闇を乞う水 (7)
「――!」
人々はどよめき、牡丹と小太郎は口をぽかんと開け、兵介と喜平は目を細めた。状況が分かっているのかいないのか、シロはうっすらと微笑を浮かべたままだ。
「嫌がる女を相手にするのはやめろっていっつも言っていたはずなんだがなあ。俺も愉しみ、相手も悦ぶ、一挙両得ってやつが一番だってよ」
愚痴とも説教ともつかぬ独り言を口にしているのは、若い男である。赤を基調とした極彩色の着物を身にまとい、風になぶられているようにふらりふらりと左右に揺れている。着崩した衣服は女もののようだが、それがしっくりくる奇妙な雰囲気を持った男だった。
「やあ姐さん、失礼したね」
凄みのある男前をだらしなく弛緩させて、男はシロに流し目を送る。だが、それよりも何よりも圧倒的な存在感を漂わせていたのは、無造作に右手に下げた獲物――斧だ。
樵がふだん使うような形状ではなく、柄を通常よりも長くし、太刀の間合いをこえて、槍と同等の腕の長さに改造したものである。
何のために改造したのか? という疑問は、男の斧から滴り落ちる血が如実に示していた。
「君たちも、俺の手下どもが勝手なことをしたようで」
と、差し出された男の手に、喜平は応えることなく小さく礼をして、寸鉄を懐へと戻す。
男は別段、気にとめる様子もない。笑みを浮かべたまま、四人とそしてシロを眺めて、再び視線を喜平にむけた。
「俺は紅。この辺りを仕切らせてもらってる者だ。またもめごとがあったら、遠慮なく俺を呼んでくれ」
「……なかなか物騒なものをお持ちで」
「君も負けていねえぞ? 虫も殺さねえ顔で、やることはおっかねえ」
言って、紅と名のった男はくつくつと笑う。
喜平の持つ寸鉄が、周囲に気づかれぬように相手の急所を突く、いわゆる暗殺用の武器だと理解しているのだろう。とすると、喜平達四人がただの住人あるいは旅人でないことも見通しているに違いない。
「名前は?」
「喜平」
きへいきへい、と紅は何度か口の中で繰り返し、それからにっ、と笑った。
「いい名だな。また会おうぜ、喜平くん」
ひらひらと手を振って去っていく紅の後姿を見送って、喜平と兵介は息を吐いた。
「……あいつ、できるな」
「うん。俺たちの里にいても、かなり上位になるだろうね」
態度こそ気だるげなものの、紅が武器を振る速度は目を見張るほどだった。軽い、何でもないことのように振っていただけに、本気をだした時にどれだけの速さになるか、想像するだに恐ろしい。
「それにしても、だ」
兵介はいつもの苦虫をかんだような表情をさらに苦々しくゆがめて、仲間たち三人を見回した。村人と大道芸人たちは、紅の行った惨劇に肝を抜かれて、すでに散逸している。
「喜平、やりすぎだ」
「でも、俺がやらなかったら、兵介がやってただろう? 兵介が出ていくほうがよほど厄介だ」
あくまでも穏やかな喜平の返答に、兵介は一瞬うっと言葉を詰まらせ、それから短く答えた。
「俺は、峰打ちのつもりだ」
峰打ちといっても、兵介の剣技、剣速でやられては、相手はただでは済まない。喜平も兵介もそれは承知の上である。喜平に助けられたとは分かっているものの、最年長者としては苦言を呈さざるをえない。
年長者同士の低い落ち着いた会話を交わして、それから二人は怒りの行き場をなくして、複雑な表情を浮かべている小太郎と牡丹に目を向けた。
「小太郎、牡丹」
精悍な顔にあからさまな怒りをにじませて、兵介は二人の名を呼んだ。
「目立つ真似はするなといったはずだ。特に牡丹、お前のことだ」
「……でも」
「俺たちの目的を失ってはならぬ」
再度開きかけた口を閉じて、牡丹はおとなしくうなずいた。牡丹が群衆の前で怒りに任せた忍術【赤花】を使ったらどうなるか。それは考えるまでもない。ならず者たちはもとより、野次馬たちの何人かも炭と化すことは間違いないだろう。
目立つどころの騒ぎではない。
噂は一帯に広がり、目指す人物にいらぬ警戒を与えることになるに違いなかった。喜平の行動はそれを防ぐための、ある意味、必要悪ともとれるものだった。だからこそ、兵介は形式的に喜平に注意するだけにとどめたのである。
「無駄な時間を取ってしまった。行くぞ」
「にゃっ、ちょっちょっと待つにゃ」
兵介の言葉に合わせて、音もなく体の向きを変えた四人に、今まで存在を完全に無視されていたシロが慌てて声をかけた。兵介だけがくるりと顔を捻じ曲げてシロを振り返る。にらみつけているといったほうが近いその視線は鋭く、腰に下げた刀よりもなお一層鋭く感じられた。
普通の人間どころか、甲賀の者でさえも金縛りになってしまうほどの視線を受けて、だが、シロはにんまりと笑った。
「ありがとにゃあ」
素直で無邪気な言葉と笑顔。兵介は片眉を軽く上げて、怪訝そうな表情を作る。
「商売の邪魔をして悪かったな」
「そんにゃそんにゃ、とんでもにゃい」
短く言葉を吐き捨てて、駆けだすために足に力を込めた四人の前に、シロは首と手を振りながら身を躍らせた。文字通り踊るように軽々と、四人の背後から目の前へと、シロは身を投げ出したのである。
四人は目を丸くして、その次の瞬間、思い思いの体勢に移った。すなわち、兵介は飛びずさり鯉口を切った居合の構えに、喜平は腰から瓢箪を取り、あたり一面に水をまき散らし、小太郎は短刀を握りいつでも飛びかかれるような低い体勢に、そして牡丹は顔の前で印を組みつつシロから距離をおいた。
自分を中心におよそ九十度の扇状に広がった四人の忍者と彼らの放つ鋭い殺気の波をその身に受けながらも、シロは平然とした表情のままだった。
「――何者だ」
「んにゃあ、そんにゃこといわれても困るにゃあ。あたしはただのしがにゃい大道芸人だにゃ。芸のひとつとして軽業を身に着けたけど、それだけだにゃ」
軽業の一言で片づけるにはあまりにも見事すぎた。何の予備動作もなく、訓練を積んだ四人の忍者たちの上を飛び、ほとんど音もたてずに降り立った。里で一番とみなされている小太郎に匹敵する身のこなしだろう。
「何用だ?」
「んー、改めて聞かれると恥ずかしいんだけどにゃ――」
返答次第では斬るという決意を秘めた兵介の問いかけだが、シロは何らおびえる様子もない。先ほどの動きを見る限り、兵介の気配を感じられないわけがない、にもかかわらずである。
「あんたたちの血を飲ませてくれにゃいか?」
「なに!?」
「ああ、いや違うんだにゃ。飲むといっても、ほんのちょこっとだけ、指先だけぺろっとにゃめさせてもらいたいんだ。誤解しにゃいでほしいにゃ」
と、シロは親指と人差し指で作った輪っかの接合部にわずかな隙間を開けて主張する。その発言自体が大きな問題であるとは考えてもいないようだ。
「俺たちの……血と聞こえたが」
「その通りだにゃ。理由は分からにゃいけど、あんたたちの血はとてもおいしそうにゃ匂いがしているんだにゃ。あんたたちの強さを理解できにゃい化け物どもにゃら、我を忘れて飛びかかっていきそうにゃくらいに」
一瞬、四人は目を丸くした。
昨夜起きた、得体の知れぬ生き物たちからの襲撃が脳裏をかすめる。
「にゃがねん生きてきて、こんにゃにおいしそうにゃ血にあったのは初めてだにゃ。死ぬほどはとらにゃいから、お願いだにゃ」
「……貴様、化け物か?」
「否定はできにゃいにゃ」
「血はやらん」
女と問答をかわしつつ睨みつけていた兵介が、きん、と音を立てて刀をしまった。それを合図に、ほかの三人も戦闘態勢を解いた。最年長である兵介ひとまずは敵でないと判断したのである。
「血ならあそこにたくさん流れているだろう?」
兵介が顎でさしたのは、首のない三人の男たちの屍である。切り口から流れる血の勢いはすでに弱まっているものの、流れ出た血が大きな血だまりを作っている。
「あれはおいしくにゃいにゃ」
すねたように口をとがらせるシロの表情は、会話の内容とは裏腹にかわいらしい。「お願いだにゃ」と拝むように手を合わせるシロは、他の化け物たちとは違い、無理矢理に血を飲みにかかるつもりはないようである。
「何を言おうとも、俺たちの気が変わることはない」
シロをぐい、と押しのけて、兵介は歩き出した。それに合わせて三人も足を進める。
「化け物ならば、おとなしく化け物の世界で生きろ。人の世に現れるな」
「にゃにか勘違いをしているにゃ」
背後でシロがつぶやいた。
「こっちの世界に来たのは、あんたたちのほうだにゃ。あたしたちの世界に足を突っ込んでおいて、かかわるにゃ、とは心外だにゃ」