闇を乞う水(9)
水そのものでなくとも、水に濡れ光る場所ならばどこにでも体を溶け込ませ、移動することのできる喜平の忍術【水鏡】である。
下準備はできていた。
その日の野営地を決めた時点で、喜平はあたり一面に水を撒いていたのだ。
冷たくて寝られない、と文句を言う牡丹にはかいがいしく丸太で作った寝床を提供して。
喜平の甘い対応に兵介はやや苦い顔をしていたが、結局のところ、里でも指折りの実力者であり、また唯一の少女である牡丹には兵介も甘い。特別製の寝床で牡丹は今も、起きているときの嵐のような激しさなど想像もつかないほどに、穏やかな寝息を立てている。
兵介と牡丹の寝ている近くに立ち、小太郎は立ち並ぶ木々の向こうに目を凝らした。
すでに戦いは始まっているようである。
時折、喜平の寸鉄が月の光を浴びてきらめき、それと同時に物の怪の小さな断末魔が聞こえる。一撃のうちに仲間を葬り去られた物の怪たちは、鋭い爪で牙で襲撃者の影を切り裂くが、喜平はすでに濡れた大地に身を没している。
神出鬼没の暗殺者の独壇場ともいえる状況に、彼らを取り囲む物の怪たちは見る見るうちに数を減らしていく。喜平の刃から逃れた幸運なものも時折現れるものの、感覚を張り巡らせた小太郎の一閃にむなしく敗れ去っていく。
「いやあ、お見事だにゃあ」
空っぽの竹筒を振りながら、シロは楽しそうにその様子を眺めている。殺戮の対象が人間でないとはいえ、血しぶきの飛び交う凄惨な光景を顔色ひとつ変えず、いや、嬉しそうに楽しそうに眺めているところは、どう考えても普通の神経を持った女性とは思えない。
牡丹でさえも、多少は表情を硬くするのではないだろうか。
闇中での無音の戦いは喜平と小太郎の勝利でほどなくして終わった。
小太郎の目の前の地面に喜平の頭が現れ、次第に穏やかでしなやかな体が浮かび上がった。困ったような笑顔が血の網に彩られているのがまた凄惨さを引き立てる。
「シロ――殿」
開口一番喜平はシロの名を呼んで、左手に持った何やら白っぽく細長いものを放り投げた。
「あっ、管! ありがとにゃあ」
きゅうきゅうと鳴きながらうごめくそれらの生き物を、シロは空中で受け止めた。四匹のそれは、すぐにシロの左手の筒の中へと体をもぐりこませる。同じ筒に入ろうとしている二匹がいて、「こら、お前はこっちだにゃ」とシロに怒られているところはご愛嬌というものか。
「うっかり斬ってしまうところでしたよ」
とろけるようなシロの笑顔を前に、喜平は細めた目をかけらも崩さず、吐き捨てるように言った。
「そう簡単には斬れにゃいよ」
シロがにんまりと笑った。
喜平の眉がぴくりと上がる。
常に下がり気味の眉が吊り上がり、シロにまっすぐに視線を注ぐ。まるで辺りの温度が氷点下に達したような冷え冷えとした空気は、しかし、すぐに消えた。
「……小太郎もありがとう。おかげで助かったよ」
シ小太郎に話しかけた時の喜平は、いつも通りの穏やかな表情だった。
息を弾ませて、小太郎はぷるぷると首を振る。
喜平の役に立てたという興奮と、シロに見せた喜平らしからぬ冷ややかな表情が疲れ切った脳裏でないまぜになり、小太郎の頭を混乱させる。
「小太郎の技が磨かれているとは聞いていたけど、まさかこれほどまでとは思ってもいなかった。俺もうかうかしてはいられないな」
「そんな――」
混乱した頭を抱えたままの小太郎の様子に、喜平がははっ、と笑う。
「ひどい格好だ」
喜平に負けず劣らず、小太郎も物の怪たちの生臭い血を全身に浴びていた。
牡丹にどやされる前に体を流してくるように喜平に言われて、小太郎は近くの沢へと向かった。念のため、一方の手には短刀を握り、全身に警戒をしたままで。「あたしも行こうかにゃあ」と、腰を上げかけたシロの背に、「シロ殿、あなたはここに」と喜平が短く、だが鋭い声をかけた。
シロは動きを止めて、喜平を振り返り、媚びた微笑とともに首をかしげた。
「清潔にするのは女性のたしにゃみだにゃ?」
「ならば、小太郎が帰ってきてからでお願い申します」
「……信用されてにゃいということか」
喜平はそれには答えずに、シロもまた、おとなしく小太郎が沢に行くのを見送った。険悪な空気が流れていたのに気づかなかったのは小太郎だけである。
「小太郎、さっぱりしたらまた寝るといいよ。体を使ったから、少しは休めるだろう」
どこまでも優しい喜平の声だった。