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嵐に舞う (9)

 静まり返った闇の中、自分の呼吸の音と血の滴り落ちる音だけが小太郎の耳に響く。


 水滴に貫かれた足はほとんど力が入らない。だが、倒れるわけにはいかなかった。

 倒れた先には死を意味する【蜘蛛の糸】が無数に張り巡らされているのだから。

 小太郎にできるのは歯を食いしばり、足を踏みしめることだけだ。


 どうすれば。


 幾度とも知れぬ水滴に身を貫かれながら、小太郎は自問する。重力に負けてこのまま倒れてしまうことが死を意味するのは明白だが、かといってこのまま耐えていたとしても、死を回避することにはならないのだ。

 苦痛を伸ばし、いずれ来る死をいたずらに引き延ばしているだけだ。


 血塗られた魂、と美青年は言っていった。

 今の自分は、まさしくそれだ。このまま【蜘蛛の糸】に抱かれて自由になりたい、そんな思いにとらわれた小太郎の耳に、水音が入ってきた。

 ぽちゃぽちゃと音を立てて、小太郎の腰から下げた瓢箪の中で水が揺れている。

 喜平の形見の瓢箪から聞こえる音は、すべてを諦めてしまおうとした小太郎の心に深く、強く響いた。


「ごめんな、喜平……」


 傷ついて、ぼろぼろになった唇をゆがめて、小太郎は小さくつぶやいた。

 引きつった顔からは読み取りにくいが、それは明らかに笑みだった。


「兵介……牡丹……」


 斜めに背負った兵介の刀と、牡丹のかんざし型の武器。

 仲間たちの忘れ形見が、分身が、小太郎のもとにあった。


「四人で戦うんだよな」


 呟いて、それから小太郎はきゅっと唇を引き締めた。

 自分がここで諦めたら、それこそ三人の死は無駄なものになる。

 何者かの意図に踊らされて、祭壇に捧げられただけの命に変わってしまうのだ。


「少年!」


 シロの声が小太郎の背後で聞こえた。烏天狗を全て倒して、小太郎の元へ駆けつけてくれたに違いない。


「大丈夫にゃのか? あたしも力を――」

「近づくなっ!」


 にゃあにゃあ騒ぎ立てるシロに、小太郎は振り返らないまま怒鳴りつけて、奥歯をかみしめた。口の中も血の味で染まり、小太郎は唾を吐き捨てた。


「一帯に罠が張り巡らされている。いくら化け物でもばらばらにされたら生きてはいられないだろう?」

(わにゃ)!?」


 シロの声に小太郎は何も返さなかった。いや、返せなかった。

 見開かれた小太郎の目はただ一点に縫い留められていた。

 先ほど吐いた、血混じりの――というよりも、唾混じりの血が細い線状になって目の前の空間に浮かんでいる。

 頭領の鋼線に血が付着しているのだ。


 なんだよ、簡単なことじゃねえか。


 小太郎は口元をふっと緩ませた。考えれば簡単だが、ここまで満身創痍にならねば見つけられなかっただろう。

 瓢箪の口を開けて、小太郎は自分の口中にどっさりとたまった血をその中に注ぎ込んだ。加えて、指の先から滴り落ちる血を注ぎ込み、さらに傷口から血を絞り出す。


 いぶかし気に眉をひそめる頭領を気に留めず、小太郎は瓢箪を軽く振って、中身を周囲にまき散らした。振り回した腕が糸に触れて、肉がえぐり取られるが、その程度の痛みはもはや微々たるものだった。


「よし」


 漂う濃厚な血の匂いの中で、小太郎は小さくつぶやく。


 小太郎の視界に、頭領の糸がくっきりと浮かび上がった。

 血に染まった、赤く細い【蜘蛛の糸】の軌跡が暗闇の中に現れたのだ。ネズミでさえも通り抜けることの不可能なほどに、微細に繊細に紡がれた死の繭が、小太郎の四方を取り囲んでいた。


 一か八かで突撃しなくてよかった、と内心冷や汗をかきながら、小太郎は自分の腰の短刀に目をやった。小太郎が腰から常に下げている短刀は、使い捨ての利く安物だ。速さを最大の武器とする小太郎にとって、刀はあくまでも道具に過ぎなかった。


 小太郎は兵介の刀を抜いた。

 頭領の術に対抗しうるのは、兵介の持つ名刀以外にはありえなかった。

 本来の持ち主である兵介であれば、豆腐を斬るように【蜘蛛の糸】を斬れるかもしれない。彼の実力をもってすれば、矛盾の言葉は意味をなさないのだから。


 だが、小太郎では数本の鋼線を斬るだけで名刀にさえも過剰な負担をかけることになってしまう。


 ――無駄にはできない。無駄に斬ることは許されない。


 再び襲い掛かる水のつぶてから体を張って刀を守りながら、小太郎は最短で頭領のもとへたどり着ける道を探す。小太郎自身の唯一の武器を最大限に利用する方法について、必死に頭を巡らせた。

 何度か水での攻撃を受けているうちに、水を噴出した後にわずかながら時間が必要であることに気づいていた。息をためる時間か、水をためる時間かは分からないが、その一瞬が小太郎にとっての好機だった。


 高速で噴出される水滴に肩の肉をえぐられる。


 肩をえぐられると同時に、小太郎は兵介の刀を振りかぶり、目の前の鋼線を断ち切った。

 鈍い衝撃が小太郎の腕を伝わる。やはり、兵介のようにはいかない。鈍い感覚は、刀に負担をかけている証拠だ。

 あと少しだけ耐えてくれるように祈りながら、小太郎は刀が作った道を駆ける。


 鋼線を斬り、駆け、斬り、駆ける――


 耳障りな音とともに兵介の刀が折れたのは、最後の一本を断ち切った後だった。

 それまで折れなかったのが不思議なほど、刀身は欠け、ぼろぼろになっていた。傷にまみれながらも、二人の無事を見届けてから息絶えた兵介のように。


 刀が折れると同時に、小太郎は宙に躍り上がっていた。


 手に握られているのは、刃渡りの短すぎる短刀ではなく、牡丹の武器――

 赤い蝶の舞う苦無だ。


 小太郎はとがったその先を頭領の目玉に突き刺した。

 深く、深く、小太郎の手が眼球にめり込むほどに深く。


 目玉を狙うという手段は、小太郎が化け物たちを倒すときの常套手段だ。ためらわずに目玉を刺したのは、無意識のうちに、頭領を人ではなく化け物として扱っていた証左だろう。

 人とは思えぬうめき声をあげて、頭領が小太郎を振り払った。たどり着くまでに力のほとんどを使い果たしていた小太郎は、抵抗らしい抵抗もできずに抜け出したばかりの死の繭に向かって吹き飛ばされる。


 空中で全身を鋼線に蹂躙されて、地面に着くころには肉塊となっているはずの小太郎は、その前に、柔らかな毛並みに包まれた。

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