日ばかりはせめてもの罪滅ぼしかな。なんて、アタシはそのつもりだったのだけど――最高のクリスマスプレゼントだな。彼がそう笑うから、ちょっとだけ涙が出た。
「……今日はまだイブだもん。クリスマスは、明日なんだから」
みてなさい。明日は最高のクリスマスにしてやるわ。
ビールを片手にもう一度、アタシは彼の背中に抱きついた。
……窓の外は、静かに雪が降っていた。